Tuesday, January 15, 2013

【訃報】大島渚さん80歳=映画監督

訃報:大島渚さん80歳=映画監督

毎日新聞 2013年01月15日 19時34分(最終更新 01月15日 22時51分)



映画監督の大島渚さん=2000年3月16日、山下浩一撮影
映画監督の大島渚さん=2000年3月16日、山下浩一撮影

「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」などで知られる映画監督の大島渚(おおしま・なぎさ)さん が15日午後3時25分、肺炎のため神奈川県藤沢市内の病院で死去した。80歳。通夜、葬儀の日程は未定。喪主は妻で女優の小山明子(こやま・あきこ、本 名=大島明子)さん。
 京都市生まれ。京都大卒業後の1954年、松竹大船撮影所に入所。59年「愛と希望の街」で監督デ ビュー。60年には「青春残酷物語」「太陽の墓場」を発表し、作品の社会性と斬新な演出で、同時期に入社した吉田喜重、篠田正浩両監督と並んで“松竹ヌー ベルバーグ”と称された。
 61年に松竹を退社し、独立プロ「創造社」を設立。「飼育」(61年)、「白昼の通り魔」(66年)、 「絞死刑」(68年)、「儀式」(71年)など次々に問題作を発表した。創造社解散後の76年、フランスとの合作で「愛のコリーダ」を製作。激しい性描写 が物議を醸し、映画のスチール写真を掲載した単行本「愛のコリーダ」が、わいせつ文書にあたるとして、摘発された。82年に無罪確定。
 劇映画だけでなく、「忘れられた皇軍」などテレビドキュメンタリーでも活躍。弱者の現実を体制批判を込めて描き、高く評価された。78年「愛の亡霊」でカンヌ国際映画祭監督賞、83年「戦場のメリークリスマス」で毎日映画コンクール日本映画大賞などを受賞。
 96年、新選組を題材にした「御法度」製作発表直後、出血性脳梗塞(こうそく)で倒れ入院。後遺症は 残ったが、99年に映画を完成させ、カンヌ国際映画祭に出品した。この作品で毎日芸術賞を受賞した。2000年に紫綬褒章。テレビ番組でタレント性を発揮 するなど、お茶の間の人気者でもあった。

 

大島渚さん死去 「自由で素直で大胆であれ、と教えられた」崔洋一監督

産経新聞 1月15日(火)22時52分配信
 「戦場のメリークリスマス」「愛のコリーダ」などで知られる映画監督の大島渚(おおしま・なぎさ)さんが15日午後3時25分、肺炎のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。80歳。葬儀の日取りは未定。

 ■映画監督、崔洋一さん(63)の話「大島監督の下で助監督をしたのは『愛のコリーダ』1本だけ。『お前、助手なんかやめて早く独り立ちしろ』と言わ れ、その後は敬愛する友人としてつきあってきた。映画のことはそんなに話さなかったが、酒の飲み方と人とのつきあい方を教わった。『メインストリーム(主 流派)の中にいるのを良しとするな、自由で素直で大胆であれ』ということを教えられた。常に闘い続けた人であり、その作品の多くは日本語だが、日本という 領域にこだわらず、世界に向けて作品を発信し続けた人だった」

「鮮やかに僕の記憶の中に生きています」藤竜也さん

朝日新聞デジタル 1月15日(火)21時57分配信
 〈大島渚さん死去 「愛のコリーダ」「愛の亡霊」に出演した藤竜也さんの話〉 大島さんと仕事をしたのは、35年も前なのに、戸惑うほど鮮やかに、彼は僕の記憶の中に生きています。大島さんは才能の人である以上に、愛すべき人でした。ありがとうございました、大島さん。

「タブーなんてものともせず」田原総一朗さん

朝日新聞デジタル 1月15日(火)22時45分配信
 〈大島渚さん死去 ジャーナリストの田原総一朗さんの話〉 僕らの世代の最大の日本の映画監督で、残念でなりません。「朝まで生テレビ!」ではタブーな んてものともせず、ガンガン言う迫力とすさまじさがありました。初期の頃から出演し、特異な解放区のような番組にしてくれた大恩人です。怖かったけど遠慮 せずにけんかできる間柄で、大事なアニキでした。亡くなったことで一つの時代が終わりました。コンプライアンスが厳しくなりタブーが広がる中、大島さんの 魂を受け継がなきゃいけないと思います。

 

<大島渚さん死去>体制や権力と戦い続けた映画監督

毎日新聞 1月15日(火)19時53分配信
<大島渚さん死去>体制や権力と戦い続けた映画監督
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映画監督の大島渚さん=2000年3月23日撮影
 体制や権力と戦い続けた映画監督、大島渚さんが15日、亡くなった。生涯を通じ、作品やメディアでの言動を通してタブーに確信犯的に挑んでスキャンダルを巻き起こし、存在そのものが事件となる数少ない映画作家だった。【勝田友巳】

【写真で振り返る大島監督の足跡】

 京都大在学中には京都府学連委員長などを歴任。松竹にトップ入社してからは、メキメキと頭角を現した。デビュー作「愛と希望の街」から問題作。ホームドラマが伝統の松竹大船撮影所にはおよそ似つかわしくない、貧しい少年の恋愛悲劇を階級的視点から描いた。

 学生運動の党派性を討論劇の形式で描いた「日本の夜と霧」は公開4日で上映中止となり、松竹を退社。「愛のコリーダ」では直接的な性表現に挑み、芸術か、わいせつかを巡り激しい論争を巻き起こした。

 その評価はむしろ、海外で高かった。1970年代から回顧上映が行われ、名声は欧州で先に確立した。日本で集まらない資金を獲得するために、いち早く海 外に進出。フランスや英国のプロデューサーと組んで、シャーロット・ランプリングを起用した「マックス、モン・アムール」、デビッド・ボウイ主演の「戦場 のメリークリスマス」などを発表。「御法度」を持って訪れた2000年のカンヌ国際映画祭では熱狂的な歓迎を受けていた。

 発散する強烈なエネルギーは、魅力であると同時に、近寄りがたい雰囲気も醸していた。

 「御法度」で訪ねた京都の撮影所は、監督の気迫で張りつめた緊張感に満ちていた。過去の作品についてはかたくなに語ろうとせず、愚問には烈火のごとく怒る。

 「次回作」という言葉も取材の際のタブーだった。だがハリウッドに渡った日本人俳優、早川雪洲を素材にした「ハリウッド・ゼン」に最後まで執念を燃やしていた。取材で聞けなかったこの映画を見ることは、ついにかなわなかった。

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