決して誤解しないようにしよう。ニーチェの言う「弱者」は、現在の日本で言うサイレント・マジョリティ、すなわち「強者」のことである。
***
…抑圧された者、蹂躙された者、暴圧された者らが、無力なるがゆえの復讐に燃えた奸計からして、「われわれは悪人とは別なものに、つまり善人になろうではないか!そして善人というのは、およそ暴圧しない者、誰をも傷つけない者、攻撃しない者、報復しない者、復讐を神に任せる者、我々のように隠れて密かに生きる者、あらゆる悪から身を避け、総じて人生に求むるところ少ない者、そして我々と同じように忍耐強い者、謙虚な者、公正な者のことだ」と言って自らを慰めるが、――これは、冷静に先入見なしに聞いたにしても、もともと、「我々弱者は、どうせ弱いんだ。我々は自分の力の及ばないことは何一つしないのが、我々のよいところなんだ」というだけのことにすぎない。
それなのに、この苦々しい事態が、昆虫類(大きな危険に出会うと、「ですぎた」ことをしないようにと上手に死んだふりをする)でさえもっているきわめて低級なこの利口さが、無力からするあの贋金づくりと自己欺瞞のおかげで、諦めのうちにじっと待っているという美徳の装いを身につけてしまったのだ。
まるでそれは、弱者の弱さそのもの――言い換えれば弱者の本質、その働き、その唯一の避けがたく分解しがたい全的現実――が、一つの随意の所業、ある意欲され、選択されたもの、一つの行為、一つの功業であるといったようなありさまだ。
かかる類の人間は、あらゆる虚偽を神聖化することを習いとする自己保存、自己肯定の本能からして、あの選択の自由をもつ超然たる<主体>に対する信仰を必要とするのである。こうした主体(あるいは、もっと通俗的に言えば、霊魂)が、これまでこの地上において最上の信条であったというのも、おそらくはこれが死すべき人間の大多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼らの現にある様態を功業と解釈するあの崇高な自己瞞着を、可能ならしめたためであったろう。
ここからなら、その暗い工房の中が丸見えだ。見たところを言いたまえ。今度は私のほうが聞く番だ。
――「何も見えません、それだけによく聞こえます。隅々から用心深い、陰険な、ひそひそ話と囁きあいが聞こえます。嘘を言っているように思われます。どの声音にも、甘ったるい婉曲の味がねっとりついています。弱さをごまかして功業に変えようというのでしょう、きっとそれに違いありません。あなたの言われたとおりです。」
[風太君か(苦笑)。自分の姿を見るようなのだな、きっと。]それから!
――「報復しない無力は<善良さ>に、びくついた卑劣さは<謙虚>に変えられ、憎悪を抱く相手に対する屈従は<従順>(つまり彼らの曰くでは、この屈従を命ずる者に対する従順、――この者を彼らは神と呼んでいるのですが)に変えられます。
弱者の退嬰ぶり、弱者にたっぷり備わった怯懦そのもの、戸口でのその立ちん坊ぶり、その仕方なしの待ちぼうけぶり、それがここでは<忍耐>という美名で呼ばれます。それはまた徳そのものとも言われるらしいのです。
それに<復讐できない>が<復讐したくない>の意味に、おそらく宥恕という意味にすらなっています(「彼らはその為すところを知らざればなり――ひとりわれらのみ彼らの為すところを知るなり!)。それにまた、「敵に対する愛」についても話しています――しかも汗だくでやっています。」
もうよい!もう結構!(ニーチェ、『道徳の系譜』、第一論文、第13-14節)
No comments:
Post a Comment