さて、続いてダスチュールである。彼女とは何度か食事を共にしたことがあるが、しなやかでたくましい野生の猫、という感じをいつも受ける。これは本を読んだ印象とはかなり違う。というのも、ブーリオーの著作も「教育的」なのだが、ブーリオーの著作にはどこか「ガリ勉」の香りがするのに対して、ダスチュールは「優等生」な感じがするのだ。痒いところに手が届くというか、懇切丁寧というか。野性味、豪快に笑い飛ばすといった雰囲気は著作の中にはない。
著作と実際に会ってみた印象が最もかけ離れていたのはEric Dufourである。姿形だけを見て、彼が新カント派の研究者と言い当てられる人はこの世に存在しないのではないかと思うくらいだ。
とまれ。『死。有限性に関する試論』には2バージョンある。Hatier社の叢書Optiquesから1994年8月に出た版は、biblioまで含めても80頁足らずの小著。
ちなみに、Jean-Michel Besnierに率いられたこの叢書は実に優れた叢書だった。ダスチュールが13年後に振り返った時の言葉を借りれば、
"Cette collection, qui n'existe plus aujourd'hui, était destinée à donner à un large public - allant des étudiants d'université et des élèves de la classe terminale des lycées à tous ceux qui s'intéressent à la philosophie sans avoir reçu de formation spéciale à cet égard - un accès à une réflexion philosophique centrée sur un petit nombre de questions fondamentales. Les livres de la collection "Optiques" devaient porter chacun sur une des notions du programme de philosophie de l'enseignement secondaire et se présenter sous une forme compacte, ce qui veut dire que leur nombre de pages était précisément calibré. / Lorsque l'on m'offrit de publier un essai dans cette collection, en me précisant le cadre dans lequel il s'agissait de s'insérer, j'eus tout de suite envie de participer à cette entreprise..." (La mort, PUF, coll. Epiméthée, 2007, p. 7).
リシールの身体論、バディウの倫理学、バルバラスの知覚論、ピショの優生学をはじめ、他にもMichel Haar, J.-M. Domenach, R. Misrahi, A. Renaut, P. Canivez(エリック・ヴェイユの専門家)など、錚々たる名前が並ぶ。ついこの間言及したレステルの『動物性』もこの叢書である(表紙の美青年ぶり…)。
いつも言うことだが、どの出版社から出ているか、とりわけどの叢書から出ているかはどうでもいいことではない。「叢書の地政学 géopolitique de la collection」とでも言うべきものがあるからだ。叢書によって内容に関する多くのことが事前に分かり、どのような思想の水脈に位置づけられるべきかおおよその見当がつくからである。
この叢書が良質なものだった証拠に、この叢書が消滅した後、次々と他の出版社から再版が決定している。バディウの『倫理』はすでに2003年に「第二版への序」を付してNousという出版社から再刊されているし、レステルも2007年にL'Herneから出た。
2007年9月にPUFの名門叢書エピメテから出た『死。有限性に関する試論』の2バージョンめは200頁を超え、大幅にバージョンアップがなされている。
ブーリオーにとって有限性とは人間の可感的な認識の限界を指していた。ダスチュールにとって、有限性とは死である。「死と有限性とは私にとって本来的に結びついたものだ」(p. 8)。おそらくどちらか一方だけでは駄目で、この両面を見据えないと有限性という概念の十全な把握には到達できないのだが、とまれ。。
*
人は自分がいずれ死ぬと知っている。通常、この己の死に関する「知」は、人類の本質的特徴の一つに数えられる。宗教、形而上学、総じて文化全般は、死に「打ち克つ」ことを謳う。哲学もその例に漏れない。プラトンからヘーゲルに至るまで、西洋哲学もまた、思考の修練のうちでこそ死と有限性は「乗り越え」られうる、と主張してきたのだった。
そこでダスチュールは、まず古代神話や聖書にまで遡り、「死の彼岸」に関する形而上学的・宗教的・哲学的な思索の歴史をたどり直し、次いで、従来とは異なる死生観、死との関係を紡ぎ出すことが可能であることを示そうとする。
モンテーニュが言うように死と「慣れ親しむ」のでもなく、死をかわそうとするのでもない、第三の道。もちろんダスチュールにとって、それはハイデガーにほかならない。『存在と時間』における「死に臨む存在」などの分析から出発して、死の可能性の条件を、人間存在が自らの有限性を自由に引き受けることと見なす。
死という体験のもつ意味の変化は、無限と有限の関係にも変化をもたらす。従来の「死の形而上学」は常に、死を超越した存在の無限性、神的なものの時間を超越した無限性と対になる形で、人間存在の有限性を考えてきたが、ハイデガー=ダスチュール的な死の思想は、徹底して地上的で、時間的で、身体的である。
…これが本書の骨格であり、それはそれでいいのだが、「有限性」と言えば「死」という思考パターンには正直うんざりしている。哲学者ならぬ哲学屋は荘厳めかすのが好きなあまり、赤ん坊の鳴き声や血にまみれた「誕生」が有限性のもう一つの極であることを忘れているのだ。それだけにいっそうダスチュールが本書の終り近くで「有限性と出生 Finitude et natalité」に一節を割いているのは注目に値する。次回はこの点を見ていこう。
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