Thursday, October 28, 2010

Francisco NAISHTAT, ACTION ET LANGAGE Des niveaux linguistiques de l'action aux forces illocutionnaires de la protestation

ACTION ET LANGAGE
Des niveaux linguistiques de l'action
aux forces illocutionnaires de la protestation

Francisco NAISHTAT

Collection La Philosophie en commun

24 €- 262 pages/ISBN : 978-2-296-12494-3

Dans cet ouvrage savant, mais parfaitement lisible, Francisco Naishtat explore une question philosophique majeure, qui est aussi l’une des « questions vives» de la pensée politique : celle des conditions de l’action collective et de la formation de ses acteurs, telle que permet de la repenser la pragmatique du discours. Mais il va au-delà d’une application, même créatrice, des catégories de “speech acts” et de « force illocutionnaire», pour déboucher sur un renversement du point de vue dominant quant aux rapports du performatif et de l’institution. Tirant parti de l’expérience des mouvements protestataires et utopiques liés à la « crise argentine » de la dernière décennie, il entreprend de refonder la pragmatique en lui incorporant la thèse (venue de Benjamin et d’Arendt) d’une force illocutionnaire non conventionnelle, qui déjoue les jeux de langage établis et institue l’horizon d’une “violence non violente”. Cette proposition forte et originale ne restera évidemment pas sans effets.

Etienne Balibar

L'AUTEUR

Après une thèse sur l'action et l'intentionnalité, Francisco Naishtat a été élu (2004-2010) directeur de programme au Collège International de Philosophie où il a dirigé des recherches sur la crise du politique dans le cadre de la mondialisation. Chercheur du CONICET, il enseigne la philosophie contemporaine aux Universités de Buenos Aires et de La Plata.

TABLE DES MATIERES


Présentation
Introduction
Première étude
LES APORIES DE L’ACTION ET LA PERSPECTIVE
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 1
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
PILOSOPHIE MODERNE
1.1. Spectres de Descartes
1.2. La philosophie de l’action de Locke
1.3. La philosophie de l’action de Hume
Chapitre 2
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
SÉMANTIQUE NATURELLE. LES IMPASSES DE LA
THÉORIE DAVIDSONIENNE
2.1. Rationalisations et explications causales d’après
Davidson
2.2. Les impasses de la théorie davidsonienne
2.3. L’ouverture pragmatique
Chapitre 3
LE TOURNANT WITTGENSTEINIEN DANS LA
PENSÉE DE L’ACTION ET LA CRITIQUE DE LA
SÉMANTIQUE RÉFÉRENTIELLE
3.1. Action et langage ordinaire
3.2. Wittgenstein Philosophische Untersuchungen
Deuxième étude
L’ACTION COLLECTIVE AU CRIBLE DE LA
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 4
SUJETS D’ACTION COLLECTIVE
4.1. Les foules dans la perspective de la
tradition positiviste
4.2. Max Weber : atomisme logique et agnosticisme
ontologique
4.3. Dialectique benjaminienne des collectifs dans les
Passagen-Werk
Chapitre 5
QUAND FAIRE C’EST DIRE ET AGIR. L’AGIR
COLLECTIF COMME FORCE ILLOCUTIONNAIRE

5.1. Performatif-causatif
5.2. Le caractère suspensif de l’agir collectif en tant que
disruption méta-communicationnelle
5.3. L’émergence Illocutionnaire du « nous »
5.4. L’agir collectif comme force illocutionnaire
RÉFÉRENCES BIBLIOGRAPHIQUES
TABLE DES MATIÈRES
NOTES

Saturday, October 23, 2010

制度と運動(ささやかなアイデア)

とあるシンポジウムの開催通知と同時に、若手の「参加者」を募集する告知もあった。

8名ほどの研究者が発表する生命倫理系のシンポに、「医療の現場で起こる倫理的な問題に対して人文学ならではの応答をしてもらいたい」との考えから、若手に対して、コメンテーターとしての発表の希望を募るという。

活躍する研究者の発表に若手がコメントをするという形式はあまり人文系では見ない気がして面白いし、発表者たちのアブストラクト集を公表し、「この人の発表にコメントしたい」という申し出を募るという手続きもいい( もちろん候補者多数の場合はなんらかの方法で選抜)。

さらにいいのは、このシンポは出版が予定されているらしいのだが、その際、若手のコメントについても優良なものを選抜して本に収録するそうだ。「制度」というとおおげさだが、こういった「システム」が一つの選択肢として広まっていけばいいと思う。

今、若手の研究者は、発表の場を必要としており、活字化の機会を欲している。これを単に業績主義だと笑うのはたやすい。だが、彼らの置かれた状況を踏まえつつ、良質なものを育成しようとしていくのなら、査読などの入口を厳格化するだけでは(あるいは逆に、就職前の若手を優先するだけでは)足りず、入口自体を多種多様化していくのでなければならないだろう。

やはり、〈制度〉と〈運動〉の問題である。

Monday, October 18, 2010

11/20国際シンポ「結婚の脱構築―レヴィ=ストロース、ボーヴォワール、クロソフスキー、デリダ」

九州日仏学館のHP上ではすでに告知されておりましたが、

ようやくポスターが出来上がりました。前回(3月27日)同様、伴野亜希子さんの作品。とてもポップな仕上がりで、大変満足しております。意味ありげな赤い糸…(笑)。

なにぶんにも地方でのフランス語の国際シンポ開催。負け戦は重々分かっていますが、やっていくしかない。

宣伝・告知をしていただけますと、大変助かります。
皆様のお手元での印刷用には、こちら(画面下にPDFが添付されているはずです)をお使いください。

なお、関連企画として、フレデリック・ケック氏の東京(立教大学)・京都(立命館大学)での講演、パトリス・マニグリエ氏の大阪(大阪大学)での講演が決定しております。ご関心がおありの方はぜひ足をお運びください。

よろしくお願い致します。

Sunday, October 17, 2010

11/13日仏社会学会シンポ「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」

日仏社会学会の大会全体のプログラムはこちらをご覧ください。

14:20~17:20 シンポジウム
   テーマ:「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」 
                          司会:菊谷 和宏(和歌山大学)
  1.ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題  
                            藤田 尚志(九州産業大学)
  2.多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために  
                            伊達 聖伸(東北福祉大学)
 3.フランス社会におけるムスリムの「脅威」   鳥羽 美鈴(横浜国立大学)

  討論者:長谷川 秀樹(横浜国立大学)、出口 雅敏(東京学芸大学)

場所:東洋英和女学院大学(東京都港区)
 東洋英和女学院大学六本木校地                 
 法人事務局・大学院棟地下1階フロアー                 
 〒106-8507 東京都港区六本木5-14-40


●東京メトロ日比谷線をご利用の場合六本木駅下車。3番出口から徒歩10分。
●東京メトロ南北線をご利用の場合麻布十番駅下車。5a番出口から徒歩7分。
●都営大江戸線をご利用の場合麻布十番駅下車。7番出口から徒歩5分。
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/index.htmll

Saturday, October 16, 2010

大学教員の「仕事」

silvalibrorumさんのブログにあった記事「日本の研究者、内向きに…海外派遣10年で半減」。先日のノーベル賞受賞者の対談などでも「学生が内向きに…」という話があったが、森本さんのおっしゃる通りである。

それは別に海外への挑戦云々もさることながら、大学が端的にギチギチな体制を敷くようになった──授業が増え、補講を強制し、会議だらけになった──とい うことと相関しているように思うのだけど、違うのだろうか。こんなに業務だらけで夏休みも浸食されてどうやって海外へ行けというのか。文科省も支援策など というのなら、こういう大学の体制自体について考えてもらってほしいものだと思う。正直、「分身の術」でも身につけないともはや教育と研究は両立しないよ うに思う。あるいは「影武者」か。
私の勤める大学では来年から一学期15週になる(ちなみに、補講は絶対に行なわれる)。四月第二週から始めると、七月最終週に授業が終わり、試験が八月第一週に終わる計算だ。採点に一週間程度。そして九月第二週から後期の授業が始まる。

夏休みが一カ月「も」ある、と友人のサラリーマンたちは言うだろう。だが、次の学期の授業準備もある(授業準備というものに相当の時間がかかり、まともな授業準備が学期中にできないことが、あまりにも理解されていない)。そして、大学の雑務は容赦なく一か月の「夏休み」にも食い込んでくる。

そのうえに、今年は前期も後期も8コマ(講義が4つ、ゼミが4つ。語学は一つもない)、来年はさらに増えるであろう授業の内容も充実させて(学期中の微調整)、大学の雑務もできるかぎり引き受けて、学生の履修(勉強)指導からキャリア(就職)指導、果てはメンタルケアまで引き受けて(学生に個別に電話をかけ、悩みを聞く)、さらに研究も発展させて…。

もちろん、ここでカフカの『法の門前』よろしく、こう付け加えておかねばならない。「それでも、わしなどはまだほんの下っ端で、中に入るとそれぞれの地位・役割に応じて、すごいことが待っている。このわしにしても、一つ上の世代の仕事量を見ただけで、すくみあがってしまうほどだ」。

文科省は、ひいては国民は、大学教員にいったい何を求めているのだろうか。

三年前、私は「膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。」と書いた。そして、そこで、レディングズの次のような言葉を引いた。

「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。

野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

サッカー選手が自分の道具の最低限の手入れをするのは当たり前のことだし、ファンサービスをするのも当然だろう。だが、ファンは、サッカー選手が、自分でボールやユニフォームの発注作業をやり、事務書類を書き、靴の修繕をやることを望むのだろうか?単純に、試合で勝つことに専念し、ベストを尽くしてほしいと望むのではないだろうか。

大学教員の「仕事」とは何だろうか。何であるべきだろうか。それは、デリダの言うような、高貴な「profession」や「profession de foi」だけでは片付かない、日々のtravail、さらにはboulotの問題なのだ。

Friday, October 15, 2010

デリダの教育論

一連のラジオ番組が復活してますね。特に教育論・制度論は私の現在の関心を惹きます。
、mal aimé, mais aiméのあたりとか、日本語で読んだ気もするけれど。

Sunday, October 10, 2010

近況

もちろんこのブログにはまったく現れてこないが、
目に見えないところで自分なりの努力を続けているつもりである。

今日は土曜日、先週の韓国遠征の分、4コマ連続補講…。

土曜日という特別な感じを出すよう工夫しつつ、
しかし授業として妥協しない。

授業のための読書も可能な限り続けている。

ロック、ルソーにおける社会契約論のために、
Jean Terrel, Les théories du pacte social. Droit naturel, souveraineté et contrat de Bodin à Rousseau, éd. Seuil, coll. "Points Essais", février 2001.

デカルトにおける神の存在論証のために、
Emanuela Scribano, L'Existence de Dieu : Histoire de la preuve ontologique de Descartes à Kant, éd. Seuil, coll. "Points Essais", septembre 2002.

卒論指導のために、
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年。
宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』、岩波新書、2010年。

可能な限りレベルを保ちつつ、学生のレベルにも合わせる。
ぎりぎりの努力を続けているつもりだ。哲学の魅力に目覚めてくれたらしい学生も何人かはいる。

研究のほうもいろいろやっているが、労多くして、報われること少なし。まあ、みんなそう思ってやっているんだろうけど…。
ライシテ・シンポのための読書…はネタばらしになるからやめとこ。

Tuesday, September 14, 2010

持続とは遅れである…

・ずいぶん遅れて出した英語論文は、途中から予算がついて仏語でいいことになり(翻訳してもらえる)、
そのため、前半は拙い英語で、後半は書き飛ばした仏語という代物。これからその直し作業。でもいつやるんだ…。

・その他、いろいろ遅れています。すみません…。

開始

今日(月曜)から後期が始まった。9月の13日から、である。「ええっ、もう?」と驚かれる方も、「そうだよね」という方もいらっしゃるでしょう。いずれにしても、また長丁場が始まる。息を整えて、ペースを乱さずに、走りきらないといけない。

Friday, September 10, 2010

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない

というタイトルの『ニューズウィーク』関連のコラムを見つけた。たしかに良質な教師、良質な学生であるとしても、あの手の授業、メソッドは、アメリカではありふれたもので、日本も一刻も早く取り入れるべきだ、と。

《ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イ コール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けて いけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い 詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせ て「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じこ とだと思います。

そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。》

まあ、それはそうなんだろうなあ。ただ、哲学の学会ですら、上記の意味でのきちんとした「議論」をするのがいかに難しいかを考えると…。

Thursday, September 09, 2010

『差異と反復』をエピステモロジーとして読む


行きたいなあ。私が書こうとしている論文(「哲学と科学――ドゥルーズか、ベルクソンかIV」)ともろに関係する主題なだけに…。

Tuesday, September 07, 2010

失敗

エピステモロジーの発表は正直に言ってあまり良くなかった。いろいろ言い訳しようと思えばできるかもしれないが、それは言い訳にすぎない。

研究は打率だと思っているので、切り替えて、また次に向かっていくしかない。

Saturday, September 04, 2010

雑務の一日

今日もほぼ一日、大学の業務。くたくた。それでも少しずつ読む。次はエピステモロジーの発表に向けて。

Valentine Moulard-Leonard, Bergson-Deleuze Encounters. Transcendental Experience and the Thought of the Virtual, Albany: State University of New York Press, SUNY Series in Contemporary French Thought, 2008.

Keith Ansell Pearson, Philosophy and the adventure of the virtual. Bergson and the time of life, Routledge, 2002.

Thursday, September 02, 2010

デカルトとパスカルの間で

哲学と社会学の覇権争いと書いたが、もちろん私の主観ではない――さらに断っておくが、この争いのどちらか一方に与する形で書こうというのでもない。私は両者の良いところを取りたいと考える。当事者の一人、ブルデューの『パスカル的省察』を引いておこう。

《同時代の社会科学に対する戦いでハイデガーが展開したこうした戦略、とりわけ社会科学の成果を社会科学と戦う武器にするという戦略は、1960年代のフランス哲学の「前衛」によって再び採用された。あるいは再び作り出された。

フランスの社会科学は、哲学の覇権主義的野心に対して自律性と固有性を確立するために、ときには哲学の地盤で、哲学と対決する必要があったために、デュルケム以来、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていたが、60年代には、大学界において、また、知識界においてさえ、支配的な位置を占めるに至っていた。レヴィ=ストロース、デュメジル、ブローデル、あるいはラカンも含めて、「構造主義」というジャーナリスティックなレッテルで大雑把にくくられた人々の仕事がそのことを証している。

当時のすべての哲学者は併合主義的な敵対関係の中で社会科学との関連で自己定義を行なわなければならない状況に置かれた。彼らは意識的あるいは無意識的に二面作戦を取り、ときには二股をかける者もいた(「アルケオロジー」「グラマトロジー」などのような「―ロジー」効果や、その他の科学めかした手管に頼って)。こうして彼らは、それでハイデガーの弟子になったわけでもなく、その必要もなかったのだが、社会科学に対してハイデガーが使ったのとよく似た乗り越え戦略を見つけたのである。》(邦訳50-51頁)

もちろん、このようなブルデューのポストモダン批判をルノーやフェリー――「80年代の小論争家たち」――の粗雑なそれと混同してはならない。

《社会科学に対して距離を保とう、明確に画そうとする姿勢(これは社会科学が彼らのヘゲモニーを脅かしつつあっただけに、また、彼らが目立たない形で社会科学の成果を取りこんでいただけにより強く表明されたのだが)はおそらく、70年代の哲学者が進めつつあった、素朴でお人好しな人格主義ヒューマニズムとの断絶が、(デュルケム派)社会科学がすでに世紀初頭から提唱していた「主体なき哲学」に彼らを送り返したにすぎないことを、彼らと彼らの読者に見てとれなくする役割を果たした。

その結果、人間諸科学の客観主義的哲学の「全体主義的」派遣に対して30年代から戦後初期にかけて立ち上がった「実存主義者たち」(サルトルや『歴史哲学序説』の初期アロンのような)に対抗して、60年代に「主体なき哲学」を提唱した彼ら自身に対して、80年代の小論争家たちが「主体の回帰」を説いて流行の振り子を振り戻そうとするに至った、という次第である。》(68-69頁)

こうしてブルデューは、60年代の「主体なき哲学」と、「制度化した余暇(スコレー)」としての「エコール・ノルマル(と準備学級)」との関係について、制度論的な分析を行なうことになるのだが、ここまでは、私はブルデューに賛成である。

しかし、彼が「パスカル的」と呼ぶ次のような姿勢――「象徴権力」への眼差し、根拠づけの野心の拒否――に留まることは出来ないと感じる。

《「モダン派」にせよ「ポストモダン派」にせよ、わが哲学者たちがさまざまな対立を越えて共有しているものがあるとすれば、それはまさに言説の力に対する過度の信頼である。レクトールに典型的な幻想である。レクトールというのは、アカデミックな注釈を政治的な行為と、あるいはテクスト批判を抵抗の行動と取り違える、そしてコトバの次元の革命をモノの次元の革命として生きる輩である。

偉大な英雄的役割への恍惚とした自己同一化の衝動を掻き立てるこの全能という夢に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか。私は何よりまず、思考と思考の力の限界だけでなく、思考を行使する際の諸条件について考えをめぐらすことが大切だと思う。社会的経験は地理的にも社会的にも必然的に部分的かつローカルで、社会世界のいつも同じ小さな区域に局限された経験である。にもかかわらず、多くの思想家にそうした経験の限界を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが大切である。世界の流れを注意深く観察すれば、思想家はより謙虚になるはずである。》(10-11頁)

デリダとブルデューは、思われているほど遠くはない。超越論的な「可能性の条件」「枠」「パレルゴン」に執り憑かれた思想家たちである。経験の限界――「経験の転回点」(ベルクソン)――を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが、それらの諸条件そのものを変えることに役立つのか否か。役立つと信じるか否か。言葉の力を信じるか否か。どこまで信じるのか。どれ以上信じれば過度と見なされるのか。

これは実は、デカルトとパスカルの間にも見られる対立ではあるまいか。デリダとブルデューの対立とは、デカルト対パスカルの反復であろうか、それとも『パンセ』のパスカル対『プロヴァンシアル』のパスカルの反復だろうか。そうだとして、どちらがどちらなのだろうか。そのどちらかにつくのではなく、両者の緊張関係の中でものを考えることは可能だろうか。それは単なる2010年代の小論争家の一人の矮小な折衷主義にすぎないだろうか。

Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。

Tuesday, August 31, 2010

新たなる旅立ち

数日後に福岡を発つという2歳年下の後輩とランチを食べた。
いろいろな事情が折り重なって、研究者の道を断念するのだという。
新たな道でのご成功を心から願っています。

これから研究者を目指すという学生の方々には、
あなたが進もうとしている途はとても険しいものだと
再度念を押しておきたい。

私だって決して他人事でない。気付けば息苦しいことばかり。
数年後、いや一年後どうなっているか。

昨日着いた本のうち、幾つかを「デカルトとパスカル」「哲学と哲学教育」執筆のために、ぱらぱらめくる(もちろんこれまでにもいろいろ読んでましたよ)。
Victor Cousin, Cours de philosophie. Introduction à l'histoire de la philosophie (1828), Fayard, coll. "Corpus des oeuvres de philosophie en langue française", 1991.

Bernard Bourgeois (éd.), La philosophie et la révolution française, Vrin, coll. "Bibliothèque d'histoire de la philosophie", 1993.

Jean-Marc Levent, Les ânes rouges. Généalogie des figures critiques de l'institution philosophique en France, L'Harmattan, coll. "Philosophie en commun", 2003.

最後の本は、19-20世紀に講壇哲学が確立してきた様子と、それを批判する思想家たち(表題の「赤いロバたち」とはアランの言葉である)が誕生してきた様子を同時発生的・構造的なものとして描き出していて興味深い。

さて、そろそろ今まで書き散らしたものを一気にまとめて、原稿に仕上げていかないといけない。

Monday, August 30, 2010

デカルトとパスカル

今日は引き続き大学の仕事で半日つぶれる。その他の時間にいろいろ少しずつ読む。
夜、amazon.frから配達。

Jean-Claude Brisville, L'entretien de M. Descartes avec M. Pascal le jeune, éd. Actes Sud, 1986.

これは1985年に初演された戯曲でつい2年ほど前にCD化もされたので、それも一緒に買ってみた(Le Livre Qui Parle, JC980)。

ごく短い文章なのだが、とある文化辞典に「デカルトとパスカル」という項目を書かないといけない。その一環である。CDも、戯曲自体も、二人のごく基本的な違いを分かりやすく見せてくれており、17世紀の思想家に対する現代人の今なお尽きせぬ関心を示している点で貴重である。

文化辞典なので、思想的な事柄に深入りするつもりはまったくない。二人のフランスにおける文化的受容をごく簡単に描き出せればと思っているのだが、それにしても字数が短い。

『デカルトとフランス』についてはアズーヴィの本があるのだが、あと問題は、「パスカルとフランス」である。こちらはどちらかというと伏流なので、ちょっと厄介。

Saturday, August 28, 2010

哲学教師の肖像(カニヴェ、パントー)

André Canivez, Jules Lagneau professeur de philosophie. Essai sur la condition du professeur de philosophie jusqu'à la fin du XIXe siècle, tome I : Les professeurs de philosophie d'autrefois, Publications de la Faculté des Lettres de l'Université de Strasbourg, 1965.

この本は、フランスの哲学教育論や哲学制度論、哲学教師論をやるときには必ず引かれる古典中の古典である。

それと現代の哲学教師像についての社会学を併せ読む。

Louis Pinto, La vocation et le métier de philosophie. Pour une sociologie de la philosophie dans la France contemporaine, éd. Seuil, coll. "Liber", octobre 2007.

まあ正直な感想を言うと、ここまで来ると、徴候的だと思う。哲学は純粋な観念からなる天上の王国から降ってきたわけではない、哲学者もまた、個人的な利害関心を持ち、ある理論的な場(業界)の中に位置を占めることで理論的生産を行なうのだという、それは別にいい。問題はその後だ。

パントーは、ブルデューの『パスカル的省察』の次のような一文を引いて、「哲学の社会学」の正当性を訴えるのだが…。

《哲学的な場に固有の論理と、その場の中で生み出され遂行される傾向や信仰が社会的に「哲学的」と認められるその論理を分析することほど[…]哲学的な行為はない》

まあ、そのとおりなのだが、ならば、哲学の社会学はやはり哲学に属するのであり、ことさら学問分野としての「社会学」と「哲学」を対立させる必要はない。

これは実は(少なくともフランスにおける)哲学と社会学の覇権争いの伝統を忠実に(不毛に)継いでいるのである。

Saturday, August 21, 2010

近況

まあ、いろいろと大変である。

8月23日まで、重要な雑務。
8月22日、大学論読書会。
8月末日まで、辞書項目執筆。
8月末日、ギリシャ語勉強会。
9月6日まで、エピステモロジ―発表の準備。
9月6日以降、後期授業準備。
9月17日まで、韓国遠征、発表原稿の準備。

Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?