土曜日、シンポジウム《哲学と大学――人文科学の未来》に参加してきた。その様子はいずれUTCPのサイトで報告されるだろうから、せめて自分の発言くらいまとめておこうと思ったのだが、お馴染の方にはご推察の通り、翌日以降、アトピー症状が急激に悪化し、またもダウンしてしまった。
今日は遠くの病院に行ってきた。これまでは久しぶりの再発ということでステロイドを使っての短期決戦でケリをつけるという戦略だったのだが、それが失敗に終わったので、脱ステロイドという長期的で苦しい療法を選択せざるをえない。ステロイドは長期連用すると依存体質になったり他のところに副作用が出てくる惧れがあるからだ。薬で一時的に抑えるということができなくなると、これから今まで以上に苦しくなる。。
というわけで、自分のコメントの代わりに、ひと月ほど前に書いた雑文。他の仕事も少しずつやってますよ。。
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九代目林家正蔵(元・こぶ平)の「生きてるうちにしたいこと」という記事を読んだ。「噺を自分の言葉で語る」ことなんだそうである。TBがついていて、「まずは実力をつけたら」「名前ばかり先行している」「名前負けしている」などと好き放題に書かれている。
正直に言えば、私も、八代目正蔵(彦六)が芝居話や怪談話を得意とする端正な話芸の持ち主であっただけに、「九代目はもうちょっと勉強が必要かな」と思う。けれども、話すこと、書くことを職業とし、その意味ではほぼ同じ土俵に上がる者としては、そう簡単に「まずは実力をつけたら」などとは言えない。それは、素人が素人として言う限りで許される言葉である。あるいは、プロとして自分の実力が彼より完全に上であると自覚し、周囲からも認められた限りでようやく許される言葉である。
「誰某は駄目だ」「もっと勉強したほうがいい」――巨大掲示板やsnsに哲学・思想研究に関する「コメント」や「批評」を書きつける。あるいは書きつけないにしても、談義に花を咲かせる大学院生を見ると、暗澹とせざるをえない。彼らは完全に勘違いをしている。彼らは素人ではない。それとも、「観客」や「批評家」でありたいのだろうか。
日本のいわゆる「一流大学」で哲学・思想研究に従事している大学院生と、フランスのいわゆる「グランゼコール」出身の哲学系大学院生を比べた場合、まず真っ先に思うのが前者のアマチュアリズム、後者のプロフェッショナリズムである――「大学」一般や「若手研究者」一般について語ることは本当に難しいとますます実感しているので、問題をここまで限定してみる。
フランスのいわゆる「グランゼコール」の学生たちには国家公務員として給料が支給され、文化機関においては各種の割引が用意されている。それは、彼らが国民のために奉仕する官僚(教員)候補生と見なされているからである。私にとっては、これが「エリート」という言葉の厳密な意味である。日本では旧帝大系や伝統ある私立大学が「一流大学」とされ、「エリート」と呼ばれたりもするが、彼らは少なからぬ入学金・授業料を支払って大学に通っているのである(下表)。この差は当然、学生の意識に決定的な影響を及ぼす。
国立:入学金(約28万円)、学部授業料(約54万円/年)、大学院授業料(約54万円/年)
私立:入学金(約28万円)、文系学部(約100万円前後/年)、文系大学院(約50‐100万円超/年)
(私立では、さらに施設費・実習費・諸会費の三つで約35万円/年がかかる)
《結局、アメリカ、ヨーロッパ諸国は公的資金の拡大を通じて大学拡張を実行したが、日本の場合には、私立大学が拡大し、そのための民間資金の導入が大幅に行われたことになる。その影響はその後も続き、高等教育に投入される公的資金は、GDP(国内総生産)に対する比率で見ると、日本は先進諸国の中では最も低い。》(潮木守一、『世界の大学危機』、185頁)
さらに、フランスの大学院では、研究者養成制度(3e cycle)と教育者養成制度(アグレガシオン試験制度)は、制度的に完全に分離されている。これが日本の大学院との最大の違いである、と私には思われる。フランス人が通常辿るコースは、二十代前半~後半でアグレガシオン免状を取り、教員として生活費を稼ぐことを保証されつつ、研究者養成コースに通う(博士論文を執筆する)、というものである。だが、日本ではこれが出来ない。研究と教育が制度的に完全に分離されていないからである――「制度的な分離」ということを強調するのは、実際にはもちろん学生は両方の制度を利用するからである。
フランスではアグレガシオン免状をとる学力が不足している場合、博士課程に進まず、研究を断念することもままある。これだと早めの進路変更も可能である。日本では二十代後半~三十代半ばで博士号まで取っても就職の見込みがない場合もままある。博士号を取るまでの数年間を自分の研究とまったく関係のないアルバイトをして大半の時間を潰すこともしばしばである。その途方もない忍耐の最終段階まで来て就職がない人々が沢山いるとしたら、それはそもそも大学院増設のプランニングがまずかったのだと言われても仕方がないだろう。
《18歳人口が減少する第一歩を刻んだ平成三年(1991年)から16年が経った今、短大や大学への進学者は予想された通りに激減した。だが、大学院だけは逆となった。少子化などどこ吹く風とばかりに、院生は大量に増殖した。
大学院生の数は戦後最大となり、昨年には26万人を突破した。わずか20年前には、7万人であったことを考えると、これは驚異的な成長率である。「大学院重点化計画」における院生増産が、文部科学省の主導によって”計画的に”達成された結果である。
自然の理に逆らうようなこんなパラドックスが続けば、どこかに歪みが生じることは火を見るより明らかだ。
現在、大学院博士課程を修了した人たちの就職率は、おおむね50%程度と考えていい。学歴構造の頂点まで到達したといってもよいであろうこれらの人たち。だが、その二人に一人は定職に就けず、”フリーター”などの非正規雇用者としての労働に従事している。
こうしたフリーター博士や博士候補が、毎年5千名ほど追加され続けているのが、日本の高等教育における”今”なのである。その生産現場は、もちろん「大学院」だ。》(水月昭道、『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』、光文社新書、2007年、4‐6頁)
私はこういった事態の進展をあたかも「天災」のように語ったり、すべての責任を文科省に押し付ける(同じことだが、何らかの形で回避策を模索しなかった)大学教員に怒りを覚える。その人々が「大学院重点化」が政策として決定された時点で教授であったのであればなおさらである。いつも言うことだが、暴力の振るわれている現場でNO!の声をあげない者はYES!と言っているのと同じである。申し訳ないが、声に出せない良心など良心ではない。
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そのうえ、日本の大学の採用基準は、今もなお多くの場合、研究能力(論文の数)であって教育能力ではない(教員選考に際して模擬授業を課す大学が大半とは言えないし、そもそも大学院に大学教員養成用の授業はほぼ皆無である)。大学が「教育者」兼「研究者」としてある者を採用する場合の基準が、その者が「研究者」として行なった活動の質・量のみであるというねじれ――これは大学で行われている教育に何の影響ももたらさないと言い切れるであろうか?
アグレガシオンは様々な問題を抱えつつも(アグレガシオンの審査に携わる教授に学べるパリの学生が有利であると言われるし、「アグレガシオンは真に教育に必要な能力を測っていない」「試験が得意なだけ、器用なだけの学生に有利だ」との批判も根強くある)、国家統一試験であり、最低限形式的に「透明」であり、これを通過した者は最低限の教授能力を持っていると見なされる(長時間の口頭試験、模擬授業がある)。問題を抱えた者が通過してしまうこともあるが、制度の例外をつつき出せばきりがない(たしかにアグレグに落ちた私の友人たちの中には明らかに哲学的能力を備えた者もいる。しかし、マクロの視点を取った場合、アグレグの能力評価は概ね当たっている)。
自分は本当に大学に残れるのか、本当に研究者としてやっていけるのか、本当に大学教員になれるのか不安を抱え、ひとまず授業料を稼ぐためにアルバイトに精を出すか――塾講師や予備校講師で自分の専門を教えられる人がどれほどいるだろう?――、学生支援機構ないしは両親に「甘えて」研究を続けているというどこか後ろめたい気持ち、引け目を抱いたまま二十代・三十代を過ごす日本の人文系大学院生。
アグレガシオン免状を取って自分の教師としての力量を示し、自分の研究分野を教えて給料をもらいつつ、若いうちから誇りを持って研究者としての道を歩み続けるフランスの人文系大学院生――こちらのほうがよほど筋が通っていると思うのだが、どうだろうか。
(誤解のないように言っておくが、フランスの制度にまったく問題がないと言っているわけではない。「そもそも哲学のアグレグの数が激減している」「その結果、アグレガシオンを取った若い教員が正規職に就けず、代用教員の立場に置かれ続けるといった事態が急激に増加している」といった問題は深刻である。だが、研究と教育を制度的に分離するメリットが少なくとも一つある、と言っているのである。)
自分の研究・教育活動を経済基盤として安定的に生活できない者に研究者の自覚(それ以前に一社会人としての自覚)が容易に宿るはずもない。若手サラリーマンが自分の本来の仕事・働きに応じてではなく、上司の裁量(我々で言えば、学生支援機構=旧育英会の援助)によって給金を与えられたり、あるいは副業・アルバイトで、あるいは(残念なことに最も頻繁なケースだが)親の仕送りで、どうにか生活を支えているとしたら、彼らは誇りを持って仕事に臨めるであろうか?
なるほどたしかに日本学術振興会(学振)はおおよそ仕事・働きに応じて奨学金を与えている。ただし、サラリーマンのように基本的に社内にいてプロジェクトチームに入ることで業績アップを狙うというのが相対的競争主義であるのに対して、学振は絶対的競争主義であるという大きな違いがある。ここにはセーフティネットはない。若手研究者は正規雇用サラリーマンよりもフリーターに近い境遇に置かれている。高学歴ワーキングプアの問題は深刻化している。
日本の「一流大学」と呼ばれている大学でさえも厳密な意味で「エリート大学」と言えないのは、このような(純粋に経済的な)理由によるのである。このようなメカニズムを知らずに、このようなメカニズムの来歴や功罪を分析することなしに、大学院生の事をただ「モラトリアム」だ「怠け者」だ「学力低下」だと嘆く(あるいは自分を嘆く)のは実に容易いことだ。
どこから手を着けるべきだろうか、答えははっきりしている。NON RIDERE, NON LUGERE, NEQUE DETESTARI, SED INTELLIGERE.
皆が皆、「哲学と大学」論をやれ、とは言わない。しかし、いやしくも哲学・思想研究を志す者が、自分がどのような場に身を置いてものを考えているかを批判的に自覚することなしに、研究活動を続けていけるものだろうか?いつの日か噺を自分の言葉で語れるようのなるために、プロとしての自覚と誇りを持てるようになるために、今何をなすべきか、決して忘れてならないことは何か。
これは大学教員になったから「一抜けた」となるような問題ではない。たとえ今までそのようにしてこの問題が現に放置されてきたとしても。
■噺を自分の言葉で語る
今年で45歳になる。平均寿命から考えればもうすでに人生の折り返し地点を通過した。私は15のときに、落語家になった。祖父も父も噺家(はなしか)という家に生まれ育った。(…)
落語を知れば知るほど、ある程度の基本的な型をマスターすれば、その後は己(おのれ)の魅力のみがその噺家の価値になる。つまり何を話すかではなく誰が語るかなのである。正蔵を襲名する5年前から父が手がけていなかった古典落語を中心に、初心に帰り稽古(けいこ)に通った。
ここ何年間でいろいろなことが解(わか)ってきた気がする。身についたもの、これからまだまだ覚え習得し、磨きをかけてゆかねばならぬこと。だから常に今週は何を、今月までにはどんな噺を仕上げること、など短い期間の課題と5年後の目標、10年後の理想、20年後の自分の姿を思い描いている。
現実としてゴールラインが遠くに見え、それを多少なりとも意識してしまう年齢になった。すると不思議なことに肩の力は抜きながら、こうなりたいという噺家像に向かって全力で走れる。
座布団一枚の制約の中においてどれだけ己の世界を生み出してゆけるのか、その唯一の可能性にかけて、日々生きていきたい。生きているうちにしたいことは、どれだけいい噺を自分の言葉で語れるか、ただそれのみである。
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