Tuesday, June 24, 2014

誰にでも分かる比喩で説明する(1)研究と教育の関係

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さる大学の大学教員から、「あんたの研究なんかどうでもいいんだ。要はうちの大学でどういう教育をしてくれるのか、それを聞かせてほしい」、そうはっきりと理事長面接で言われたことがある、という話を聞いたことがある。

このようなことを言う理事長は、そもそもまったく教育について理解していない。

私たちは、大学が「教育産業」だということを理解している。そして、教員として可能な限りの努力を行なっている。しかし、上のようなことを言う理事長は、大学が「教育産業」だということを理解していない。どこの民間企業のトップが、自社の業種の特殊性について素人で無知だが、その経営には一家言あるなどと公言するだろうか?

「教育について自分は素人で無知だ。だが企業経営には一家言ある」と公言して憚らない理事や理事長や経営陣を前に、彼らにも分かる言葉遣いで、議論を行なって行かねばならない。現在の私立大学は、そのような状況の中にいることが多いのではないか。以下はそのような現状に鑑みて、私なりにつらつらと考えてみた思索ともつかぬ思索の断片である。

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大学経営者の多くが、大学教員から「研究の時間」を奪いさりたがっているように見える。教育とは関係ないと思っているからである。だが、それは間違いであることを、ごくわかりやすい比喩で説明してみる。

優れた研究を行ない、活発に研究業績を発表し、シンポジウムや研究会に招かれる研究者は、ナショナルチーム(プロ野球で言えば侍ジャパンであり、サッカーで言えば日本代表である)に召集される代表選手であり、彼(彼女)が日々教育を行なっている本務校の大学とは、クラブチーム(プロ野球の各球団やJリーグの各チーム)である。

たしかに、研究を活発に行なう研究者は、そうでない研究者に比べて、出張が多く、また学外の(学会や研究会、国際シンポのオーガナイズなど)業務が山積しており、学内的な視点から見れば、不必要な労力を割かれているように見えるかもしれない。だが、そもそも、彼(彼女)が大学のその職に就いたのは、その能力を見込まれてのことであったのであり、まさにその同じ能力が認められているがゆえに、当該研究分野で必要な人材とされているのである。

またたしかに、代表での活躍を重視するあまり、クラブチームで体力温存に走る選手がいるとすれば、それは困りものである。その姿勢は修正されるべきであろう。だが、問題は、代表チームとクラブチームとの間でどのようなバランスを取るかであって、代表かクラブかという絶対的二者択一ではありえないし、ましてや代表で発揮されるべき能力とクラブで発揮されるべき能力が根本的に異なるということではありえない。

つまり、学内で必要とされる「教育能力」と、学外で必要とされる「研究能力」は、発揮の仕方は違うとしても、基本的に同じ能力なのである。香川がマンUと日本代表で違う役割を求められるとしても、発揮すべき能力は同じである。

研究と教育の間に常に「葛藤」があるとしても、決して原理的な「矛盾」が存在しえないのは、ナショナルチームとクラブチームでの活躍の間に常に「葛藤」があるとしても、原理的な「矛盾」が存在しえないのと同じである。

代表に招集されるほどの一流選手は、その能力によって、クラブチームに貢献する。研究で活躍する研究者は、その研究技能でもって、教育に当たるのである。

選手が代表に招集されたことを我がことのように、クラブ全体の名誉として喜び、快く送り出してやる。全面的なバックアップを約束する。それがひいてはクラブチームのためになるのだということを分からないオーナーがいるだろうか?

「あんたの研究に興味はない」と言い放つ理事長は、「あんたの能力に興味はない」と言っているプロ野球チームのオーナーと同じである。

プロ野球チームは、スペシャリスト集団である。彼らの適性を見極め、現在のチーム編成に必要かどうかを(監督や現場の首脳陣とともに)判断するのが、経営陣でありフロントの仕事なのではないのか。

ちなみに、理事長がオーナーなら、理事はフロント(球団社長など)に当たり、学長が監督だとすれば、投手コーチや守備走塁コーチなど、各部門のヘッドが各学部の学部長にあたり、それぞれの学部教員は、投手や野手など各分野のスペシャリストである。

そもそも選手経験のないオーナーや球団社長がプレイを云々すること自体、本来はおかしなことなのであるが、それがまかり通っている以上、議論の土俵には少なくとも乗らねばならない。そして、彼らにしっかりと当たり前のことを理解してもらう必要がある。

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