Colloque international "Le système métastable et l'individuation - Autour de la philosophie de Gilbert Simondon"
Le 24 mars 2007 à la Salle de Conférence(119J), 18e étage de Liberty Tour de l’Université Meiji(Surugadai, Kanda, Yokyo)
Programme
Session1
15:00-16:00 Masato GODA (Université Meiji)
Introduction à la philosophie de Gilbert Simondon
16:00-16:30 Discussion
Pose-café(16:30-17:30)
Session 2 (présidence: Hisashi Fujita)
17:30-18:10 Masami Komemushi (Université Kansei-Gakuin)
La nature et son système métastable. Penser la nature acvec Simondon et Deleuze
18:15-18:55 Hisashi Fujita (Université Kyusyu Sangyo)
Imagination et invention chez Bergson et Simondon
19:00-19:40 Paul-Antoine Miquel(Université Nice)
De l'individuel au vital
19:45-20:25 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Simondon et la philosophie de la nature
20:30-21:10 Discussion et Discussion générale
Saturday, March 20, 2010
Wednesday, March 17, 2010
リマインド
各種イベントが近付いてまいりましたので、再告知です。
3月19日(金) ドゥギー講演会&『哲学の権利』上映会@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100319164048.html
3月中旬~4月中旬 エラスムス・ムンドゥス
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/about/
関連のシンポジウムが幾つも開かれるのですが(全詳細は上記URLで)、自分の関わっているものとして、
3月24日(水) 国際シンポジウム「不均衡システムと個体化――ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」@東京・明治大学
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/2010/03/15135000.php
3月27日(金)国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100327150000.html
3月19日(金) ドゥギー講演会&『哲学の権利』上映会@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100319164048.html
3月中旬~4月中旬 エラスムス・ムンドゥス
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/about/
関連のシンポジウムが幾つも開かれるのですが(全詳細は上記URLで)、自分の関わっているものとして、
3月24日(水) 国際シンポジウム「不均衡システムと個体化――ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」@東京・明治大学
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/2010/03/15135000.php
3月27日(金)国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100327150000.html
Sunday, March 14, 2010
最近の読書
ゴーシェ書評会、学生との勉強会のためにいろいろ読んだ。
その他に、
ベルクソン研究:
Florence Caeymaex, Sartre, Merleau-Ponty, Bergson. Les phénoménologies existentialistes et leur héritage bergsonien, Olms, coll. "Europaea Memoria", 2005.
Gilbert Simondon, Imagination et Invention.
アガンベン「記憶の及ばない像」、『思考の潜勢力――論文と講演』、月曜社、2009年12月、406―418頁。
結婚論:
ゲーテ『親和力』、ワーグナー『タンホイザー』、モーツァルト『フィガロの結婚』
大学論:
自戒を込めて言うのだが、「大学」というものの在り方について、これまでなされてきた研究の蓄積を踏まえることなく、独断的な主観や幼稚な印象批評で議論はできない。私は私なりに、自分の知識・考えの欠落を補う努力をささやかながらしているつもりだし、これからも続けていこうと思っている。
猪木武徳『大学の反省』、NTT出版、2009年。特に、4章「産業社会における人文学」と5章「産業と学問」。
竹内洋『大学という病』(初版2001年)、中公文庫、2007年。
どちらもとても読みやすい。例えば、後者は、戦前の東大経済学部の「慢性派閥病」を「大学版・忠臣蔵」に見立てた社会学的ノンフィクションだが、「昔の大学に私語がなかったわけ」など、なるほどと思わされる説明も多い。
一つ違いを挙げるとすれば、後者が最終的には個人レベルでの自省を促すという視点に収束するのに対し、前者には労働経済学者ならではの政策提言的な指摘が目につくところだろうか。ただし、後者は、言ってみれば「直球勝負の教養必要論、これで打たれたら仕方ない」的なさわやか高校球児的提言。1)教養の必要性、2)私学への公費投入の必要性、3)先生という職業の再確立、とどれも「ご説ごもっとも」だが、果たしてどれくらいの政府関係者・財界人、そして何より世論が実現に向けて動いてくれるだろうか。
金子元久『大学の教育力』、ちくま新書。
天野郁夫『大学の誕生』(上)(下)、中公新書。
前者は無難にまとまっている(アメリカの大学を見倣いましょう的提言)。ただ、誤字・脱字・誤植散見される。
後者は明治初期から大正8年までの大学誕生の歴史のうねりを繊細かつダイナミックに描き出している。
その他に、
ベルクソン研究:
Florence Caeymaex, Sartre, Merleau-Ponty, Bergson. Les phénoménologies existentialistes et leur héritage bergsonien, Olms, coll. "Europaea Memoria", 2005.
Gilbert Simondon, Imagination et Invention.
アガンベン「記憶の及ばない像」、『思考の潜勢力――論文と講演』、月曜社、2009年12月、406―418頁。
結婚論:
ゲーテ『親和力』、ワーグナー『タンホイザー』、モーツァルト『フィガロの結婚』
大学論:
自戒を込めて言うのだが、「大学」というものの在り方について、これまでなされてきた研究の蓄積を踏まえることなく、独断的な主観や幼稚な印象批評で議論はできない。私は私なりに、自分の知識・考えの欠落を補う努力をささやかながらしているつもりだし、これからも続けていこうと思っている。
猪木武徳『大学の反省』、NTT出版、2009年。特に、4章「産業社会における人文学」と5章「産業と学問」。
竹内洋『大学という病』(初版2001年)、中公文庫、2007年。
どちらもとても読みやすい。例えば、後者は、戦前の東大経済学部の「慢性派閥病」を「大学版・忠臣蔵」に見立てた社会学的ノンフィクションだが、「昔の大学に私語がなかったわけ」など、なるほどと思わされる説明も多い。
一つ違いを挙げるとすれば、後者が最終的には個人レベルでの自省を促すという視点に収束するのに対し、前者には労働経済学者ならではの政策提言的な指摘が目につくところだろうか。ただし、後者は、言ってみれば「直球勝負の教養必要論、これで打たれたら仕方ない」的なさわやか高校球児的提言。1)教養の必要性、2)私学への公費投入の必要性、3)先生という職業の再確立、とどれも「ご説ごもっとも」だが、果たしてどれくらいの政府関係者・財界人、そして何より世論が実現に向けて動いてくれるだろうか。
金子元久『大学の教育力』、ちくま新書。
天野郁夫『大学の誕生』(上)(下)、中公新書。
前者は無難にまとまっている(アメリカの大学を見倣いましょう的提言)。ただ、誤字・脱字・誤植散見される。
後者は明治初期から大正8年までの大学誕生の歴史のうねりを繊細かつダイナミックに描き出している。
Wednesday, March 10, 2010
誤解
『名ばかり大学生』に関して私が先日書いた読後感をお読みになった方から、「私が自分の大学を貶めている」といった評をいただきました。が、これはとても残念な誤解です。おそらく長いので、前半の「校内暴力」と「援助交際」の部分だけをお読みになり、その後の部分を誤って推測された(あるいは読み飛ばされた)のではないかと推測します。もしかすると、長さゆえのこういった誤解をされた方は他にもあるかもしれませんので、一言お答えしておきます。
後半の冒頭で、私は本書の私立大学観を批判し、こう述べています。
後半の冒頭で、私は本書の私立大学観を批判し、こう述べています。
本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。そして、こうも述べています。
「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。したがって、お手数ですが、私の雑文(長いですが)をもう一度、特に後半部分だけでもお読みいただけますか。私の言葉に舌足らずな点があったかもしれません。そうであるならば、お詫びをするほかありません。ですが少なくとも、私が決して自分の大学を貶めようなどということだけはしていないことがお分かりいただければ幸いです。
Sunday, March 07, 2010
再校終了
1月に書いた論文の再校を終え(ここでも結構な修正)、仏人研究者の論文の翻訳に取り掛かる。
八木雄二の『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』(春秋社、2009年12月)をちらちら眺めている。600頁近い大著だが、すでに平凡社新書で発揮していた、読みやすく書く才能をいかんなく発揮しており、「中世哲学入門」講義の観あり(全16章だし、ちょうどいい)。一学期間かける予定の再来年・後期には種本の一つとして使わせていただくかもしれない。
八木雄二の『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』(春秋社、2009年12月)をちらちら眺めている。600頁近い大著だが、すでに平凡社新書で発揮していた、読みやすく書く才能をいかんなく発揮しており、「中世哲学入門」講義の観あり(全16章だし、ちょうどいい)。一学期間かける予定の再来年・後期には種本の一つとして使わせていただくかもしれない。
Saturday, March 06, 2010
リプライ
書評会のリプライをひとまず書き上げた。遅いし、長い。
次は一月に仕上げた論文の再校。
三月の国際シンポのフランス人の原稿の翻訳(時間も体力もないのでやりたくないが、頼むお金がない)。
そして、これまでのシンポ原稿の添削。
最後に、三月末の二つのシンポの自分の原稿4本(日・仏二本づつ)。
とかいって、もう三月も第一週を終えたわけですが…。
次は一月に仕上げた論文の再校。
三月の国際シンポのフランス人の原稿の翻訳(時間も体力もないのでやりたくないが、頼むお金がない)。
そして、これまでのシンポ原稿の添削。
最後に、三月末の二つのシンポの自分の原稿4本(日・仏二本づつ)。
とかいって、もう三月も第一週を終えたわけですが…。
Thursday, March 04, 2010
河本敏浩『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』を読む
河本敏浩の『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』(光文社新書、2009年12月)を読んだ。
光文社新書にはもちろん読みごたえのあるものも存在するが、総じて書き方が汚い。読後感があまり後味のよいものでない。この本もその点は例外ではない。
ただし、著者の肩書きが予備校講師・「全国学力研究会理事長」であり、学研で教材開発をしていることもあるのだろう、本書の良さは、中高生に対する眼差しの柔らかさにある。
著者の出身地である愛知県の教育政策に関する激越な批判を含む分析は、1967年生まれの著者の個人的な体験を背景としており、最も読み応えがあった。
《80年代に中学校生活を送った者は、中学一年生の夏を経て、友人が急激に不良化していく姿は、本人の資質だけでなく、何か別の社会的要因があることを十分にうかがわせた。現在、かつて不良化した友人が、ごく普通の中年と化し、社会人として当たり前に働いている姿を見るにつけ、そこに何か独特な磁力が働いていたのではないかという思いを強くする。》(63-64頁)
著者の図式化は明快である。根本的な仮説はこうだ。「進学に関わる不公平な圧力や、環境の激変が子供を襲うと、子供は荒れる」(81頁)。より正確に言えば、
「日本の戦後教育においては、進学競争、学力競争の唐突な変化に見舞われると、その最も激しいインパクトを受ける世代の子供たちが必ず反社会的な行為に走るのだ。[…]大人の側が「競争」の設定を誤り、いきなり競争が激化すると、日本の子供は必ず暴れ出すのだ」(62頁)。
この図式をもとに著者は、中高生関連の二つの大きな社会現象の説明を試みる。80年代の「校内暴力」と、90年代の「援助交際」である。
(1)校内暴力
1970年代前半まで日本の各所に名門商業高校、名門工業高校が存在していたが、1970年から75年の間に大きな地殻変動が起きて、普通科進学熱が高まり、全国の実業系高校の「権威」が失墜した。これにより多孔的な構造――たとえば、中学を優秀な成績で卒業し、工業高校に進み、よい成績を修め、終身雇用の製造業の企業に入社するというライフコース――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから普通科、そうでなければ工業か商業」という一つの物差しによる評価が確立する。
普通科高校への進学率が高まると、競争が激化し、当の普通科高校の格付けが微細化する。いわゆる「偏差値」は、この序列の細分化を背景に社会に浸透したのであり、競争の激化に対する社会的な防御反応として学校の外側に現われたのが「塾」である。そして、「偏差値」からも「塾」からも取り残されるという経験に初めて遭遇した世代の成績下位層において、「校内暴力」が劇的な形で噴出したのである。
(2)援助交際
1990年代前半まで日本には多くの短大が存在していたが、女性の社会進出が叫ばれ、女子も進学先を四年制大学にシフトした結果、女子の短大進学意欲が急降下し、定員割れが続出した。これにより多孔的な構造――「短大というのは女子にとって格好の緩衝地帯で、勉強ができる/できない、という単純な区分が通用しない不思議な場だった」(86頁)――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから四大、そうでなければ短大」という一つの物差しに よる評価が確立する。
大学進学を目指す女子高生は、突然、偏差値ランキング表の世界、つまり男子と同じ受験競争の世界に放り込まれたのである。まさにルールの変更である。このとき、偏差値戦争の最も強烈なストレスをもろに、そしてはじめて食らったのが、私立女子高に通う高偏差値の子といっても、「伝統名門校」に通う女子ではなく、短大という逃げ場をなくした「リニューアルして商業科を廃止した新興名門校の進学科」であった。
間違えないようにしよう。十代の少女の売春なら昔から存在した。2010年現在行われているのも「単なる売春」にすぎない。「援助交際」と呼べるのは、「まさに第一期(1993~1995年)だけ、限定された時期に属した女子だけの「荒れ」」なのである。
《「援助交際」の特異さは、自分が将来は大学に行き、普通に就職するだろうと考えている高校生がいっせいに自らを「売った」ところにある。単なる売春とは異なる独特の感覚が、この1990年代の女子高生の「荒れ」にはあった。[…]近年の女子高生は、すでに自らが大学偏差値ランキング表に組み込まれる存在だということを幼い頃から自覚している。彼女たちは、上手くいくかどうかは別として、援助交際世代の女子とは異なり、「学歴」に対してある一定の覚悟を有しているのである。
逆に「援助交際」世代の女子高生は、心の準備がなされていない段階で、急激に高まった四年制共学大学への進学圧力に襲われた。[…]「援助交際」は、この短大の威信低下の時期に現われた特異な現象と言えるものだった。》(88-89頁)
「援助交際」は、《「団塊世代の親の規範の緩さ」にでもなく、「近代化の歪み」にでもなく、進学と学力形成の中で生じた、典型的な「子供の荒れ」と考えるべきである》(87-88頁)という宮台真司批判はなかなか説得力があるように思うが、どうだろうか。
*
他方で、本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。
《大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。こういった試験の下で定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。》(36頁)
なるほど。では、企業のトップだけでなく、新人研修や人事の担当者だけでもなく、およそ会社員であるかぎり(その会社の在り方に原理的には介入できるはずだから)、新人社員の質の低さを嘆くことは許されない、ということになる。一見弱者(実はマジョリティ)の側に立つこの手の議論は、大向こう受けはするだろうが、他人の「愚痴」を無暗に咎める類のものだ。
また、「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。
「子供に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、子供を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」(192頁)。
この河本氏自身の言葉を借りて、こう言い返させてもらおう。
「大学(特に「偏差値下位の私立大学」)に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、学生を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」と。
間違った情報が右から左に流通しても、本が売れればそれでよいというセンセーショナリズムに則った書き方は、自分の批判している当の対象――勉強しないまま入学し卒業していく「名ばかり大学生」の「偏差値下位の私立大学」による縮小再生産――に驚くほどよく似ている。
光文社新書にはもちろん読みごたえのあるものも存在するが、総じて書き方が汚い。読後感があまり後味のよいものでない。この本もその点は例外ではない。
ただし、著者の肩書きが予備校講師・「全国学力研究会理事長」であり、学研で教材開発をしていることもあるのだろう、本書の良さは、中高生に対する眼差しの柔らかさにある。
著者の出身地である愛知県の教育政策に関する激越な批判を含む分析は、1967年生まれの著者の個人的な体験を背景としており、最も読み応えがあった。
《80年代に中学校生活を送った者は、中学一年生の夏を経て、友人が急激に不良化していく姿は、本人の資質だけでなく、何か別の社会的要因があることを十分にうかがわせた。現在、かつて不良化した友人が、ごく普通の中年と化し、社会人として当たり前に働いている姿を見るにつけ、そこに何か独特な磁力が働いていたのではないかという思いを強くする。》(63-64頁)
著者の図式化は明快である。根本的な仮説はこうだ。「進学に関わる不公平な圧力や、環境の激変が子供を襲うと、子供は荒れる」(81頁)。より正確に言えば、
「日本の戦後教育においては、進学競争、学力競争の唐突な変化に見舞われると、その最も激しいインパクトを受ける世代の子供たちが必ず反社会的な行為に走るのだ。[…]大人の側が「競争」の設定を誤り、いきなり競争が激化すると、日本の子供は必ず暴れ出すのだ」(62頁)。
この図式をもとに著者は、中高生関連の二つの大きな社会現象の説明を試みる。80年代の「校内暴力」と、90年代の「援助交際」である。
(1)校内暴力
1970年代前半まで日本の各所に名門商業高校、名門工業高校が存在していたが、1970年から75年の間に大きな地殻変動が起きて、普通科進学熱が高まり、全国の実業系高校の「権威」が失墜した。これにより多孔的な構造――たとえば、中学を優秀な成績で卒業し、工業高校に進み、よい成績を修め、終身雇用の製造業の企業に入社するというライフコース――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから普通科、そうでなければ工業か商業」という一つの物差しによる評価が確立する。
普通科高校への進学率が高まると、競争が激化し、当の普通科高校の格付けが微細化する。いわゆる「偏差値」は、この序列の細分化を背景に社会に浸透したのであり、競争の激化に対する社会的な防御反応として学校の外側に現われたのが「塾」である。そして、「偏差値」からも「塾」からも取り残されるという経験に初めて遭遇した世代の成績下位層において、「校内暴力」が劇的な形で噴出したのである。
(2)援助交際
1990年代前半まで日本には多くの短大が存在していたが、女性の社会進出が叫ばれ、女子も進学先を四年制大学にシフトした結果、女子の短大進学意欲が急降下し、定員割れが続出した。これにより多孔的な構造――「短大というのは女子にとって格好の緩衝地帯で、勉強ができる/できない、という単純な区分が通用しない不思議な場だった」(86頁)――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから四大、そうでなければ短大」という一つの物差しに よる評価が確立する。
大学進学を目指す女子高生は、突然、偏差値ランキング表の世界、つまり男子と同じ受験競争の世界に放り込まれたのである。まさにルールの変更である。このとき、偏差値戦争の最も強烈なストレスをもろに、そしてはじめて食らったのが、私立女子高に通う高偏差値の子といっても、「伝統名門校」に通う女子ではなく、短大という逃げ場をなくした「リニューアルして商業科を廃止した新興名門校の進学科」であった。
間違えないようにしよう。十代の少女の売春なら昔から存在した。2010年現在行われているのも「単なる売春」にすぎない。「援助交際」と呼べるのは、「まさに第一期(1993~1995年)だけ、限定された時期に属した女子だけの「荒れ」」なのである。
《「援助交際」の特異さは、自分が将来は大学に行き、普通に就職するだろうと考えている高校生がいっせいに自らを「売った」ところにある。単なる売春とは異なる独特の感覚が、この1990年代の女子高生の「荒れ」にはあった。[…]近年の女子高生は、すでに自らが大学偏差値ランキング表に組み込まれる存在だということを幼い頃から自覚している。彼女たちは、上手くいくかどうかは別として、援助交際世代の女子とは異なり、「学歴」に対してある一定の覚悟を有しているのである。
逆に「援助交際」世代の女子高生は、心の準備がなされていない段階で、急激に高まった四年制共学大学への進学圧力に襲われた。[…]「援助交際」は、この短大の威信低下の時期に現われた特異な現象と言えるものだった。》(88-89頁)
「援助交際」は、《「団塊世代の親の規範の緩さ」にでもなく、「近代化の歪み」にでもなく、進学と学力形成の中で生じた、典型的な「子供の荒れ」と考えるべきである》(87-88頁)という宮台真司批判はなかなか説得力があるように思うが、どうだろうか。
*
他方で、本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。
《大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。こういった試験の下で定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。》(36頁)
なるほど。では、企業のトップだけでなく、新人研修や人事の担当者だけでもなく、およそ会社員であるかぎり(その会社の在り方に原理的には介入できるはずだから)、新人社員の質の低さを嘆くことは許されない、ということになる。一見弱者(実はマジョリティ)の側に立つこの手の議論は、大向こう受けはするだろうが、他人の「愚痴」を無暗に咎める類のものだ。
また、「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。
「子供に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、子供を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」(192頁)。
この河本氏自身の言葉を借りて、こう言い返させてもらおう。
「大学(特に「偏差値下位の私立大学」)に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、学生を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」と。
間違った情報が右から左に流通しても、本が売れればそれでよいというセンセーショナリズムに則った書き方は、自分の批判している当の対象――勉強しないまま入学し卒業していく「名ばかり大学生」の「偏差値下位の私立大学」による縮小再生産――に驚くほどよく似ている。
Wednesday, March 03, 2010
「思考と運動」ポスター
Tuesday, March 02, 2010
3/27国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@九州日仏学館
伴野亜希子(ばんのあきこ)氏による、実にポップなポスターをどうぞ。
九州でフランス哲学を展開していくにはこれくらいしないと、と私たち三人はポスターに出来栄えに至極満足しています。あとは、もちろん内容が満足いくものであるかどうか。それは当日、ご来場の皆さまにご判断いただくしかありません。ぜひお誘い合わせのうえ、会場まで足をお運びくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
***
国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」
福岡でフランス哲学を!PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
第一回国際シンポジウム
2010年3月27日(土)、九州日仏学館(福岡・赤坂)・5F多目的ホール
プログラム
セッション1――運動と知覚 (司会:藤田尚志)
10:00-10:30 ピエール・ロドリゴ(仏・ブルゴーニュ大学)
アリストテレスとメルロ=ポンティにおける知覚・身体・肉
10:30-11:00 平井靖史(福岡大学)
ブラインドサイトをベルクソン的に解釈する――運動の相のもとに見られた知覚、剥離か非決定か
11:00-12:00 討議
休憩(12 :00-14 :00)
セッション2――運動とシステム (司会:平井靖史)
14:00-14:30 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)
ベルクソン哲学におけるアリストテレス的カテゴリー(現勢態と潜勢態)の顛倒
14:30-15:00 永野拓也(熊本高等専門学校)
数学的構成の内省的基礎――ブラウアーの直観主義とベルクソン
15:00-15:40 討議
休憩(15 :40-16 :00)
セッション3――運動とイマージュ (司会:永野拓也)
16:00-16:30 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ大学)
ドゥルーズにおける思考・イマージュ・信じること
16:30-17:00 藤田尚志(九州産業大学)
デジャヴをめぐって:偽なるものの力と記憶の無為――ドゥルーズか、ベルクソンかIII
17:00-18:00 討議および全体討議
懇親会(18 :30-20 :30) ※どなたでもご参加いただけます(要参加費)。
九州でフランス哲学を展開していくにはこれくらいしないと、と私たち三人はポスターに出来栄えに至極満足しています。あとは、もちろん内容が満足いくものであるかどうか。それは当日、ご来場の皆さまにご判断いただくしかありません。ぜひお誘い合わせのうえ、会場まで足をお運びくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
***
国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」
福岡でフランス哲学を!PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
第一回国際シンポジウム
2010年3月27日(土)、九州日仏学館(福岡・赤坂)・5F多目的ホール
プログラム
セッション1――運動と知覚 (司会:藤田尚志)
10:00-10:30 ピエール・ロドリゴ(仏・ブルゴーニュ大学)
アリストテレスとメルロ=ポンティにおける知覚・身体・肉
10:30-11:00 平井靖史(福岡大学)
ブラインドサイトをベルクソン的に解釈する――運動の相のもとに見られた知覚、剥離か非決定か
11:00-12:00 討議
休憩(12 :00-14 :00)
セッション2――運動とシステム (司会:平井靖史)
14:00-14:30 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)
ベルクソン哲学におけるアリストテレス的カテゴリー(現勢態と潜勢態)の顛倒
14:30-15:00 永野拓也(熊本高等専門学校)
数学的構成の内省的基礎――ブラウアーの直観主義とベルクソン
15:00-15:40 討議
休憩(15 :40-16 :00)
セッション3――運動とイマージュ (司会:永野拓也)
16:00-16:30 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ大学)
ドゥルーズにおける思考・イマージュ・信じること
16:30-17:00 藤田尚志(九州産業大学)
デジャヴをめぐって:偽なるものの力と記憶の無為――ドゥルーズか、ベルクソンかIII
17:00-18:00 討議および全体討議
懇親会(18 :30-20 :30) ※どなたでもご参加いただけます(要参加費)。
Monday, March 01, 2010
Colloque international : La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze (27 mars 2010)
La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze
Le premier colloque de la PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
Le 27 mars 2010 à la Salle de Conférence, 5e étage
de l’Institut Franco-Japonaise du Kyushu (Fukuoka)
Programme
Session 1 : Le mouvement et la perception (présidence : Hisashi Fujita)
10:00-10:30 Pierre Rodrigo (Université Bourgogne)
Perception, corps, chair chez Aristote et Merleau-Ponty
10:30-11:00 Yasushi Hirai (Université Fukuoka)
Interprétation bergsonienne de la vision aveugle :
Perception motrice, dissociation ou indétermination ?
11:00-12:00 Discussion
Pose-déjouner (12 :00-14 :00)
Session 2 : Le mouvement et le système (présidence : Yasushi Hirai)
14:00-14:30 Paul-Antoine Miquel (Université Nice)
L'inversion des catégories aristotéliciennes d'acte et de puissance
dans la pensée de Bergson
14:30-15:00 Takuya Nagano (Kumamoto National College of Technology)
Le fondement réflexif de la construction mathématique :
Bergson et l’intuitionisme de Brouwer
15:00-15:40 Discussion
Pose-café (15 :40-16 :00)
Session 3 : Le mouvement et l’image (présidence : Takuya Nagano)
16:00-16:30 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Pensée, image, croyance chez Deleuze
16:30-17:00 Hisashi Fujita (Université Kyushu Sangyo)
Autour du déjà-vu : la puissance du faux et le désœuvrement de la mémoire
Deleuze ou Bergson III
17:00-18:00 Discussion et Discussion générale
Closing party (18 :30-20 :30)
Le premier colloque de la PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
Le 27 mars 2010 à la Salle de Conférence, 5e étage
de l’Institut Franco-Japonaise du Kyushu (Fukuoka)
Programme
Session 1 : Le mouvement et la perception (présidence : Hisashi Fujita)
10:00-10:30 Pierre Rodrigo (Université Bourgogne)
Perception, corps, chair chez Aristote et Merleau-Ponty
10:30-11:00 Yasushi Hirai (Université Fukuoka)
Interprétation bergsonienne de la vision aveugle :
Perception motrice, dissociation ou indétermination ?
11:00-12:00 Discussion
Pose-déjouner (12 :00-14 :00)
Session 2 : Le mouvement et le système (présidence : Yasushi Hirai)
14:00-14:30 Paul-Antoine Miquel (Université Nice)
L'inversion des catégories aristotéliciennes d'acte et de puissance
dans la pensée de Bergson
14:30-15:00 Takuya Nagano (Kumamoto National College of Technology)
Le fondement réflexif de la construction mathématique :
Bergson et l’intuitionisme de Brouwer
15:00-15:40 Discussion
Pose-café (15 :40-16 :00)
Session 3 : Le mouvement et l’image (présidence : Takuya Nagano)
16:00-16:30 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Pensée, image, croyance chez Deleuze
16:30-17:00 Hisashi Fujita (Université Kyushu Sangyo)
Autour du déjà-vu : la puissance du faux et le désœuvrement de la mémoire
Deleuze ou Bergson III
17:00-18:00 Discussion et Discussion générale
Closing party (18 :30-20 :30)
Sunday, February 28, 2010
追突事故
もちろん家族サーヴィスも忘れてません。その合間にも絶えず飛び込んでくる大小様々の仕事を片付けつつ、少しずつリプライ準備。
明日・明後日はなんと、教○課の完全なる落ち度にもかかわらず、なぜか私が一人の学生相手に授業をやるはめに…。自分に何の手落ちもなくても、こういう事態で時間と体力を浪費する。追突事故に巻き込まれたみたいな感じ。それが専任の義務だと言われればそれまでだけれど。
明日・明後日はなんと、教○課の完全なる落ち度にもかかわらず、なぜか私が一人の学生相手に授業をやるはめに…。自分に何の手落ちもなくても、こういう事態で時間と体力を浪費する。追突事故に巻き込まれたみたいな感じ。それが専任の義務だと言われればそれまでだけれど。
Saturday, February 27, 2010
はじまりはいつも雨
25日(木)、雨のち曇り。書評会の準備。嬉しく悲しい一日を一睡もせずに過ごす。
26日(金)、曇り。名古屋に向かう飛行機で仮眠。名古屋に着き、飛行機から降りるとみぞれ。名鉄の特急→市営地下鉄「八事日赤」(やごとにっせき)駅で下車すると、雨。
書評会@南山宗教文化研究所。粟津先生の切れ味鋭いコメント、丸岡先生の的確なコメント、伊達さんの充実したリプライ。私のコメントは、専門でないゴーシェの宗教論ということを考えると、あんなもん。
懇親会(浜木綿)・二次会(「元山」に出て、D. Hammett)のときは、どしゃ降り。名古屋大学の脇にある南山宗教文化研究所のロッジ(通称「ハイム」というらしい)に泊めていただき、爆睡。
これらのイベント全体を通して、研究所の皆様、宗教学研究者の皆様に大変温かく接していただきました。感謝しております。
27日(土)、目が覚めると、すっかり晴れ。目覚ましがならなかったので、飛行機はぎりぎり。帰りの電車から始めた校正を飛行機の中で続ける。福岡は曇り時々雨。家に帰ると寝てしまう危険性があるので、喫茶店で校正をほぼ完成させ、家に帰って完成。クロネコを探すも、家の近くにクロネコのあるコンビニがない!結局、遠くの郵便局で速達を出す。
書評会の「リプライ」(というほど大したものではないが)も文章化しないといけないらしいので、忘れないうちにさっそく取り掛かり、今に至る。
26日(金)、曇り。名古屋に向かう飛行機で仮眠。名古屋に着き、飛行機から降りるとみぞれ。名鉄の特急→市営地下鉄「八事日赤」(やごとにっせき)駅で下車すると、雨。
書評会@南山宗教文化研究所。粟津先生の切れ味鋭いコメント、丸岡先生の的確なコメント、伊達さんの充実したリプライ。私のコメントは、専門でないゴーシェの宗教論ということを考えると、あんなもん。
懇親会(浜木綿)・二次会(「元山」に出て、D. Hammett)のときは、どしゃ降り。名古屋大学の脇にある南山宗教文化研究所のロッジ(通称「ハイム」というらしい)に泊めていただき、爆睡。
これらのイベント全体を通して、研究所の皆様、宗教学研究者の皆様に大変温かく接していただきました。感謝しております。
27日(土)、目が覚めると、すっかり晴れ。目覚ましがならなかったので、飛行機はぎりぎり。帰りの電車から始めた校正を飛行機の中で続ける。福岡は曇り時々雨。家に帰ると寝てしまう危険性があるので、喫茶店で校正をほぼ完成させ、家に帰って完成。クロネコを探すも、家の近くにクロネコのあるコンビニがない!結局、遠くの郵便局で速達を出す。
書評会の「リプライ」(というほど大したものではないが)も文章化しないといけないらしいので、忘れないうちにさっそく取り掛かり、今に至る。
Wednesday, February 24, 2010
二本目
学生との勉強会が突如休みになったかと思うと、不測の事態で急遽別のイベントのピンチヒッターに立ったり。本当に何が起こるか分からない。
さて、今年二本目の校正がようやく終わり。どうしようもない外部的な理由で、とんでもなく時間のない中で出さざるを得なくなった論文なので、最後のほうに不満が残るが、まあ言いたいことは言えたと思う。
金曜日の書評会に向けて、力不足は承知の上で、準備を続ける。書評会が終わったら、土曜日、帰りの飛行機で、今年一本目の論文の校正にとりかかるつもり。
走り続けるだけ。駆け抜けるだけ。
さて、今年二本目の校正がようやく終わり。どうしようもない外部的な理由で、とんでもなく時間のない中で出さざるを得なくなった論文なので、最後のほうに不満が残るが、まあ言いたいことは言えたと思う。
金曜日の書評会に向けて、力不足は承知の上で、準備を続ける。書評会が終わったら、土曜日、帰りの飛行機で、今年一本目の論文の校正にとりかかるつもり。
走り続けるだけ。駆け抜けるだけ。
Saturday, February 20, 2010
ハイデガーの講義(2)
ハイデガーの『古代哲学の根本諸概念』の訳者で学習院大学教授・佐近司祥子さんは、後書きにこう書いておられる。
《ところで、この入門講義の受講生は何人で、単位取得に成功したものは何人だったのだろう。[…]ハイデガーがギリシア語に堪能だったことは当然だとしても、問題は受講生である。受講生の側にもかなりのギリシア語の素養が必要だったはずである。1926年ごろの、ドイツの大学生はラテン語ばかりでなく古代ギリシア語も習得していたのだろうか。[…]
この講義原稿は、その編者が編者後記で書くところによると、「初期学級の学生と全学部の聴講者を相手に行なわれた概説講義のものである」という。言ってみれば、今日、日本の大学でほとんど見られなくなった、あの一般教養科目の一種として行なわれた哲学入門の講義だったのだろう。
それもあって、これも編者後記によれば、この種の講義に関しては、当時のベルリンの文部省がかなり内容を指定していたものらしい。だからこそ、哲学者やその時代についての情報提供を無視したがっていたハイデガーも、結局最小限の情報提供を[…]行なわざるを得なかったのだ。
ところで現在、私たちの文部省は、哲学入門の内容に口を挟んできたりはしない。大学側が、自発的に、学生に評判が悪くて受講者が少ないとか、だから経済効率が落ちるなどの理由で、哲学の講義のみならず、哲学科という看板まで下ろしていくのである。
たとえ運よく哲学の講義が残ったとしても、他の学問のお役に立てる哲学入門を目指すことが、大学と講師の間の暗黙の了解事項となっている。これは、ハイデガーの講義から一世紀近く経った今、文部省が狡猾になり、大学人は、ハイデガーのような自由を目指す気骨をもてなくなった結果のように思える。》(『古代哲学の根本諸概念』、410頁)
佐近司氏同様、「ハイデガーが、こういった一般教養科目的な入門講義においてさえ、彼独自の哲学を展開してやまなかったという、その力量を感じてほしい」と私も思う。さて、私自身はどんな哲学入門をすることになるのだろうか。
《ところで、この入門講義の受講生は何人で、単位取得に成功したものは何人だったのだろう。[…]ハイデガーがギリシア語に堪能だったことは当然だとしても、問題は受講生である。受講生の側にもかなりのギリシア語の素養が必要だったはずである。1926年ごろの、ドイツの大学生はラテン語ばかりでなく古代ギリシア語も習得していたのだろうか。[…]
この講義原稿は、その編者が編者後記で書くところによると、「初期学級の学生と全学部の聴講者を相手に行なわれた概説講義のものである」という。言ってみれば、今日、日本の大学でほとんど見られなくなった、あの一般教養科目の一種として行なわれた哲学入門の講義だったのだろう。
それもあって、これも編者後記によれば、この種の講義に関しては、当時のベルリンの文部省がかなり内容を指定していたものらしい。だからこそ、哲学者やその時代についての情報提供を無視したがっていたハイデガーも、結局最小限の情報提供を[…]行なわざるを得なかったのだ。
ところで現在、私たちの文部省は、哲学入門の内容に口を挟んできたりはしない。大学側が、自発的に、学生に評判が悪くて受講者が少ないとか、だから経済効率が落ちるなどの理由で、哲学の講義のみならず、哲学科という看板まで下ろしていくのである。
たとえ運よく哲学の講義が残ったとしても、他の学問のお役に立てる哲学入門を目指すことが、大学と講師の間の暗黙の了解事項となっている。これは、ハイデガーの講義から一世紀近く経った今、文部省が狡猾になり、大学人は、ハイデガーのような自由を目指す気骨をもてなくなった結果のように思える。》(『古代哲学の根本諸概念』、410頁)
佐近司氏同様、「ハイデガーが、こういった一般教養科目的な入門講義においてさえ、彼独自の哲学を展開してやまなかったという、その力量を感じてほしい」と私も思う。さて、私自身はどんな哲学入門をすることになるのだろうか。
Friday, February 19, 2010
無くて済ましうるもの(ハイデガーの講義について)
四月から始まる新学期に向けて、ハイデガーの講義録を読み漁っている。前期は古代哲学全般を扱うので、例えば『全集』第22巻の『古代哲学の根本諸概念』などが参考になる。
ハイデガーを読んだこともなく毛嫌いしている人のために申し上げるが――私はけっこう読み、評価も最大限にしたうえで、それでも好きでないのであるが――、ハイデガーの講義録は面白い。純粋に面白さということでいえば、ベルクソンやフッサールの講義録より面白い。なぜか。
個々の哲学者に関するハイデガーの知識が参考になるのではない。それは、私程度の者でも、大方すでに手に入れていたものである。そうではなく、それらのマテリアル(ひいては西洋哲学の全歴史)を自分独自の見取り図に従って曲がりなりにも読み切ってしまうという力業に感心してしまう。
講義という場を使って、自分の読みを実際に検証しようとしているところも凄い。こう言うと、「学生を自分の研究のために犠牲にしている」と思われるかもしれないが、まあ講義録を読んでみてほしい。そういう印象はまったく受けない。
ハイデガーをよく知っていたアーレントは、自分が罠にかかることを見世物にし、遂には自ら〈罠=神殿〉のご本尊になってしまった狐にハイデガーを譬えたことがある。哲学史の読み替え作業という「脱構築」の、パフォーマンスとしての側面をアイロニカルに指摘したわけだが、裏を返せば、見世物としては人を惹きつけてやまない何かを持っているということでもある。
もちろん、1926年当時の大学が(一般教養用の入門講義ということを差し引いても)このレベルの講義を許したということは当然ある。当時の大学は(いずれにしても我々の時代とは比べ物にならないほど)少数者に向けて開かれた「エリート大学」である。しかし、すべての教授がハイデガー・レベルの授業を行なっていたわけではないし、行ないえたわけでもない。
戦前の東大を例にとろう。竹内洋『大学という病――東大紛擾(ふんじょう)と教授群像』(初版2001年)、中公文庫、2007年、第2章「黄色いノートと退屈な授業」のとりわけ「一ノート二十年」「半分も休講」などの節を参照。
彼の読みの独創性以外に、魅力の一部は、学生を挑発的に巻き込んでいく仕方にもあるだろう。〈無くて済ましうるもの〉が〈本質的なものとして留まるもの〉であることを「示す」その仕方に。
***
《必要なのは、まず「学ぶこと」を学び、諸々の尺度について知ることから、再びやり始めることである。単に新しい、いっそう簡便な「教科書」を採り入れることによっては、精神的堕落は食い止められない。[…]
ときおりは「本も読む」、こう言って弁解するなどとは俗物的なことである。「教養」を往々にして「統計」や「雑誌」、「ラジオ・ルポルタージュ」や「映画館」だけから仕入れてくる当今の人間、そうした雑駁きわまる純然たるアメリカ風の人間が、はたして〈読む〉(lesen)ということが何を言うか、なお知っているのか、知りうるのか[…]。
〈自分の必要とするもの〉を拠り所とするというのであれば、それは諸君の今の場合であれば、職業教育をできるだけ楽に済ましてしまうのに必要なものを追っかけるということである。それに反して、今我々が、前線にある何人もの若き同胞の場合と同様、最悪の状態に直面した時、〈無くて済ましうるもの〉に注意を払いうるならば、そのとき、一に本質的なものとして留まるものは、ほとんどおのずからのごとく眼差しのうちに入っている。
さて、ここで我々がどのような決定を下すかを示す印は、一方の者は「哲学講義」をとるが、他方の者はそうしない、というような点に存するのではない。[…]これは誰も何らかの印とか証明書で直接に確かめることはできない。ここでは誰にせよ、自分自身と、見せかけの自分と、自分がそれに向けて心構えをしているその当のものとに、委ねられている。》(ハイデガー、『根本諸概念』、1941年夏学期講義)
ハイデガーを読んだこともなく毛嫌いしている人のために申し上げるが――私はけっこう読み、評価も最大限にしたうえで、それでも好きでないのであるが――、ハイデガーの講義録は面白い。純粋に面白さということでいえば、ベルクソンやフッサールの講義録より面白い。なぜか。
個々の哲学者に関するハイデガーの知識が参考になるのではない。それは、私程度の者でも、大方すでに手に入れていたものである。そうではなく、それらのマテリアル(ひいては西洋哲学の全歴史)を自分独自の見取り図に従って曲がりなりにも読み切ってしまうという力業に感心してしまう。
講義という場を使って、自分の読みを実際に検証しようとしているところも凄い。こう言うと、「学生を自分の研究のために犠牲にしている」と思われるかもしれないが、まあ講義録を読んでみてほしい。そういう印象はまったく受けない。
ハイデガーをよく知っていたアーレントは、自分が罠にかかることを見世物にし、遂には自ら〈罠=神殿〉のご本尊になってしまった狐にハイデガーを譬えたことがある。哲学史の読み替え作業という「脱構築」の、パフォーマンスとしての側面をアイロニカルに指摘したわけだが、裏を返せば、見世物としては人を惹きつけてやまない何かを持っているということでもある。
もちろん、1926年当時の大学が(一般教養用の入門講義ということを差し引いても)このレベルの講義を許したということは当然ある。当時の大学は(いずれにしても我々の時代とは比べ物にならないほど)少数者に向けて開かれた「エリート大学」である。しかし、すべての教授がハイデガー・レベルの授業を行なっていたわけではないし、行ないえたわけでもない。
戦前の東大を例にとろう。竹内洋『大学という病――東大紛擾(ふんじょう)と教授群像』(初版2001年)、中公文庫、2007年、第2章「黄色いノートと退屈な授業」のとりわけ「一ノート二十年」「半分も休講」などの節を参照。
彼の読みの独創性以外に、魅力の一部は、学生を挑発的に巻き込んでいく仕方にもあるだろう。〈無くて済ましうるもの〉が〈本質的なものとして留まるもの〉であることを「示す」その仕方に。
***
《必要なのは、まず「学ぶこと」を学び、諸々の尺度について知ることから、再びやり始めることである。単に新しい、いっそう簡便な「教科書」を採り入れることによっては、精神的堕落は食い止められない。[…]
ときおりは「本も読む」、こう言って弁解するなどとは俗物的なことである。「教養」を往々にして「統計」や「雑誌」、「ラジオ・ルポルタージュ」や「映画館」だけから仕入れてくる当今の人間、そうした雑駁きわまる純然たるアメリカ風の人間が、はたして〈読む〉(lesen)ということが何を言うか、なお知っているのか、知りうるのか[…]。
〈自分の必要とするもの〉を拠り所とするというのであれば、それは諸君の今の場合であれば、職業教育をできるだけ楽に済ましてしまうのに必要なものを追っかけるということである。それに反して、今我々が、前線にある何人もの若き同胞の場合と同様、最悪の状態に直面した時、〈無くて済ましうるもの〉に注意を払いうるならば、そのとき、一に本質的なものとして留まるものは、ほとんどおのずからのごとく眼差しのうちに入っている。
さて、ここで我々がどのような決定を下すかを示す印は、一方の者は「哲学講義」をとるが、他方の者はそうしない、というような点に存するのではない。[…]これは誰も何らかの印とか証明書で直接に確かめることはできない。ここでは誰にせよ、自分自身と、見せかけの自分と、自分がそれに向けて心構えをしているその当のものとに、委ねられている。》(ハイデガー、『根本諸概念』、1941年夏学期講義)
Thursday, February 18, 2010
3/19西山雄二『哲学への権利』@九州日仏学館
福岡近在のみなさまにお知らせです。
来たる3月19日に九州日仏学館にて、詩人・思想家ミシェル・ドゥギー氏と訳者・丸川誠司氏による講演会が行われます。また、ドゥギー氏がCIPhに深く関与していたこともあり、ドゥギー氏の思想、それを取り巻くフランス現代思想の状況をより深く理解していただくべく、講演会に先立ち、西山雄二さんのドキュメンタリーフィルム『哲学への権利』が上映されます。
哲学と制度をめぐるきわめて興味深い考察でもある――すでにこのブログの昨年12月26日付のポストで映画評を書きました――本映画の上映会から始まり、詩作と思索の間を自由に行き来するドゥギー氏の講演会まで、ぜひ足をお運びいただけますよう、お願い申し上げます。
九州日仏学館上の情報(以下に貼り付けました)
西山さんのHP「哲学への権利」上の情報
UTCP上の情報
ミシェル・ドゥギーによる朗読会&講演会+『哲学の権利』上映会
Lecture publique et conférence par Michel Deguy
日時:3月19日(金)17時
会場:九州日仏学館5F多目的ホール
フランス語による講演会(日本語通訳つき)
入場無料(要予約)
ご予約・お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
1960年から2007年までの代表作のアンソロジー、『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田)の翻訳出版を機に、ミシェル・ドゥギー本人が九州日仏学館に来館。自身の詩作の朗読を通し、詩や哲学的思考の間でのためらい、人生、ことばの持つ力への深い愛着などについて語ります。現代フランス詩界で最も重要な人物の一人であるミシェル・ドゥギーは、40冊を超える著作を発表し、マラルメ賞、仏国家詩人賞ほか多くの賞を受賞しています。
また講演会に先立ち、17時から映画「哲学への権利」の上映会、18時30分からはミシェル・ドゥギーと映画監督の西山雄二氏のティーチインも行いますので、どうぞご参加下さい。
17時より映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」(フランス語・日本語字幕、93分)
18時30分~19時ミシェル・ドゥギー氏と映画監督・西山雄二氏のティーチイン(司会:藤田尚志氏)
19時よりアンソロジー『愛着』(書肆山田)邦訳出版記念ミシェル・ドゥギー氏と翻訳者・丸川誠司氏による講演会
ミシェル・ドゥギー 略歴1930年パリ生まれ。現代フランスを代表する詩人・哲学者で、パリ第八大学名誉教授。その一方でパリの国際哲学コレージュ、作家会館の代表などを歴任。詩と思想の雑誌、『Poésie』を1977年に創刊、以降編集長を務める。著書は1959年の「銃眼」から2007年の「作業再開」に至るまで約40冊を数える。邦訳された作品は、単著『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田刊)、『尽きせぬ果てのものへ』(梅木達郎訳、松籟社刊)共著『崇高なるもの』、『ルネ・ジラールと悪の問題』(いずれも法政大学出版局刊)。
丸川誠司 略歴早稲田大学准教授。仏現代詩研究。今回出版されたミシェル・ドゥギー著『愛着』(2008年)の翻訳者である。主な著書にLa saisie de la matière dans la poésie d’André du Bouchet, Jacques Dupin et Philippe Jaccottet (Presses universitaires du Septentrion, 1999) 、主な論文に“Penser et traduire, figurer et transfigurer”, Michel Deguy : l’allégresse pensive (2007)などがある。
映画「哲学への権利」1983年にジャック・デリダがパリに創設した研究教育機関「国際哲学コレージュ(Le Collège international de Philosophie)」をめぐる初のドキュメンタリー映画。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。監督・西山雄二が歴代議長ミシェル・ドゥギーを含む関係者7名へのインタヴューを通じて、大学、人文学、哲学の現在形と未来形を描き出す。
公式HP:「哲学への権利」
西山雄二監督招聘に関する協力:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)
来たる3月19日に九州日仏学館にて、詩人・思想家ミシェル・ドゥギー氏と訳者・丸川誠司氏による講演会が行われます。また、ドゥギー氏がCIPhに深く関与していたこともあり、ドゥギー氏の思想、それを取り巻くフランス現代思想の状況をより深く理解していただくべく、講演会に先立ち、西山雄二さんのドキュメンタリーフィルム『哲学への権利』が上映されます。
哲学と制度をめぐるきわめて興味深い考察でもある――すでにこのブログの昨年12月26日付のポストで映画評を書きました――本映画の上映会から始まり、詩作と思索の間を自由に行き来するドゥギー氏の講演会まで、ぜひ足をお運びいただけますよう、お願い申し上げます。
九州日仏学館上の情報(以下に貼り付けました)
西山さんのHP「哲学への権利」上の情報
UTCP上の情報
ミシェル・ドゥギーによる朗読会&講演会+『哲学の権利』上映会
Lecture publique et conférence par Michel Deguy
日時:3月19日(金)17時
会場:九州日仏学館5F多目的ホール
フランス語による講演会(日本語通訳つき)
入場無料(要予約)
ご予約・お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
1960年から2007年までの代表作のアンソロジー、『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田)の翻訳出版を機に、ミシェル・ドゥギー本人が九州日仏学館に来館。自身の詩作の朗読を通し、詩や哲学的思考の間でのためらい、人生、ことばの持つ力への深い愛着などについて語ります。現代フランス詩界で最も重要な人物の一人であるミシェル・ドゥギーは、40冊を超える著作を発表し、マラルメ賞、仏国家詩人賞ほか多くの賞を受賞しています。
また講演会に先立ち、17時から映画「哲学への権利」の上映会、18時30分からはミシェル・ドゥギーと映画監督の西山雄二氏のティーチインも行いますので、どうぞご参加下さい。
17時より映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」(フランス語・日本語字幕、93分)
18時30分~19時ミシェル・ドゥギー氏と映画監督・西山雄二氏のティーチイン(司会:藤田尚志氏)
19時よりアンソロジー『愛着』(書肆山田)邦訳出版記念ミシェル・ドゥギー氏と翻訳者・丸川誠司氏による講演会
ミシェル・ドゥギー 略歴1930年パリ生まれ。現代フランスを代表する詩人・哲学者で、パリ第八大学名誉教授。その一方でパリの国際哲学コレージュ、作家会館の代表などを歴任。詩と思想の雑誌、『Poésie』を1977年に創刊、以降編集長を務める。著書は1959年の「銃眼」から2007年の「作業再開」に至るまで約40冊を数える。邦訳された作品は、単著『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田刊)、『尽きせぬ果てのものへ』(梅木達郎訳、松籟社刊)共著『崇高なるもの』、『ルネ・ジラールと悪の問題』(いずれも法政大学出版局刊)。
丸川誠司 略歴早稲田大学准教授。仏現代詩研究。今回出版されたミシェル・ドゥギー著『愛着』(2008年)の翻訳者である。主な著書にLa saisie de la matière dans la poésie d’André du Bouchet, Jacques Dupin et Philippe Jaccottet (Presses universitaires du Septentrion, 1999) 、主な論文に“Penser et traduire, figurer et transfigurer”, Michel Deguy : l’allégresse pensive (2007)などがある。
映画「哲学への権利」1983年にジャック・デリダがパリに創設した研究教育機関「国際哲学コレージュ(Le Collège international de Philosophie)」をめぐる初のドキュメンタリー映画。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。監督・西山雄二が歴代議長ミシェル・ドゥギーを含む関係者7名へのインタヴューを通じて、大学、人文学、哲学の現在形と未来形を描き出す。
公式HP:「哲学への権利」
西山雄二監督招聘に関する協力:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)
Wednesday, February 17, 2010
アキレスと亀
うちの大学で哲学に目覚めてしまった奇特な学生と月に一二回、哲学の勉強会を続けている。これまでは学生に一人の思想家の概説をさせるということで、ヘーゲル、スピノザ、デカルト、ゼノン(エレアの)と続けてきたのだが、彼が元理学部で、数理的なものに興味があるということで、今度は少し深めようということになった。そこで山川偉也(ひでや 1938-)『ゼノン 四つの逆理』(講談社、1996年)を読むことにした。
私は自分の学生には語学を徹底してやってもらいたいと思っている。いずれ近いうちに
Alexandre Koyré, "Remarques sur les paradoxes de Zénon", in Etudes d'histoire de la pensée philosophique (1961), éd. Gallimard, 1971, pp. 9-35.
も読んでもらおう(彼はまだ一年生なのだ!)。私の亀の歩みに、アキレスが追いつき、追い抜くことを願いつつ…。
私は自分の学生には語学を徹底してやってもらいたいと思っている。いずれ近いうちに
Alexandre Koyré, "Remarques sur les paradoxes de Zénon", in Etudes d'histoire de la pensée philosophique (1961), éd. Gallimard, 1971, pp. 9-35.
も読んでもらおう(彼はまだ一年生なのだ!)。私の亀の歩みに、アキレスが追いつき、追い抜くことを願いつつ…。
Friday, February 12, 2010
決め球
木曜・金曜は書類。
ここ最近(再び)読んだ本
潮木守一『フンボルト理念の終焉?』、東信堂。
潮木守一『世界の大学危機』、中公新書。
小泉義之『ドゥルーズの哲学』、講談社現代新書。
渡辺公三『戦うレヴィ=ストロース』、平凡社新書。
ゲーテ『親和力』、岩波文庫。
球種を増やすのも大事だが、それよりさらに大事なのは決め球を磨くこと。ずっと出来ずにいることかもしれない。
***どこかのスポーツ記事より。
久保とは98球の投球練習で球種と球筋を確認して“メス”を入れた。「球種が多いからといって、打者が困るとは一概には言えない。ウイニングショットを持っている方が、そうじゃない球を何球も持っているよりもいい」。決め球の重要性を説く。
ここ最近(再び)読んだ本
潮木守一『フンボルト理念の終焉?』、東信堂。
潮木守一『世界の大学危機』、中公新書。
小泉義之『ドゥルーズの哲学』、講談社現代新書。
渡辺公三『戦うレヴィ=ストロース』、平凡社新書。
ゲーテ『親和力』、岩波文庫。
球種を増やすのも大事だが、それよりさらに大事なのは決め球を磨くこと。ずっと出来ずにいることかもしれない。
***どこかのスポーツ記事より。
久保とは98球の投球練習で球種と球筋を確認して“メス”を入れた。「球種が多いからといって、打者が困るとは一概には言えない。ウイニングショットを持っている方が、そうじゃない球を何球も持っているよりもいい」。決め球の重要性を説く。
Thursday, February 11, 2010
ホネット『自由であることの苦しみ』
大河内泰樹(おおこうち・たいじゅ)さんから、アクセル・ホネット『自由であることの苦しみ――ヘーゲル『法哲学』の再生』、未来社、ポイエーシス叢書 59、2009年11月をご恵贈いただいた。私は私なりに前々から『法哲学』を結婚論の文脈で読んでいたので、さっそく少し読んでみた。
論理学と国家的視点を外して、客観的精神と人倫の概念を読み込めば、ヘーゲル『法哲学』は、相互承認論(コミュニケーション的自由)の規範的理論として、さらには社会的実践に寄り添い、時代の診断を下す病理学として、まだまだ利用価値があり、現在支配的なカント的理性法のパラダイムに十分対抗しうるものだ、ということらしい。お求めはこちらから。
絶妙な距離感を保った解説を書いておられる大河内さんは私と同い年。励みになります。
2月8日(月) 自大学生との勉強会(エレアのゼノンについて)。
2月9日(火) 無事とあるイベントを終える(潮木氏の大学論二冊)。
2月10日(水) 学生相談(とうとうサークルの顧問にさせられてしまった…)・会議・打ち合わせでおしまい。
Sunday, February 07, 2010
にぎわう孤独の交錯
2月5日(金) レヴィ=ストロース@九州日仏。90人近くの方々に来ていただき、会場は超満員。お越しいただいた皆様、誠にありがとうございました。3月19日、3月27日に行なう予定の私たちのイベントのほうにも足をお運びいただければ幸いです。よろしくお願い致します。
2月6日(土) 福岡在住の若手研究者の方々との交流。お友達倶楽部や学派づくり、サロンには興味がない。空港や大学のように、「にぎわう孤独」(ドゥルーズ)に満ちた個人が行き交う関係をつくっていければいいと思う。
2月6日(土) 福岡在住の若手研究者の方々との交流。お友達倶楽部や学派づくり、サロンには興味がない。空港や大学のように、「にぎわう孤独」(ドゥルーズ)に満ちた個人が行き交う関係をつくっていければいいと思う。
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