≪いささか大げさな言い方で恐縮だが、大学こそ現代日本の普通の若者の集まる場である。その大学を変えなければ日本の将来はない。≫(『崖っぷち弱小大学物語』)
レディングスの『廃墟のなかの大学』に全面的に賛成というところからは程遠い位置に私はいるわけだが、それでも数々の指摘は実に真実を穿っていると思う。
例えば、大学における高等教育を取り巻く状況の中で、「エクセレンス」を追求する姿勢(COE=Center Of Excellence)と、「消費者主義」が密接に結びついているという指摘は正しい。
エクセレンスとは何か?量的基準への一元化であり、その基準への盲目的信仰の嬌声=強制である。エクセレンス主義と消費者主義の結合についてだけ言えば、「弱小大学」だろうが、「一流大学」だろうが、抱えている構造的な問題は同じである。
この問題をCOEで取り上げるという姿勢自体、高く評価できる。絶えざる自己省察、自己批判の姿勢、そう、それこそ哲学の仕事だと思う。
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昨今、巷で話題になっている社会現象は、多かれ少なかれこの大きなグローバリゼーションの流れの中にある。
「小さい政府」「民間の活力の導入=競争社会」に快哉を叫び、トヨタが自動車生産台数で世界二位になったと自慢げで、経済大国になった今も世界有数の長時間労働を続け、サラリーマンの年収が8年連続でダウンしているのに、小さなデモさえ民衆自身から非難される。
「ハケンの品格」を信じ込まされ、テレビ・雑誌を通じて「セレブ」に羨望の眼差し。持ち上げて落とすことが昨今の現象なのではない。その周期と落差が加速度的に速く、大きくなったことが新しいのであり、その背後には「エクセレンスの論理」がある。
食品にまつわる偽装や、少年ボクサーのルール違反といった問題が新しいのではない。エクセレンス至上主義(売上高、株価や視聴率といった量的基準への急速な一元化)が、丸山真男の指摘した「無限責任→無責任」という特殊日本的な風土と見事に結びついたことが新しいのである。
消費者的「非難」が一向に生産的な「批判」、建設的な「議論」に転じていかない。
レディングスの大学をめぐる状況分析は、どこまで日本に当てはまるのか?これが私の素朴な疑問である。
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この国は経済的貧者・社会的弱者を切り捨てる方向に進んでいる、それは確かだ。人々はそんな国の姿勢を知らず知らず真似し、子供はそんな親の姿勢を知らず知らず真似する。それでいて「いじめをなくせ」だの、「教育再生」を願っているなどと言う。
教育を語る際に「斜交いからの視線」――夜回りや元不良といった「マージナル体験」への盲目的な信仰――を持ち上げること自体がすでにデマゴギー的である。批判装置自体が「エクセレンスの論理」に取り込まれてしまっている。
揚げ足取りの「批判」で己の知的優越感を感じ、悦に入ろうというのではない。哲学が政治や教育になしうる寄与があると言いたいだけだ。「忙しいから」「興味ないから」と逃げないこと、少しでも知ろうと努め、事態を把握しようとすること、まずはそこから始まる。
行動を起こすこと、大事なのはそれだけだ。社会や政治が変わるのでなければ、教育が変わるはずもない。教育が変わるのでなければ、社会が変わるはずもない。政治や教育を変えられない哲学にさほどの意味があるとも思えない。哲学には経済効率以外の、人間精神を豊かにするパフォーマティヴもある、と示すことができるはずだし、また示すことができるのでなければならない。
学問は何の役にも立たず、役に立たないことに意味がある、と大正教養主義的な「虚学」賛歌を言っているのではない。質的に異なるさまざまな「役に立つ」がある、異質なパフォーマティヴを模索せねばならない、と言っているのである。
保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討 文科省
7月9日8時1分配信 産経新聞
理不尽な要求で学校現場を混乱させる保護者ら、いわゆる「モンスターペアレント」について、文部科学省が来年度から、本格的な学校支援に乗り出す方針を固めた。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立し、学校にかかる負担を軽減することを検討している。来年度の予算要求に盛り込みたい考えで、各地の教育委員会にも対策強化を求める。
文科省が検討している支援策は、保護者から理不尽な要求やクレームが繰り返された際、教育専門家ら外部のカウンセラーが保護者と学校の間に入り、感情的なもつれを解消して問題解決を図るというもの。
保護者とのトラブルが法的問題に発展するケースもあるため、学校が地域の弁護士からアドバイスを受けられるような協力体制づくりも進める。地域ごとにカウンセラーや弁護士らの支援チームを結成することも検討する。
教育現場では近年、無理難題を押しつける保護者らが急増。こうした保護者らは「モンスターペアレント」と呼ばれ、校長や教員が話し合いや説得に努めてきた。しかし感情的なもつれなどから問題解決がこじれ、学校にとって大きな負担になることが少なくないという。
モンスターペアレントについては今月初めの副大臣会議でも取り上げられ、文科省の池坊保子副大臣が早急に対策に取り組む姿勢を示していた。 文科省幹部は「学校が一部の保護者らの対応に追われて、子供たちの教育活動に支障が出るようになったら本末転倒。各教委が率先して対応に乗り出す必要がある」としている。
【主張】問題親 非常識に寛容すぎないか
産経新聞(06/19 05:17 )
自分の子が悪いのに、しかった教師のところに怒鳴り込む。なんでも学校のせいにして損害賠償まで請求する。そんな理不尽な親の問題が深刻になっている。
親からの無理難題の事例は枚挙にいとまがない。 大阪大の小野田正利教授らがつくる「学校保護者関係研究会」の聞き取り調査からも、その一端がうかがえる。「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」など、要求内容はあきれるばかりだ。
東京都港区教育委員会は、弁護士と契約して校長らの相談窓口をつくった。親とのトラブルで訴えられるケースを想定し、保険に入る教職員も増えている。こじれる前の対応が重要なのはいうまでもないが、やむにやまれない措置をとる教委が目立つ。
学校関係者を中心に、「モンスターペアレント」(怪物親)という造語が広がっている。絶え間ない苦情攻勢で学校教育にも支障を来す親の存在は、教師を萎縮(いしゅく)させている。学校が壊されてしまうという恐れも抱くという。そんな関係は危機的だ。
学校給食費を払わないばかりか、子供が通う保育園の保育料を払わない親も増え、自治体が法的措置を講じて督促するなど対応に苦慮している。支払い能力があるのに払わない親が増えているのだという。ここでも、自己中心的で規範意識のない親、学校を軽くみる親の姿が浮かび上がる。
問題親が増えている背景に、子育てに対する学校、家庭、地域の役割分担意識の希薄化を指摘する見方もある。教育はすべて学校の責任とする風潮である。教育委員会も親からのクレームに過敏となる傾向がある。その結果、親の非常識が放置され、理不尽な要求に振り回されている。
今年元日付の「年頭の主張」でも紹介したが、かつて欧米人は礼節を備えた日本の子供たちに目を瞠(みは)り、その子供たちを一体となって育(はぐく)む日本の社会や家庭の姿に感銘を受けたという(渡辺京二著『逝きし世の面影』から)。そうした社会を取り戻す必要がある。それにはまず、親の非常識を正すところから始めなければなるまい。
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