Thursday, May 26, 2005
思想のマッチ(l'allumette de pensée)
もう一つ別な自己防衛の機略は、できるだけ稀にしか反応しないこと、自分の「自由」、自分のイニシアティヴをいわば取り外され、単なる反応薬になりさがるという憂き目に会いそうな状況や関係から身を引くことだ。書物とのつきあいを例にとろう。つまりはただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は――並の文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい――しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ。彼が考えるとは、刺激(――本から読んだ思想)に返答するということ――要するにただ反応するだけなのだ。こういう学者は、すでに他人が考えたことに然りや否を言うこと、つまり批評することに、その全力を使い果たしてしまって――彼自身はもはや考えない…自己防衛本能が、彼においては、ぐにゃぐにゃになってしまったのだ。そうでなければ、書物に抵抗するはずだ。学者――それは一種のデカダンだ。――わたしは自分の目で見て知っているが、天分あり、豊かで自由な素質をもつ人々が、三十代でもう「読書ですりきれ」、火花――つまり「思想」を発するためには人に擦ってもらわねばならないマッチになりさがっている。――一日のはじまる早朝、清新の気がみなぎって、自分の力も曙光とともに輝いているのに、本を読むこと――それをわたしは悪徳と呼ぶ!(ニーチェ、『この人を見よ』、「なぜわたしはこんなに利発なのか」、第8節)
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