Wednesday, October 31, 2007

まず踊ること

11月末にコレージュ・ド・フランスで大規模なベルクソン・シンポがあり、ワークショップの部に参加する。その一週間後、リールで私にとっては重要な出来事がある。

その後、12月中旬にブラジルでベルクソン・シンポがあるので、パリからサン・パウロに飛ぶ。我々のプロジェクトの目的の一つが、世界規模のベルクソン研究ネットワークを確立することだからである。

リールに来ていたブラジルのベルクソン研究者mbとは仲が良かったので、久しぶりに会えるのが楽しみだ。すぐメールに返事をくれたのは嬉しかった。

リールにいた頃、「ブラジルの夜」と銘打って何人かで集まり、私はエリュアールの長大な詩を暗唱してみせ、彼はサンバの踊り方を教えてくれたことを懐かしく思い出す。



「プロジェクトX」とか、その進化型の「プロフェッショナル~仕事の流儀」とか、「単なるガンバリズムでしょ」と敬遠する人もあろうし、大好きな人もあろうし。

しかし、格好などどうでもいい。ヒントは何から得てもいいのだ。

***

常々口にすることがある。「展開が許せば三振を狙いたい。見ている人に感動を与えたい。自分の力でそれができるのであれば」(「これぞ守護神!球児3K5セーブ」、スポーツニッポン - 2007/4/11 6:04)。



14球の直球勝負には大胆かつ、したたかな計算もあった。「オール直球? そうやったかな? まあナイターでバッターも球が見にくいと思ったんでね」。 打者の目はまだ完全にナイター・モードにはなりきっていない開幕間もないこの時期。さらに中日は3カードをすべてドーム球場で戦っている。“我が家”甲子園が直球をより速く感じさせてくれることを知っていた。(「阪神球児オール直球3K!中日ねじ伏せた」、日刊スポーツ - 2007/4/11 10:05)



勝ちに謎めきやミラクルはあっても、負けに不思議はない。敗北に至る背景には、そこにたどりつくまでの必然的な過程がある。鉄壁の堅守を誇る落合竜が10日・阪神戦で、唯一の弱点から崩落した。ウッズの落球。山本昌の心は乱れ、リズムが狂った。(「竜の弱点…マサ狂わせたウッズの落球」、デイリースポーツ - 2007/4/11 10:27 )

Tuesday, October 30, 2007

教養と政治

≪「教養」と「政治」との組み合わせ。――このように問題を取り上げると、そこにエリート主義の匂いをかぎつけ、「教養」なき衆生を支配しようとする権力意志を読み取る人もいるかもしれない。とりわけ、この日本、少なくとも現在の日本社会では、そうした反応をする人が大半を占めるだろう。

だが、ここであえて、「教養」と「政治」とを組み合わせて論じるのは、これまでこの国では、三木清のような少数の例外を除いて、そうした課題を追求した試みが、ほとんど見られないからである。例えば、かつて1969年(昭和44年)に、蠟山政道は、『政治学』を収録した『アリストテレス全集』の一巻に寄せた短文でこう述べていた。

「その[『政治学』の]第7巻と第8巻が教育に関する見解に当てられている。そして、政治的な理想と教育の原則との関係が述べられている。/近代になってから政治学と教育学とはまったく袂を分かってしまい、政治学の立場で教育問題を取り扱っているのはきわめて少なく、特に日本ではその傾向が強い。

戦後日本で、教育の政治的中立ということが主張された。その際、政治の意味が政党政派の政治というような狭くかつ低いものにされてしまい、それに戦前の極端な国家主義への反動も加わって教育基本法における「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」(第8条)とあるにもかかわらず、教育界には政治と教育との根本的な関係について関心を払うことが避けられてきた。

そこに、戦後日本の民主教育の欠陥の一つがあり、それがいま大学紛争その他となって現れている、といっても過言でない」≫(苅部直(かるべ・ただし)、『移りゆく「教養」』、NTT出版、2007年、103-105頁)


Q. あなたはよく「素人」と「専門家」の区別を強調するが?

A. そのとおりです。ただし、哲学に関する知識のレベルにおいてではありません。例えば哲学的概念は、それがどんなに難解なものであっても、一つ一つ取り上げてみれば、本やインターネットによって習得可能なものであり、決して思われているほど理解不可能なものではありません。

たいていの学問においてと同様、哲学において素人と専門家が区別されるのは、知識が活用されるその仕方においてです。具体的に言えば、直面している問題を正確に把握し、関連すると思われる知識を記憶の中から必要なだけ呼び出し、的確な形に組み合わせ、問題を論じる、その仕方においてです。

さらに、この「判断力」を駆使して論文を執筆し、研究を遂行する人が「研究者」と呼ばれるわけです。

ここで強調しておきたいのは、私はこのブログでほとんど常に「研究」の視点から語っているということ、若い人について語る場合でも、「大学院生」や「ポスドク」と言わず、「若手研究者」という言葉を用いているということです。

このように区別を強調せねばならないのは、日本の大学制度が、若手研究者がなるべく早く経済的自立を達成し、自尊心をもった形で独立できるような制度を未だ完全に確立していないからです。

日本学生支援機構(旧・育英会)がある?貸与するにも親を保証人に取る制度に頼って自立できるでしょうか。日本学術振興会がある?それによって何パーセントの若手研究者が身分を安定的に保証されるというのでしょうか。

人文系の学問を研究することがモラトリアムの延長線上で語られかねない現状は、学生および家庭・教員および大学・社会や政府の利害が複雑に混ざり合うことで成り立っていますが、一つだけたしかに言えることは、このような状況は研究にとって危機的なものであるということ、「大学院大学」という戦略では、大衆化に対抗して研究の質を維持できないだろう、ということです。

資本の論理、エクセレンスの論理に抗するには、どうすればいいのでしょうか?レディングスの提唱する不同意の共同体は、実現可能なものなのでしょうか?


TVでよく見る「特任・特命・特別教授」って何なの?
5月31日10時0分配信 日刊ゲンダイ

 TVのワイドショー等で、コメンテーターとして引っ張りダコの有名人センセイ。例えば、作家の猪瀬直樹(60=信州大)は国立の東工大の特任教授。元 TBSアナウンサーの木場弘子(42=千葉大)は、千葉大の特命教授。俳優の原田大二郎(63=明大)は明大の特別招聘教授、アグネス・チャン(51=カナダ・トロント大学)は目白大学の客員教授。「教授」は分かるとしても、「特命」や「特別招聘」って何なの?

「法律上、大学には学長、教授、准教授(旧・助教授)、助教、助手および事務職員を置くように決められています。ほかに副学長や学部長、講師、技術職員など置くことができます」(文部科学省広報担当)

 ナントカ教授というのは、各大学がそれぞれ設けている特別な肩書。実務レベルで、大学側から依頼する場合が多い。「本校の場合、特任、特命、客員を設けています。教授になるには年齢規定(60歳未満)がありますが、特任教授は不適用。授業は担当するので、一番教授に近い立場です。特命教授は授業なし。客員は1年ごとの更新で、常勤と非常勤があります」(早大広報)

「ここ最近、特別な教授が増えています。宣伝になり、各大学の特色を出しやすいためではないでしょうか」(明大広報) ま、一流大学はナントカ教授なんかで受験学生を集めず、プライドを持ってほしいものだが……。

Monsters of Excellence

≪いささか大げさな言い方で恐縮だが、大学こそ現代日本の普通の若者の集まる場である。その大学を変えなければ日本の将来はない。≫(『崖っぷち弱小大学物語』)

レディングスの『廃墟のなかの大学』に全面的に賛成というところからは程遠い位置に私はいるわけだが、それでも数々の指摘は実に真実を穿っていると思う。

例えば、大学における高等教育を取り巻く状況の中で、「エクセレンス」を追求する姿勢(COE=Center Of Excellence)と、「消費者主義」が密接に結びついているという指摘は正しい。

エクセレンスとは何か?量的基準への一元化であり、その基準への盲目的信仰の嬌声=強制である。エクセレンス主義と消費者主義の結合についてだけ言えば、「弱小大学」だろうが、「一流大学」だろうが、抱えている構造的な問題は同じである。

この問題をCOEで取り上げるという姿勢自体、高く評価できる。絶えざる自己省察、自己批判の姿勢、そう、それこそ哲学の仕事だと思う。



昨今、巷で話題になっている社会現象は、多かれ少なかれこの大きなグローバリゼーションの流れの中にある。

「小さい政府」「民間の活力の導入=競争社会」に快哉を叫び、トヨタが自動車生産台数で世界二位になったと自慢げで、経済大国になった今も世界有数の長時間労働を続け、サラリーマンの年収が8年連続でダウンしているのに、小さなデモさえ民衆自身から非難される。

「ハケンの品格」を信じ込まされ、テレビ・雑誌を通じて「セレブ」に羨望の眼差し。持ち上げて落とすことが昨今の現象なのではない。その周期と落差が加速度的に速く、大きくなったことが新しいのであり、その背後には「エクセレンスの論理」がある。

食品にまつわる偽装や、少年ボクサーのルール違反といった問題が新しいのではない。エクセレンス至上主義(売上高、株価や視聴率といった量的基準への急速な一元化)が、丸山真男の指摘した「無限責任→無責任」という特殊日本的な風土と見事に結びついたことが新しいのである。

消費者的「非難」が一向に生産的な「批判」、建設的な「議論」に転じていかない。

レディングスの大学をめぐる状況分析は、どこまで日本に当てはまるのか?これが私の素朴な疑問である。



この国は経済的貧者・社会的弱者を切り捨てる方向に進んでいる、それは確かだ。人々はそんな国の姿勢を知らず知らず真似し、子供はそんな親の姿勢を知らず知らず真似する。それでいて「いじめをなくせ」だの、「教育再生」を願っているなどと言う。

教育を語る際に「斜交いからの視線」――夜回りや元不良といった「マージナル体験」への盲目的な信仰――を持ち上げること自体がすでにデマゴギー的である。批判装置自体が「エクセレンスの論理」に取り込まれてしまっている。

揚げ足取りの「批判」で己の知的優越感を感じ、悦に入ろうというのではない。哲学が政治や教育になしうる寄与があると言いたいだけだ。「忙しいから」「興味ないから」と逃げないこと、少しでも知ろうと努め、事態を把握しようとすること、まずはそこから始まる。

行動を起こすこと、大事なのはそれだけだ。社会や政治が変わるのでなければ、教育が変わるはずもない。教育が変わるのでなければ、社会が変わるはずもない。政治や教育を変えられない哲学にさほどの意味があるとも思えない。哲学には経済効率以外の、人間精神を豊かにするパフォーマティヴもある、と示すことができるはずだし、また示すことができるのでなければならない。

学問は何の役にも立たず、役に立たないことに意味がある、と大正教養主義的な「虚学」賛歌を言っているのではない。質的に異なるさまざまな「役に立つ」がある、異質なパフォーマティヴを模索せねばならない、と言っているのである。


保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討 文科省
7月9日8時1分配信 産経新聞

 理不尽な要求で学校現場を混乱させる保護者ら、いわゆる「モンスターペアレント」について、文部科学省が来年度から、本格的な学校支援に乗り出す方針を固めた。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立し、学校にかかる負担を軽減することを検討している。来年度の予算要求に盛り込みたい考えで、各地の教育委員会にも対策強化を求める。

 文科省が検討している支援策は、保護者から理不尽な要求やクレームが繰り返された際、教育専門家ら外部のカウンセラーが保護者と学校の間に入り、感情的なもつれを解消して問題解決を図るというもの。

 保護者とのトラブルが法的問題に発展するケースもあるため、学校が地域の弁護士からアドバイスを受けられるような協力体制づくりも進める。地域ごとにカウンセラーや弁護士らの支援チームを結成することも検討する。

 教育現場では近年、無理難題を押しつける保護者らが急増。こうした保護者らは「モンスターペアレント」と呼ばれ、校長や教員が話し合いや説得に努めてきた。しかし感情的なもつれなどから問題解決がこじれ、学校にとって大きな負担になることが少なくないという。

 モンスターペアレントについては今月初めの副大臣会議でも取り上げられ、文科省の池坊保子副大臣が早急に対策に取り組む姿勢を示していた。 文科省幹部は「学校が一部の保護者らの対応に追われて、子供たちの教育活動に支障が出るようになったら本末転倒。各教委が率先して対応に乗り出す必要がある」としている。


【主張】問題親 非常識に寛容すぎないか
産経新聞(06/19 05:17 )

 自分の子が悪いのに、しかった教師のところに怒鳴り込む。なんでも学校のせいにして損害賠償まで請求する。そんな理不尽な親の問題が深刻になっている。

 親からの無理難題の事例は枚挙にいとまがない。 大阪大の小野田正利教授らがつくる「学校保護者関係研究会」の聞き取り調査からも、その一端がうかがえる。「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」など、要求内容はあきれるばかりだ。

 東京都港区教育委員会は、弁護士と契約して校長らの相談窓口をつくった。親とのトラブルで訴えられるケースを想定し、保険に入る教職員も増えている。こじれる前の対応が重要なのはいうまでもないが、やむにやまれない措置をとる教委が目立つ。

 学校関係者を中心に、「モンスターペアレント」(怪物親)という造語が広がっている。絶え間ない苦情攻勢で学校教育にも支障を来す親の存在は、教師を萎縮(いしゅく)させている。学校が壊されてしまうという恐れも抱くという。そんな関係は危機的だ。

 学校給食費を払わないばかりか、子供が通う保育園の保育料を払わない親も増え、自治体が法的措置を講じて督促するなど対応に苦慮している。支払い能力があるのに払わない親が増えているのだという。ここでも、自己中心的で規範意識のない親、学校を軽くみる親の姿が浮かび上がる。

 問題親が増えている背景に、子育てに対する学校、家庭、地域の役割分担意識の希薄化を指摘する見方もある。教育はすべて学校の責任とする風潮である。教育委員会も親からのクレームに過敏となる傾向がある。その結果、親の非常識が放置され、理不尽な要求に振り回されている。

 今年元日付の「年頭の主張」でも紹介したが、かつて欧米人は礼節を備えた日本の子供たちに目を瞠(みは)り、その子供たちを一体となって育(はぐく)む日本の社会や家庭の姿に感銘を受けたという(渡辺京二著『逝きし世の面影』から)。そうした社会を取り戻す必要がある。それにはまず、親の非常識を正すところから始めなければなるまい。

想像力、海外組

私とは入れ違いなので交流はないのだが、リールにClaudio Majolinoという若手の分析系現象学者がいる(おそらくJocelyn Benoit的な方向性と考えてそれほど間違いではないだろう)。

彼のやっているセミネールは想像力に関するものである。
Séminaire « Facta et ficta : analyse du traitement phénoménologique de l’imagination (Phantasie) et des actes non positionnels ».

興味のある方はSTLの該当頁を覗いてみてはいかがでしょうか。



サッカー日本代表のオシム監督は、「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」と言った。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があるというのはもっともだ。

「人気が低下している」フランス思想・哲学研究も同じことではないだろうか。「殿様商売」を改めねばならない。だが、「観客が見たいのは海外組」などというマーケティングの専門家は、期待の地平を一歩も超え出ていない。評価基準を自らつくりだし、「需要」を創出するのが真のパフォーマティヴではないか。

いつまでも海外組でもあるまい。だが、一昔前の広島カープのように、純国産にこだわる意味もない。チームとして向上するにはどうすればいいか、それだけが重要だ。人気は監督の考える最優先事項ではない。



スター不在で集客・視聴率低迷 サッカー日本代表
産経新聞
07:36
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 サッカーの日本代表人気が低下している。かつてプラチナチケットだった入場券は昨年のオシム監督就任以降、減少傾向で6月のモンテネグロ戦は日韓W杯以降、最低の2万人台の入場者数を記録した。危機感を募らせる日本協会“殿様商売”を改め始めた。そんな中、アジア杯が開幕したが、29日の決勝戦が参院選投開票日とぶつかり大会が選挙戦とかぶってしまい、前回大会のような盛り上がりは期待しにくい。

ヒデの穴 日本代表戦といえば、スタジアムがレプリカユニホームを着たファンで真っ青に染まるのが相場だった。ところがオシムジャパン発足後、国内開催7試合中、4試合で観客の入りは9割未満。モンテネグロ戦に至っては2万8635人と、6割にも満たなかった。


 視聴率も低迷気味だ。平均視聴率が20%を超えたことはなく、特に3月24日のペルー戦の13・7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)は同時間帯に行われた女子フィギュア(38・1%)、プロボクシング亀田興毅ノンタイトル戦(16・2%)にも及ばなかった。


 この低迷の原因を、あるテレビ局関係者は「中田英寿氏の引退が大きい」と語る。「今の代表の先発を言える人、どれだけいますか?普段スポーツを見ない人をひきつけるためにも、スターは不可欠です」。現代表にも中村俊、高原ら人気選手はいるが数字上は「スーパースター不在」を意味している。

■低い満足度 もっとも「個」を尊重したジーコ前監督と異なり、オシム監督は特定の選手に頼らずチームとしての機能性を重視する。このため、新たなスターが生まれにくい状況も生み出している。


 そんな“オシム” について間宮聰夫・順大大学院客員教授(スポーツマーケティング論)は「スポーツをビジネスとしてみた場合、観客満足度を高めていない」と断じる。「観客が見たいのは海外組。直前合流による肉体的負担や連係不足はわかるが、日本協会がクラブ側に金銭補償してでも海外組がチームに長くいられるような環境作りも必要」と提案する。



 当のオシム監督は「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があると言いたげだ。

 

■動く協会 日本協会オシム監督のチーム作りを支持している。人気低下についても、オシム路線というより「ドイツW杯への期待と(惨敗という)結果のギャップが大きかった」と田嶋幸三専務理事はみる。それでも、ここまでの観客減は衝撃だった。



 田嶋専務理事は最近、現場とマーケティングの連携の重要性が身にしみるという。「レアル・マドリードスペイン)の成功も、その点を無視していないから」。代表戦というだけで黙っていてもチケットが売れた時代は終わったという。



 今年に入り日本協会はチケット券種に変更を加えた。代表戦の観戦者動向調査データを参考に一番値段の高い座席数を減らしファミリーシートを増やし、北京五輪アジア2次予選では自由席を1000円で販売するなど柔軟性をみせ始め殿様商売から一歩踏み出した。



 アジア杯も日本代表の活躍で低迷打破の起爆剤にと期待されたが、参院選の余波で視聴率への影響も考えられる。田嶋専務理事は「一番大事なのはみんなが応援に来てくれるような魅力あるチームを作り勝つこと。チケットの売り方などはその次」とオシムジャパンへの注文と期待を語るのだが…。(森本利優)

Monday, October 29, 2007

ゴールドクレスト

子供が生まれた時、記念に区役所からもらったゴールドクレストが遂に枯れ果て、捨てられてしまった。。私も連れ合いも、植物を育てるのにはとことん不向きな人間である。

赤ん坊を育てていると、対人関係について考えさせられることが多い。別に高尚なことや深遠なことではなく、ごく普通のこと。

袖を通してあげるときは、こちらで袖を折りたたみ、赤ん坊の腕を一気に通してしまう。こちらで全部準備して、相手には最小限の負担、最短の時間しかとらせない。でないと、ぐずってしまう。時間がなく焦っているとき、つい面倒くさくなったとき、袖をそのままに腕を通そうとして失敗する。

子育ては、赤ん坊の理不尽さと親の至らなさの間で揺れ動く。授業・教育でも、事務作業でも、シンポの準備でも(笑)、同じだとつくづく思う。



日曜は家庭サービスの日。ときどきレディングスを読む。



我々のベルクソン・プロジェクトもシンポまでは成功した。次は出版の段階である。が、研究者個人の研究書ならともかく、シンポジウムの出版はなかなか難しいのだそうだ。

今回のシンポは内容的にもきわめて充実していたと思うので、なんとか流通に乗る出版にこぎつけられればと思うが、果たしてどうなるか。



<学位商法>熊大教授が米国の非公認大学「博士号」を公表
8月30日9時1分配信 毎日新聞

 熊本大学教育学部の教授が、公的機関から学位として認められていない米国の非公認大学の「博士号(文学)」を、自らの最終学歴・学位として公表していたことが分かった。非公認大学の学位の多くは、数十万~百数十万円を支払うだけで簡単に取得できる「学位商法」として米国などで問題になっている。文部科学省は、海外の非公認大学で取得した学位で採用や昇進を認められた大学教員がいないか、全国1206大学を対象にした実態調査を進めている。

 関係者によると、この熊大教授は、大学の教育水準を評価・保証する全米高等教育機関基準認定協議会(CHEA)が、大学として認定していない、米パシフィック・ウエスタン大学(PWU)から学位を取得。独立行政法人・科学技術振興機構の研究者情報サイトには、PWU大学院の博士号を95年に取得と登録し、福祉教育に関する著書(02年)にも経歴欄に博士号を指す「Ph・D」と記載した。教授は佛教大などを経て99年に熊大に移籍したが、現在の同大サイトの研究者情報には「文学修士」のみ記載がある。

 取材に対して教授は、同大学広報室を通じ「論文提出などの審査を受けて、学位を受けた。当時は非認定の大学という認識は全くなかった。熊大採用時の履歴には記載していなかった」と回答した。文科省は国内の大学教員の一部が、国際的に無意味な学位を最終学歴に掲げていることを問題視。国内の全大学に、米国などの公的な認定リストに掲載がない機関が授与した学位名称の有無▽採用・昇進審査の判断材料にしたか――などについて回答を求めている。文科省は、こうしたやり方が横行すれば「大学教育の質の維持が危ぶまれ、国際的な信用低下につながる」として、今秋にも調査結果を公表する。【石田宗久】

Sunday, October 28, 2007

来場者数

子供を預けられない休日のほうが疲れる。。そして書類、書類、書類。

ynさんが誘ってくれたUTCPの「哲学と大学」の第一回が11月1日にある。
レディングスの著作をもとに哲学と大学の歴史的関係を概観し、グローバル状況下における人文学の現状を考察します。事前にテクストを読んできたり、購入して持参したりする必要はとくにありません。どなたでも御自由に手ぶらでご参加ください。

ご興味がおありの方は、誰でも参加してよいそうなので、ぜひどうぞ

第一回の分析対象であるビル・レディングスの『廃墟のなかの大学』(原書1996年、法政大学出版局、2000年)、少しずつ読んでます。今の私の年齢の時に亡くなったのですね。コスモポリタン的な大学歴はまた、英語圏の特権でもあるのではないでしょうか(フランス語圏から飛び出した人は、ごくわずか…)。

コレージュ篇ワークショップでの発表レジュメの締め切りも同じ日。『創造的進化』と『全体性と無限』の一節を取り上げて(以前このブログで取り上げた「踏切板と石板」である)、ベルクソンとレヴィナスにおける物質と記憶、自由と制度の問題を簡潔に論じてみたい。

***

来場者数

さて、『創造的進化』シンポ私的報告の続きである。

一週間のマラソン・シンポジウムは、フランス人にとっても、私たち迎える側にとっても、生易しいものではなかった(さらに、私を含め、数人の人々は、直後に韓国に行ったので、けっこう壮絶な極道ぶりではあった。。)。

しかし、参加者にかなりの無理を強いたこの企画は、観客動員において十分に報いられたと言っていいだろう。この種の催し(フランス語で行われたフランス哲学に関する専門的なシンポジウム)では、相当健闘した結果だったと思う。私の個人的な印象でしかないが、

第一日目(学習院大学):100~120名
第二日目(法政大学):70~90名
『二源泉』ワークショップ(東京大学):60~80名
第三日目(京都大学):60~80名

来て下さった皆様、本当にありがとうございました。

下の写真は、すべての日程を終え、京都を出発する直前に、京都大学裏の寺を散策した折に撮ったものである。疲れた、しかし充実したフランス人たちの雰囲気を伝えてはいないだろうか。



Saturday, October 27, 2007

撒種するとはどういうことか?

大作を何とか書き終え、激動の一週間を終え、トンネルを抜けると、そこは家事と事務書類の国だった。。共働き&赤ん坊持ちの同世代の若手研究者たちは、いったいどうやって研究したり、まめにブログを更新したりできているのだろうか。自分ではけっこう働いているつもりなのだが、まだまだ甘いということなのだろう。

さて、三日間の『創造的進化』百周年記念国際シンポジウム+『二源泉』ワークショップ+韓国篇である。

★以下に書き連ねることはあくまでも私の個人的な考えであって、他の主催者、主催団体や発表者の方々の意見を代表するものではありません。

企画の意図

一番大きな眼目は、「日本のベルクソン研究(ひいてはフランス思想・哲学研究)の活性化に少しでも寄与する」ということであった。

そのためには、一日か、せいぜい二日、数人の海外研究者を呼んで、こぢんまりと世界の最先端のお話を興味深く拝聴する、といった旧来の方式ではあまり意味がないと思われた。

やるなら三日、ベルクソン研究の先端を行く世界の研究者(フランスだけでなく、少なくとも英米系)と、世界に紹介して恥ずかしくない日本を代表するベルクソン研究者の真剣な議論を、日本の聴衆、とりわけ若手研究者に、ライヴで見てもらうことが最も重要であるように思われた。

今回のシンポを旧来の延長線の感覚で見てしまった人がいるとしたら、この企画は失敗である。

やれ「フランスの誰某は大したことがない」だの、「日本の誰某の新刊はイマイチ」だの、批評家気取りで、言いたいことを言う。それでは巨大掲示板に「言いっ放し」を書き込んで、いっぱし専門家気取りの素人とたいした違いはない。それでいて、自分は満足に英・仏・独語で論文一つ書けはしない。日本語でなら、単に業績づくりの口実でなく、単に訓詁学的でもない、問題提起的な論文を書けているのだろうか?

若いのだから、大きなことを言ってもいい。ただ同時に、もっと自分の足元を見つめ直すべきなのだ。そう痛感してくれた若手(要するに私と同世代の人たちのことである)が一人でも増えたとしたら、この企画は成功である。


発表者の陣容

かねてから、ベルクソン研究をきちんと多様化する必要がある、と感じていた。「何でもアリ」がいいというのではない。一定の水準を保ちつつ、しかし、過度に訓詁学的にならない、という警戒感は必要であるように思われた。また、純粋哲学的と言おうが、形而上学的ないし存在論的と言おうが、同じことだが、とにかくベルクソン哲学における重要なモーメントである「科学との接触」を失うことも避けねばならないと思われた。ここから、以下の三本柱が決定した。

1.哲学的・哲学史的研究
2.科学的・科学史的研究
3.現代思想との関わり

今回は、画期的な「事件」「出来事」としてこのプロジェクトが一定の認知を得る必要があった。そこで、著名な実力者のみにご登場いただいたわけだが、次年度以降は、できれば小さなセミナー形式であれ、若手に発表の場を与えられるような「プラス・アルファ」を可能な限り導入していきたい(財政的な問題も含め、クリアしなければならない問題が山積しているので、約束はできないが)。



中堅以上の研究者には、真摯に努力を続けている若手を「救う」義務がある。もちろん自助も大切だろう。だが、若手を取り巻く状況は、帝大時代とも、バブル期とも違う。業界自体が崩れようとしているのである。

私と共に立ち上がってくれた方々、手を差し伸べてくださった方々もいた。その方々には篤く感謝申し上げ、今後ともご協力をお願い致します。

だが、あるときは私をエリート主義者と呼び、あるときはポピュリストと呼ぶ、都合のいい態度を取っていらっしゃるだけの幾人かの人々もいた。「私は授業をちゃんとやっていますよ」とか、「大学の委員を積極的に引き受けていますよ」、というのは状況に対する何らの積極的な打開策ではない。その方々は、ならば、このような状況をどうお思いなのか、どう対処していくべきだと思っていらっしゃるのか。

Friday, October 26, 2007

共に、そして離れ離れに

とうとう激動の一週間が終わった。一週間にわたる『創造的進化』百周年日本篇を終え、その足でソウル国立大学で行われた韓国篇に向かったのが日曜日のこと。昨日、韓国から戻ってきた。これらの動きについては追々、少し詳しく報告していくつもりだ。

***

私の「大学と哲学」論はとても単純だ。一方で、左翼=現代思想系の人々は往々にして「自由」を称揚しすぎる気味がある。大衆を積極的に取り込んでいく、象牙の塔に閉じこもらない、という基本姿勢にはまったく同感である。しかし、次のような姿勢が彼らの思想のうちに(実際のCOEや科研費獲得競争においてではなく)ほとんど見られないように思うのだ。
≪研究を進めるためには研究費を獲得しなければならない。大学院生の分まで必要である。研究費を獲得するためには次々と成果を上げなければならない。出てきた成果をできるだけ早く論文に書いて、主要な部分は英語で公表しなければならない。書いた原稿は国際的な学術誌に投稿して、審査員からどんなにケチをつけられても繰り返ししっかりと書き直して最後はパスし、掲載されるところまで持っていかなければならない。世界の最先端でいまどんな研究が進められているか、いつも外国語で書かれた膨大な量の論文に目を通して把握していなければならない。そして、どうやって最先端を自分自身が作り出せるかという、厳しい競争にさらされていたことは確かだ。誰もが必死だった≫(杉山幸丸(すぎやま・ゆきまる)、『崖っぷち弱小大学物語』、中公新書ラクレ、2004年)。

つまり、「エリート教育」(これが悪しき「エリート主義」と峻別されるべきことは繰り返し述べてきた)の問題が考え抜かれていないように思うのである。だとすれば、彼らの姿勢は根底においてポピュリズムの危険を孕んではいまいか。

しかし、他方で、自分をノンポリだと思い込んでいる純粋学術系の人々は、えてして「哲学・教育・政治」の根本連関自体を軽視することによって、自分が悪しきエリート主義に陥っていることに気づいていない。そのような人々の紡ぐ思索は、いかに「現実との接触」を語ろうとも、大学という自らの思索の唯物論的な基盤、「場所」についての哲学的省察を欠いてるがゆえに、本質的に脆弱な思考である。
≪大学が危機に直面しているのは日本だけではない。先進国の大学は、第二次世界大戦後に拡張政策をとったために、それぞれ構造的な問題が生じている。古典的な高等教育を維持しようとするイギリス、平等な公立大学の限界から脱出しようとするドイツ、大学以外の高等教育機関との調整に苦慮するフランス、そして大学院化が一層進むアメリカ。それぞれに事情の異なる各国の対処法から日本の大学が学ぶべきことは何か≫(潮木守一(うしおぎ・もりかず)、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年)。

「大学と哲学」をめぐるこのような二極分化の間で、いかに理念を失わない現実主義を貫けるか。私の関心はそこに尽きている。以上の問題関心から出発して、昨今、フランスで展開された「哲学の教育、教育の哲学」の議論の一端を垣間見てみたい、というのが私の願いである。

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このブログを見てくださる方が増えているそうである。とてもありがたいことだ…とばかりは、しかし、言えない。

別に、思ったことが書けなくなるとか、そんなくだらないことを心配しているのではない。私はそういう人間ではない。

ただ、多くの人にとって時間の無駄じゃないだろうか、と思うだけだ。

私がここに書いていることが本当の意味で理解できるのは、それぞれの道において「極道=道を極める」ことに精進している人だけである。それ以外の人々は、高名な学者であれ、残念ながら私(のブログ)とは本質的に関係がない。

読んでいますよ、などという目配せも不要である。本当に読んでいるかどうかは、その人の行動で分かる。言葉によってではなく、行動によって人の価値は測られる。読んでいても、大半の人は読んでいない。

不遜な言い方だ、と言われるだろう。しかし、それが数年間ブログを書き綴ってきた私の正直な実感である。自分のたかの知れた哲学的な実力を過大評価しているわけではない。ただ、理念をもって現実に立ち向かう大学人の少なさを知っているというだけのことである。

山羊の熟れ乳の人よ、共に、そして離れ離れに、道を極めることに勤しもう。それ以外の世の毀誉褒貶など、すべて塵に等しい。昨日「君のやっていることは本当に素晴らしい」と言っていた人間が、明日は「前々から不遜な奴だと思っていた」と陰口を憚らない、そんな世界にあって、信念と行動を同じくする人はごく少数だ。

Friday, October 05, 2007

近況・展望(自分の仕事の)

仕事と言えば、やはり自分の研究が一番しっかりしていないといけない。華やかな仕事などは、理想をもった現実主義の「現実」の一部分にすぎない。

・2007年8月:日仏哲学会刊行の『フランス哲学・思想研究』第12号に「ベルクソンと目的論の問題―『創造的進化』百周年を迎えて―」。

・2007年9月:大学紀要に三部作の第二篇。

・2007年9月:日本フランス語フランス文学会刊行の『フランス語フランス文学研究』第91号に「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム) ―ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究―」。

今年はこれで大論文一つ、論文6本掲載(日4、仏1、12月ごろに英1)、翻訳(独→仏)1本、檄文一つ。各種応募用に日本語論文を増やすという所期の目的は達したと言える。来年も、少しでも質の高い日本語論文を、2カ月に一本のペースで書き、少なくとも一本は「これぞ」というフランス語論文を書ければ、と思う。

で、論文の内容なのだが、従来の研究の核であるベルクソン研究に加えて、ひとまず三つの軸を持ちたいと考えている。

1)「旅行の哲学」というときわめて軽そうなのだが、実際には"Weltanschauung et perspectivisme"という哲学的な問題体系を裏に秘めている。

2)「結婚の形而上学とその脱構築」。これまた「宗教と聖性」「存在と所有」「fides概念」といった形而上学直球の問題系を現実問題と交錯させて論じたい、という意図がある。

3)「教育の哲学、哲学の教育」。これも長年やりたいと思っていたテーマ。その一部はすでにこのブログでも書き散らかしてきた。

お約束した関係もあるので、まずは3あたりから、研究論文の形で徐々に書いていきたい。

翻訳はお約束したものが幾つかありますが、これは何とかやり遂げたいと思っています。それ以後は、原則的にお引き受けしないと思います。

Wednesday, October 03, 2007

哲学と大学

一つ大きなヤマを越えようとしている。大規模な国際シンポの準備、複数の関連イヴェントとの調整、期限の迫った諸々の論文の校正、各種応募、そして子育て。。。周りから見てどうか分からないが、自分ではよくこんなコンディションに耐えて、それなりのものをつくりあげたとほっとしている。まだ完全には終わっていないけれど。

ここ数日、大量のメールを読み、書き、送るだけで一日の大半が潰れている。微妙な人間関係を含んでいるにもかかわらず、即時に返信しなければならない多数のやり取り。メールを書きすぎると、自分を消耗する。スイッチのオンオフが大切だと自分に言い聞かせる。というわけで、もう夜はメールを読まないことにしたので、返事が遅れても、苛立たずに(笑)お待ちください。



新たな運動に巻き込んでもらえて嬉しい限りだ。そうして巻き込まれつつ、他の人も巻き込んでいきたい。新たな出会いを準備していければと願っている。

UTCP「哲学と大学

正直、買い被られている気がするけれど、化けの皮が剝がれたら剥がれたでしょうがない。それが自分の今の実力なのだから。