発表「記憶の底を穿つ――〈核なるもの〉の脱構築と人文学の将来」の要約
1.反時代的応答
《カタストロフィの哲学――フクシマ以後、人文学を再考する》と題されたシンポジウムに哲学者として参加し発表をおこなうことは――ジャンケレヴィッチがかつて「無」について語ってみせたように、深淵の淵を好んでうろつき回るような営為に似てしまう可能性を孕んでいるだけにいっそう――、困難な挑戦であった。この課題にいかに応答できるか。たとえば放射能問題に関する言説を社会学的に分析しつつ、あるいはその中で絶望し、あるいは希望を語ること、またはこの問題に関する素人として、しかし誠実に情報収集に努め、何が確実に言えて、何が確実に言えないことなのかを因果性分析などを通じて見極めようとすること、そういったことはすべてアクチュアルで意味のある挙措であろう。しかし、そのような直接的な仕方ではなく、あくまでも私たちなりの仕方で、ハンドルの「遊び」が車の的確な運転に不可欠であるという意味で、〈戯れの空間〉をもった、斜めからの反時代的な「応答」を試みることはできないだろうか。
2.約束の記憶(ニーチェ)
現在「破局の哲学」を考えるうえで、デュピュイは「未来」に、ナンシーは「現在」に定位しているように思われる。私たちは、むしろ「記憶」に注目してみようと考えた(ただし、記憶は必ずしも「過去」に定位するものではない)。「記憶」と「記憶を絶したもの」の対立は、哲学史の様々な場所に顔を表し、ひそかな系譜を形成している。例えば『道徳の系譜』をはじめとするニーチェの諸著作における二つの記憶――「ルサンチマンの記憶」と「約束の記憶」――の対立である。ルサンチマンの記憶は、悪しき意味での「健忘症」と対になってジャーナリスティックな記憶を形成するが、ニーチェによれば、私たちが真の文化を形成しうるのは、未来に対する「約束の記憶」たる反時代的な記憶、によってである。これは道徳的・倫理的な責任の論理を追求していった果てに現れる、ほとんど無責任な約束である(なぜなら、文明の究極の果実は「自律的な主権的個人」であるはずだが、「自律的である」ということは他人から課された道徳に従うという意味で「責任を取る」こととは鋭く対立するからだ)。文明史の観点から、破局の哲学を、自然と技術の問題、倫理と責任の問題、社会と個人の問題を通して考えるとき、このような「記憶/記憶を絶したもの」の観点が重要だと思われる。
3.「核解体」と「記憶を絶したもの」(レヴィナス)
今ふたたび私たちは〈核〉の時代を生きているのかもしれない。だが、たとえ私たちにとっての「破局」が先鋭的な形で現れるのが、〈核〉にどう向き合うかという問題であるとしても、それは、物理的な核融合や核分裂による原子力エネルギーの軍事的活用(核爆弾)・市民的活用(原子力発電所)をめぐる、各地で活発化している議論だけに限られるわけではない。そうではなく、精神的・社会的なレベルでも、核家族化を超えた社会的紐帯の破断にほかならない引きこもり・孤独死といったグローバリゼーションへの対抗的な症候と見られる現象もまた、〈核〉の問題に数え入れるべきなのではないだろうか。そして、この意味での〈核〉問題に対して、〈絆〉をもって対抗しようとするのではなく、むしろこの新たな〈核〉の時代にふさわしい言説を探すことはできないだろうか。この点に関して、後期レヴィナスの「記憶を絶したもの」(l’immémorial)と「核解体」(dénucléation)という概念は注目に値するものであるように思われる。あらゆる生の経験を時間軸上に整序し、歴史を作り、「記憶」のアーカイヴに収める存在論的体制の下で、それに抗い、時間軸から外れ、歴史をかき乱す「記憶を絶したもの」こそ、レヴィナスが「存在とは異なる仕方で」ないし「存在の彼方」と呼ぶ出来事である。これは、自我に対する外的な脅威として現れるのではなく、己を内側から引き裂くことで自我を出現せしめるものであり、この自己の最も深奥に致命的なトラウマを惹き起こしうる、しかしそれによってしか自我が不安定な、束の間の安定を得ることすらできない運動をレヴィナスは「核解体」と呼ぶ。
4.呼びかけと純粋記憶(ベルクソン)
ニーチェ的な「ルサンチマンの記憶/約束の記憶」、レヴィナス的な「記憶/記憶を絶したもの」は、一見すると「個人」や〈核〉に固執するものであるかのように思われるかもしれない。だが、これらはまた、個人を響きあいという関係の中で捉えるという意味で、〈核なるものの脱構築〉プロジェクトの中に位置づけられるべきものである。「記憶を絶したもの」の系譜のこの側面を最もよく表してくれるのは、私たちの考えでは、「想起記憶/純粋記憶」の対立に発した、ベルクソンの「閉じた社会/開かれた社会」の分析である。『道徳と宗教の二源泉』においては、ひとびとが憧れの存在に呼びかけられ、開かれた行動に自発的に向かう論理が、私たちが実存(existence)分析ならぬ響存(échosistence)分析と呼ぶものとして描き出されている。
5.耳の約束(ふたたびニーチェ)
この「約束の記憶」「記憶を絶したもの」「響存」の次元こそ、人文学が絶えず弛まず回帰していくべき場所に他ならない。1871年の若きニーチェは『我々の教養施設の将来について』と題された一連の講演においてまさに「耳」「響き」「約束」「記憶」のテーマ系を通して「我々の教養施設の将来」、そして人文学の将来について語っていた。天才への絶対服従を主張していると思われてきた、従来のニーチェ像の変更が必要になる。記憶を絶したものに耳を傾けること、決して帰ってはこないものに、それでも約束を果たすこと、自らの存在と他者の存在を響き合いを通して捉えること。人文学を再考するなら、未来を希望するだけでなく、現在を考え抜くだけでなく、記憶の底を穿たねばならない。
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