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私の「大学と哲学」論はとても単純だ。一方で、左翼=現代思想系の人々は往々にして「自由」を称揚しすぎる気味がある。大衆を積極的に取り込んでいく、象牙の塔に閉じこもらない、という基本姿勢にはまったく同感である。しかし、次のような姿勢が彼らの思想のうちに(実際のCOEや科研費獲得競争においてではなく)ほとんど見られないように思うのだ。
≪研究を進めるためには研究費を獲得しなければならない。大学院生の分まで必要である。研究費を獲得するためには次々と成果を上げなければならない。出てきた成果をできるだけ早く論文に書いて、主要な部分は英語で公表しなければならない。書いた原稿は国際的な学術誌に投稿して、審査員からどんなにケチをつけられても繰り返ししっかりと書き直して最後はパスし、掲載されるところまで持っていかなければならない。世界の最先端でいまどんな研究が進められているか、いつも外国語で書かれた膨大な量の論文に目を通して把握していなければならない。そして、どうやって最先端を自分自身が作り出せるかという、厳しい競争にさらされていたことは確かだ。誰もが必死だった≫(杉山幸丸(すぎやま・ゆきまる)、『崖っぷち弱小大学物語』、中公新書ラクレ、2004年)。
つまり、「エリート教育」(これが悪しき「エリート主義」と峻別されるべきことは繰り返し述べてきた)の問題が考え抜かれていないように思うのである。だとすれば、彼らの姿勢は根底においてポピュリズムの危険を孕んではいまいか。
しかし、他方で、自分をノンポリだと思い込んでいる純粋学術系の人々は、えてして「哲学・教育・政治」の根本連関自体を軽視することによって、自分が悪しきエリート主義に陥っていることに気づいていない。そのような人々の紡ぐ思索は、いかに「現実との接触」を語ろうとも、大学という自らの思索の唯物論的な基盤、「場所」についての哲学的省察を欠いてるがゆえに、本質的に脆弱な思考である。
≪大学が危機に直面しているのは日本だけではない。先進国の大学は、第二次世界大戦後に拡張政策をとったために、それぞれ構造的な問題が生じている。古典的な高等教育を維持しようとするイギリス、平等な公立大学の限界から脱出しようとするドイツ、大学以外の高等教育機関との調整に苦慮するフランス、そして大学院化が一層進むアメリカ。それぞれに事情の異なる各国の対処法から日本の大学が学ぶべきことは何か≫(潮木守一(うしおぎ・もりかず)、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年)。
「大学と哲学」をめぐるこのような二極分化の間で、いかに理念を失わない現実主義を貫けるか。私の関心はそこに尽きている。以上の問題関心から出発して、昨今、フランスで展開された「哲学の教育、教育の哲学」の議論の一端を垣間見てみたい、というのが私の願いである。
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このブログを見てくださる方が増えているそうである。とてもありがたいことだ…とばかりは、しかし、言えない。
別に、思ったことが書けなくなるとか、そんなくだらないことを心配しているのではない。私はそういう人間ではない。
ただ、多くの人にとって時間の無駄じゃないだろうか、と思うだけだ。
私がここに書いていることが本当の意味で理解できるのは、それぞれの道において「極道=道を極める」ことに精進している人だけである。それ以外の人々は、高名な学者であれ、残念ながら私(のブログ)とは本質的に関係がない。
読んでいますよ、などという目配せも不要である。本当に読んでいるかどうかは、その人の行動で分かる。言葉によってではなく、行動によって人の価値は測られる。読んでいても、大半の人は読んでいない。
不遜な言い方だ、と言われるだろう。しかし、それが数年間ブログを書き綴ってきた私の正直な実感である。自分のたかの知れた哲学的な実力を過大評価しているわけではない。ただ、理念をもって現実に立ち向かう大学人の少なさを知っているというだけのことである。
山羊の熟れ乳の人よ、共に、そして離れ離れに、道を極めることに勤しもう。それ以外の世の毀誉褒貶など、すべて塵に等しい。昨日「君のやっていることは本当に素晴らしい」と言っていた人間が、明日は「前々から不遜な奴だと思っていた」と陰口を憚らない、そんな世界にあって、信念と行動を同じくする人はごく少数だ。
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