《哲学的思考は古代ギリシアの昔から、恋愛を理性では抑えられない不条理な情念と見なしてきた。哲学者が恋愛について語るとき、それは常にこの情念をいかに善的な目的に利用しうるか、という点に焦点を当てていた。
恋愛は本来的に社会秩序と相容れない、社会秩序を破壊する情念と考えられたから、社会秩序の枠内に慣習や制度として組み込まれ、秩序維持に寄与する結婚とは初めから別の次元にあった。恋愛は社会秩序を毀損しない範囲で、あるいは社会の側が自身の加える制度的圧力からしばし息抜きさせるために用意した装置の中でのみ許容された。
恋愛も結婚も社会を映し出す一種の文化型と言えるが、恋愛が常に文学のメインテーマとして豊かな想像力をかき立ててきたのに対し、結婚はお話にハッピーエンドをもたらすための終着点としてか、あるいは平穏無事な夫婦関係が不倫という第三者の介入によって亀裂を生ずる場合以外には、人々の関心を集め、記録されることがほとんどなかった。もちろん記録を残す人々にとって、結婚は日常で、恋愛は非日常である。日常はその流れが滞ったとき以外には書き記す意味がないというのが、一般的な感覚だったろう。[…]
結婚していた詩人も多いが、妻についての記録を残している詩人は極めて少ない。ベアトリーチェに対する永遠の愛を高らかに歌ったダンテも、妻については何も語ろうとしなかった。恋愛と結婚はまったく別の時空にあるものと考えられていたのである。
恋愛の有名性と結婚の無名性、この際立った対照性は、両者がもとより異なる時空に属するものだとしても、ともに男女の緊密な関係を作り出す文化型であるだけに、なおさら興味を惹く。》(前野みち子、『恋愛結婚の成立 近世ヨーロッパにおける女性観の変容』、名古屋大学出版会、2006年、3-4頁)
ゾラ、「ある恋愛結婚」(1866年、『テレーズ・ラカン』原型)、『ゾラ・セレクション』第1巻「初期名作集」、宮下志朗訳、藤原書店、2004年。読了
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