いや、もっと直截的に言わないとわからないだろう。要するに、日本では乳首を見せることに対して異様な警戒心があるということだ。だから、海外の女子スポーツ選手がリラックスした姿で現れるたびに、ネット上に滑稽でお寒い反応が現れることになる(一例だけ挙げれば、こういうことだ)。
日本の女子中高生が暑い時でもベストやセーターを着たがるのはその延長線上で、「ブラの線さえも見られたくない」ということなのだろう(少なくとも有力な理由の一つではある)。
この件に関して、ブラジャーの発明、有名なアトランティック・シティでの「ブラジャーの焼き捨て」(は実は捏造だった)、現在のブラ感などなど、ブラジャーの来し方行く末を簡潔に記した、ほどよくくつろいだ文章を見つけた。
わたし自身は、ブラのおかげで飛んだり跳ねたりができるので、ブラジャーのことを生理用品や鎮痛剤と同じくらいにありがたい発明品だと思っています。きれいなレース、大好きだし。^^ だけど、もちろん「身だしなみ」としてつけたことは一度もありません。
ブラジャーをしたい人はする、したくない人はしない、そんなゆるい感じになったらいいなと思います。
最近の「おっぱい」の異様とも思える騒がれ方と、2月12日を前にして、
「これからブラジャーはどこへ向かっていくのか…… 」
なんだか、ちょっぴり気になります。(誰が決めたのか、2月12日は「ブラジャーの日」。)
こういったことについて「思考」することが、なぜ哲学することと相容れないと思われているのか、まったく分からない。プラトンはこう言っているのだが…。
「それならば、守護者の妻女たちは着物を脱がなければならない――いやしくも、着物の代わりに徳(卓越性)をこそ身に着けるべきであるからには。そして戦争その他、国家の守護に関わる任務に参加すべきであり、それ以外のことをしてはならないのだ。ただそうした任務そのもののうちでは、女性としての弱さを考慮して、男たちよりも軽い仕事を女たちに割り当てなければならないけれども。
裸の女たちを――それが最善のことであるがゆえに裸で体育にいそしむ女たちを――笑いものにするあの男はといえば、彼はまさしく『笑いの未熟な実を摘み取る者』にほかならず、どうやら、自分が笑っているものが何であるかをまったく知らず、自分のしていることの意味もわからないもののようだ。なぜならば、現在も未来も変わらぬこのうえなき名言は、こう告げているからだ――益になることは美しく、害になることは醜い、と」(プラトン『国家』第5巻)
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