Saturday, April 14, 2012

ぼくは勉強ができない

《欲するだけでは足りぬ。熱望してこそ目的は達成されよう。》(オヴィディウス)
 春休みの数か月間、勉強会を何度かやった。意欲のある学生たちにはおおむね好評だったが、その他の学生たち何人かから、新学期を前に「ゼミを辞めたい」という声が出てきた。それらの声をきっかけにして、あらためて「勉学の意欲」といわれるものの実質について考え直すことになった。

教師は「関心」という糸だけを頼りに学生たちを手繰り寄せようとするのだが――蜘蛛の糸?――、その糸はあまりにも細く、あまりにも脆い。

基礎学力が下がれば下がるほど、ごく些細なことで、学生たちは学業自体から挫折(ドロップ・アウト)することになる。それは当然だろう。もともと大して好きでもない勉強を、「みんなが大学に行っているから」「就職のため」「大卒という肩書のために」と我慢してやっているのだから。

基礎学力を上げてあげようとすると、モチベーションそのものが消えてしまう。糸を太くしてやろうと縒り始めると、糸が切れる。切れ方はさまざまだ。

フランス語やドイツ語など要らない。哲学などとんでもない。英語だけ、それも資格と見なされる試験で高得点をとれる「技術」だけがほしい。SPIの対策さえやってくれればいい――そういう学生は元々私のところに近寄って来すらしないので、問題はない。

問題は、「哲学面白いな、と思ってきてはみたんですけど、こんなに大変とは思わなくて…」という学生たちである。一方にテンションの高い、向学心に燃える学生たちがいる場合、こういった「ほどほど」の興味を持っている学生たちをどう扱うか、バランスに悩むところである。



勉強ができないことにはいつも、いくつも理由がある。他にやりたいことがある場合、話は割合簡単だ。その「夢」ないし「目標」と折り合いのつく着地点を見つければいいのだから。だが、そういった「ポジティヴ」な理由ばかりとは限らない。家族の悩み、経済的な悩み、恋愛の悩み…。

そのような場合、とりわけ学生がいつも本当の理由を言うとは限らない。がしかし、それは「嘘をつく」というのとも少し違う。どんな学生であれ、少し関わったことのある学生が本当の理由を言えないとき、そこには何かがある。



自分で「本当の理由」に気づいていないこともある。

他の学生たちのレベルについていけないことを真剣に悩み、「申し訳ない」という気持ちや、「なんでそんなに時間あるの」と他の学生たちを恨みそうになり、そんな自分を見るのが嫌で、ゼミをやめようと決意する学生もいる。

そういうタイプの学生は、比べられるということを極端に嫌がる。そのくせ、自分は内心いつも自分と人を比べている。いや、順序はむしろ逆だろう。「内心いつも自分と人を比べている」がゆえに、傷つくのを恐れるあまり、「比べられるということを極端に嫌がる」のだ。

こういうとき、教師は無力を感じることになる。言葉で学生をやる気にさせることはできない。自分の言葉でやる気を出させることに成功したように見えるときでも、実際には相手の心がその言葉に応じるように動いたから「やる気になった」のである。



もちろん逆に、言葉でやる気を出させることに成功したと思える瞬間もある。例えば、第1回の結婚に関する授業。教室のほとんどが女子学生でびっくりした(過去数年間は女子が若干優勢という程度だったのだが)。

授業は学生の聴きたそうなアクチュアルな問題を中心に話を進め、授業の後半では学生たちと一緒に新聞広告をいろいろと分析するという方式。学生はうちの大学にしては奇跡的なくらい集中して最後まで熱心に聴いていた。

感想もポジティヴ。「結婚についてなど、こんなに深く考えたことなかったので、深さにびっくりした。話を聞いておもしろいなと思った」「今まで自分が結婚について考えてたことや広告の見方もかわりました。これからたくさん哲学的に考えていけるようにしたいです」「結婚することは「楽しい」というイメージしかなかったので、今日の講義で現実を見た気がした」「結婚の現実的な話をきいて、ちょっと夢が崩れたけど、おもしろかった」「愛や性に関することは一生かかわる問題だと思うので、しっかりと考えていきたい。特に、就職と結婚は人生が変わることなので、失敗しないようにいろいろなことを学んでいきたい」などなど。



冒頭に言及した学生たちも、そう言ってうちのゼミに来たのだったが…。

ちなみに、私のゼミは、時間のある人ばかりが構成員ではない。野球部の学生もいる。野球でレギュラーになるのが夢だが、哲学にも関心があるという。ならば、一生懸命野球をやればいい。語学もやらなくていいし、授業外の勉強会にも無理してでなくて構わない。ただ、ゼミに出るときだけは全力でやってほしい。野球部だからといってゼミの中で特別扱いはしない。予習・復習ができないとか、発表は当てないでほしいなどというのは認めない。それでいいなら、ゼミに入れることを認める。

人数の多い「人気のゼミ」などを目指したりはしない。数が少なくても哲学に興味のある学生が満足できるゼミを目指す。いろんな大学の学生、学生ではないが哲学に関心のある人々が入り混じるゼミ、それこそが真に活気のあるゼミだろう。

自己満足で難解な哲学用語を振り回すゼミにもしたくない。専門用語を使わなければたしかに精確な理解には到達しないかもしれない。けれど、100を目指して0になってしまうよりは、確実な50を目指したい。勉強に関心を持てない学生がマジョリティを占める場所で、学生たちが哲学に興味を持ち、ましてや哲学のテクストを「読む」というレベルにまで達するのがどれほど難しいことか。

マジョリティに染まらぬ学生たちの「哲学的」努力は、ささやかな、しかし、すでにして一つの立派な闘争であり、抵抗である。そこに運動としての「文化」を見ずして、どこに見るというのか。



学生はやる気になるとやるし、そうならないとやらない。また、多少やる気があっても、それは様々な要因によって消えてしまったり、経済的な理由によってはせっかく熾りかけた火を消すことを余儀なくされたりする。

私たちにできるのは、せいぜい火がついてきたときに、その火を少しでも大きくするように努めることでしかない。火を絶やさないようにするのも難しい。「火をつける」ことができるのはごく限られた僥倖にすぎない。

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