Tuesday, May 03, 2005

『神学的転回』(6)後期ハイデガー(上)

「現れないものの現象学」と贈与(donation)

1961年に現れた二つの著作――レヴィナスの『全体性と無限』と、後期メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』――は、ただ単に完全に同時に現れたというのみならず、まったく同じ問題に取り組み、それぞれなりの仕方で解決を与えようとしている。すなわちフッサール現象学における「志向性」の限界、志向的地平をいかに乗り越えるか、という問題である。どちらも、フッサール以上に現象学の「精神」に忠実たることによってこの難題を解決しようと試みていたのであった。

ところでこの戦略を最初に開始したのは、ハイデガーである。ハイデガー自身はやがて晩年に至って――したがってレヴィナスやメルロ=ポンティの後に――、「現れないものの現象学」という主題のうちにその最良の解決策を見出したと考えた。デリダやミシェル・アンリがその遺志を継いで、やはりそれぞれなりの仕方で、引き続きこの道を切り開いていくことになる。とりわけ本書の中心的な課題として問題になってくる「神学的転回」を担う哲学者たちがこの後期ハイデガーの思想を「開発=活用=搾取exploiter」「収用・占有ex-s'aproprier」ないし「簒奪usurper」しているように思われる以上、ここでその後期ハイデガーの思想の本質を簡潔に把握しておくことはきわめて重要である。

「現れないものの現象学 phénoménologie de l'inapparent」という表現は、ハイデガーの晩年になってようやく現れてきたものである。初出は1973年、ツェーリンゲンのセミネールにおけるもので、最初フランス語で発表された(Questions IV, Gallimard, 1976; tr. Vier Seminare, Klostermann, 1977. プロトコルは、ハイデガー自身によってフランス語で執筆されたことを想起しておこう)。

さて、逆説的にも思えるが、この表現の中でハイデガーの思想にとって本質的な問題を提起するのは、「現れないもの」というテーマの出現ではなく、「現象学」というフッサール的語彙の維持である。

たしかに、「現れないものl'inapparent」という言い回しは両義的ambiguである。一方では、逃れ去るもの、眼差しにはっきりとは現れないものという意味でもありうるが、他方では、(現実存在とは区別される)単なる見かけ(仮象apparence)に還元されないものをも意味しうる。しかしもちろんハイデガーは、俗流プラトン主義的なイデア概念につながりかねない後者の意味を斥ける。

ツェーリンゲン・セミネールは、まさに「いかなる意味で、フッサールには存在の問いがないと言えるのか」(ボーフレ)という問いに答えようとするものである。フッサールは『論研』第六研究を除けば、なおも存在を客観的な与件と見なしているが、ハイデガーは存在の「真理」を「現前の非覆蔵désabritement de la présence」のうちに見て取ろうとしている。

だとすれば、すべてが意識の志向性から説明されるのではなく、むしろ意識こそより根源的に「現-存在の脱自のうちにdans l'ek-statique du Da-sein」位置づけられねばならない。形而上学にも、常識の目にも現れない、この現前の出現が取り集められる瞬間をこそ捉えねばならない。ハイデガーはこのより原初的な思考を「同語反復的思考pensée tautologique」と呼ぶ。

こうして見てくると、「現れないもの」の方へのハイデガーの「転回」の方向性はよく分かる。どこまでも形而上学的な、意識の(志向性の)思考からの(その外への)救出の諸条件を探ること。では、しかしながら、なぜ依然として「現象学」にこだわるのか?ほとんど破壊せんばかりに根本的な変形を加えてまで、なぜ「現象学」を維持する必要があるのか?捨て去ってしまった方が簡単ではないのか?

[ハイデガーが1927年夏学期にマールブルク大学で行った講義『現象学の根本問題』に関して、木田元はその著書『ハイデガー『存在と時間』の構築』(2000)で、こんなことを言っている。
この講義の表題について一言しておきたい。『現象学の根本問題』――文字通りには「根本的諸問題」と複数形――と聴くと、誰しもハイデガーが先生のフッサールの現象学を祖述してみせる、あるいはそれを継承展開してみせようとするのだと思ってしまうであろうが、この講義の内容はフッサールの現象学とはほとんど関わりがない。ハイデガーは『存在と時間』でも「序論」の第七節で「現象学」に言及し、「存在論は、ただ現象学としてのみ可能である」とか、「事象的内容から見れば、現象学とは存在者の存在の学――存在論である」とか、それどころか、「以下に続く考究は、エドムント・フッサールが築いた地盤の上で、はじめて可能になったものである」とか、いかにもフッサールの現象学を忠実に受け継ぎますと言わんばかりの言い方をしてみせている。だが、ハイデガーには、フッサールの現象学をそのまま継承しようなどという気はまったくない。それは、この第七節での「現象学」という概念の解明を見ても分かる。フッサールが読んだら怒り出すにちがいないような解明の仕方である。どうも悪意で見ると、一年後のフッサールの退職後、その後任としてフライブルク大学に推薦してもらうお礼に、<現象学>に義理立てしたと思えないでもない持ち出し方である。
 といって、ハイデガーが<現象学>をまったくどうでもよいと考えていたということではない。むしろ彼は、数学から転向してあまり哲学史的素養のない[!]先生のフッサールに代わって、その現象学に哲学史のなかでの位置を指定してやろうという気があったのである。[…]ハイデガーの<現象学>観については、拙著『現象学』(岩波新書)の第IV章をご参看願いたい。(81-82頁)

木田氏一流の軽妙な言い回しだが、要するに――マルクスは「ラディカルであるとは、物事を根本からつかむことである」と言っている――、ハイデガーは現象学をラディカルに、つまり根本から捉え直そうとしているのである。]

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