Friday, February 15, 2008

動物性(ドミニク・レステル)

2月14日、UTCPで行われたドミニク・レステルの「動物性」に関する講演に参加。良くも悪くも挑発的で刺激的な議論。[追記:以下、粗雑にまとめてしまったけれど、その後、郷原佳以さんによる的確なまとめがアップされたので、そちらを参照されたい]





チンパンジーがビデオゲームに習熟する、オランウータンが結び目を結ぶ、といった「規格外」の学習を通常の動物生態学者は嫌うのだという。純粋な行動環境が人間によって「汚染」されたのでは、「客観的」な観察が出来ない、と。この種の実在論的・デカルト主義的アプローチは、純粋状態の動物なるものが存在すると仮定し、その上で動物を型にはまったルーチン・反復的行動(comportement)を行なう「機械」と見なしやすい。

レステルは、透明で中立的な観察者という神話を拒否し、動物の創造的で発明に満ちた活動(activité)―規範的な科学者の「常識」から逸れたanecdotes(些細な細部)―に注目する科学者の存在を常に意識する―anthropomorphisme(擬人観)が不可避であるならば無意識に抑圧するのでなく、意識裡に制御するほうを選ぶべきではないか。動物の活動を構成的なものとして意識するだけでなく、その行動に積極的に働きかけ、構成に介入していくという意味で、「複合的な構成主義 bi-constructivisme」こそ、21世紀の動物生態学が採用すべきアプローチであり、20世紀の動物生態学が二つの恥ずべき罪として切り捨ててきたanthropomorphismeとanecdotesを積極的に活用していかねばならない、とレステルは言う。

要するに、人類学でなされたようなある種の解釈学的転回(「ガヴァガイ」など)、方法論的な反省を要請する批判的モーメントを動物生態学にも取り入れねばならない、ということであろう。動物生態学の人類学化、人類学の(かつてのような帝国主義的な形でなく、相対的な)動物生態学化の必要を説いていた。

私の質問は三つ。
1)動物性:科学とエピステモロジーの区別。ご説ごもっとも、でも現場の科学者はこういった正論的エピステモロジーに耳を傾けるんでしょうか。「特異なものの科学science du singulier」は果たして実現可能なのか?

2)人間性:レステルは人間の合理性と動物のそれとの差異を強調していたが、すでに人間の合理性と呼ばれるものの内部にも幾筋もの亀裂が走ってはいないか。動物生態学の人類学(ないし教育学?)への応用可能性はあるのか。

3)機械性(彼がmachinitéと呼ぶもの):テクノロジーの発達は、機械の動物化(animalisation de la machine)を促すとし、アイボの例を出していたが(ちょっと古い…)、そのようなものを機械の動物化と呼ぶのであれば、あらゆるアニミスム化はすでに人類の曙と共に存在していたのではないか。



挑発が好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いだろうなという議論だろう。自分の議論に似た部分を感じて(笑)、以て他山の石とすべし。

講演に行く時はいつも関連する書籍を持参し、電車で眺める。今日はこんな感じ。

Dominique Lestel, L'animalité. Essai sur le statut de l'humain, Hatier, coll. "Optiques", 1996.
Thierry Gontier, L'homme et l'animal. La philosophie antique, PUF, coll. "Philosophies", 1999.



フランス語理解を向上させたいという人には、こういった地道な努力(事前に本を読む、ネットで講演者のプロフィールを調べておくといった作業)をお勧めする。

レステルは、夜は日仏会館で「デリダの猫」(L'animal que donc je suis)について(多少批判的な)講演をすると言っていたが、私の現在の体調では一日に二つはとても無理なので断念。来週大丈夫かな…。

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