Tuesday, December 05, 2006

グレゴリオ『純粋理性批判殺人事件』

旅の本。8月末日、羽田空港にて、機中読書・バカンス読書のため、マイケル・グレゴリオ作『純粋理性批判殺人事件』(角川文庫、2006年)の上巻を、巷で話題沸騰であるらしいdeath noteという漫画の最終巻とともに購入。原題は、Critique of Criminal Reason。『犯罪理性批判』とでも訳せば、サルトル『弁証法的理性批判』に始まり、ドゥブレ『政治的理性批判』を経て、スローターダイク『シニカル理性批判』に至るカント・パロディの系譜に(かすかに)連なることが容易に想起されるわけだが、一般読者向けにはたしかにこの邦題がいいだろう。

表題から察するに、名探偵カントか、天才的犯罪者カントが登場するのであろうという見込みであった。背表紙によれば、「世界中の出版エージェントの度肝を抜いた大型新人デビュー作、壮大な歴史ミステリ!」であるとのこと。遅読の私も、二三日で読了。

別にどうということのない本なので下巻を買わずにいたが、やはりなんとなく気持ちが悪いので、最近下巻を購入。堅忍の一字とともにやはり数日で読了した。「唯一の手掛かりが導くありえない真実」という帯の文字は先の触れ込みに比べれば食指をそそるが、しかし内容に適合したものとは必ずしも言えない。

カントの「根元悪」(radikale Böse)の概念を「あらゆるものの中で最も極悪非道なもの。冷酷な殺人。動機のない殺人」(下・139頁など)と結びつけるという発想自体は悪くない。カントが探偵なのか犯罪者なのか最後まで分からないというプロットも悪くないと思う。にもかかわらず、読後感を正直に言えば、本書を人に薦めようとは思わない。なぜか。

結局本書をつまらないものにしているのは、作者の皮相なカント理解である。カントが探偵なのか、犯罪者なのか、あるいはそれ以外なのかはここでは重要ではない。本書の舞台は1804年2月のケーニヒスベルク。したがって登場するカントは最晩年のカントである。問題は、従来のカントを「人間の肉体的および精神的世界を、論理という手段で定義するために一生を費やしてきた」(下・57頁)哲学者と捉え、晩年のカントを老衰や狂気によるそこからの逸脱ないし成熟と見る主人公のカント像がまったく魅力的でない、という点にある。
しかし、彼はおだてられなかった。癇癪を爆発させ、目をぎらつかせ、両手を激しく振り回した。「いかれたカント、と不埒な連中はわしのことを呼んでいる。精神と魂を堅苦しい理論体系と不変の法則の世界に閉じ込めたというのだ。大学での最後の日々は耐えがたかった。実に屈辱的だった。あんな処遇をされたことは、これまで一度もなかった。苦悶に耐えていたのだ!」感情が激して、カントの目はぎらついていた。声は怨念でかすれていた。彼の唇からもれた恨みのこもった笑い声には、ユーモアのかけらもなかった。「やつらは大馬鹿なのだ!非現実的な夢想者…わし一人で計画を立て、実行できるとは想像もできないのだ。連中にはわからんだろう、美しさが…」(下・134-135頁)。

グレゴリオ的カントの言う「美しさ」が探偵的なものであれ、犯罪者的なものであれ、このような取り乱した場面は必要なかったのではないか(カント時代の大学については、下記2002年10月14日の項参照)。性格の複雑さを見せるのはいいのだが、それを老齢や時代状況の変化のせいにするのは安易に過ぎるということだ。

晩年のカントが聖書的伝統に準じて弱い人間の魂を「曲がった木」(下・138,140頁)と見た、というのはよい。しかし、それを「人と人の関係では論理は通じない」(同上)などという凡庸な一言で片付けてしまっては、《道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへ》という移行の両側が―いわゆる批判期までのカントも晩年のカントも―色褪せて見える。

「いや、グレゴリオの描写はもう少し微妙だ」と言う人もあるだろう。実際、カントの発言が魅力的に見える場面も確かにある。だが、カント「最後の著作」を主人公が破いて川に捨てる場面を見る限り、作者がこの論文の「書き手」がカントでなかったという事実を最大限利用しなかったこと、ひいては哲学者カントの何も理解しなかったことは残念ながら明らかである。

翻訳は読みやすかったが、一点だけ。下巻285頁の《カント教授なら「至上命令」だといっただろう》というのは、原文を確かめたわけではないし、最近出た岩波版全集の訳語も知らないのだが、「定言命法」としたほうがよかったのではないだろうか。

道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへという移行に豹変を見るのではなく、むしろ、それまでのカントの思索の「論理的」帰結として、『実践的見地からする人間学』――これは1798年、カントが生前自らの手で刊行した最後の著作である――刊行と並行して、『犯罪的理性批判』の実践(執筆ではなく)が行われていた、といったストーリーのほうが少なくとも私には興味がもてるような気がする。要するに、pathologischという語のカント的用法に着目することで、リゴリズム道徳哲学の極北と見なされていた『実践理性批判』の只中に享楽の論理を見て取ったラカンの「サドとともにカントを」(Kant avec Sade)のほうが、はるかに『犯罪理性批判』の名にふさわしいのではないか、ということだ。

ちなみに、帯には「呪いと理性が同居する稀有な時代を精緻に描く、この夏のミステリ決定版」という文句もある。フリーメーソンや黒魔術、あるいは錬金術や動物磁気のことを念頭においての台詞だろうが、心理学や精神分析、社会学やシステム論、「マイナスイオン」や「トキソプラズマ」だって、百年後にどう言われているかは知れたものではあるまい(2002年10月19日の項)。細木某や江原某の流行る日本については何をかいわんや、である。呪いと理性は、 この意味では、あらゆる時代に同居しているのである。

カントについては、ドイツ語訳も出ているこちらのほうが圧倒的に面白いので、お勧めしておきたい。紹介はいつものごとく中途半端で終わってしまっている。
ボチュル『カントの性生活』(1)2002年1月2日の項
ボチュル『カントの性生活』(2)2002年1月12日の項
ボチュル『カントの性生活』(3)2002年10月13日の項
ボチュル『カントの性生活』(4)2002年10月14日の項
ボチュル『カントの性生活』(5)2002年10月17日の項
ボチュル『カントの性生活』(6)2002年10月21日の項

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