Tuesday, March 08, 2011

頂きもの(フランス編)

Henri Bergson, Ecrits philosophiques, édition critique réalisée par Arnaud Bouaniche, Elie During, Arnaud François, Frédéric Fruteau de Laclos, Frédéric Keck, Stéphane Madelrieux, Camille Riquier, Ghislain Waterlot et Frédéric Worms, PUF, coll. "Quadrige", janvier 2011.

今年は死後70年ということで(?)とPUFは謳っているけれど、要するにベルクソンの校訂版の刊行作業が完結したということで、2011年はまたもや大々的なベルクソン・イヤーになる模様。この本は絶版になって久しいMélangesから主要な論文・書簡を抜き出し、研究的な註を付したもの。索引も充実していて便利である。

また、『精神のエネルギー』と『思考と動くもの』から幾つかの論文が単体として校訂を付して刊行された。
たとえば、

Henri Bergson, La conscience et la vie, édition réalisée par Arnaud François, PUF, coll. "Quadrige", janvier 2011.

アルノー・フランソワの丹念な仕事ぶりを知る人には、彼の手になる校訂版はすべて「買い」であることは言うまでもない。

ごく厳密に言えば、これらの単体バージョンと既刊の論文集バージョンでは註や序文に若干の異同があるようである(まったく同じものもある)。



一つ強調しておきたいのは、ヴォルムスのéditorialな功績である。私は自分の研究を展開することばかりが学者の仕事であるとは思わない。優秀な若手を集め、校訂版を作るという地味な作業を課すことで、彼ら一人一人を「プロデュース」するとは言わないまでも――彼らは一人一人実力を持った若手であり、そんなものを必要とはしていない――、長期的に見て必ずや「肥やし」となる仕事を与え、彼らの仕事の「作法」を厳しく縛るのではなく、ごくゆるやかな縛りをかけて、あとは彼らの自発性に任せ、彼らの活躍を「後押し」しする。それも立派な仕事である。

ドゥルーズは哲学史的研究を非難したと思われているが、彼が非難したのは、「従属の脱個人化=脱個性化」であって、「愛の脱個人化=脱個性化」ではない。

日本のベルクソン研究の現状はどうだろうか。マラルメ研究の大家による個人全訳は、それはそれでよいと思う(私はいかなる翻訳も、質さえ保証されれば、刊行されればよいと思う)。だが、これでまた、近年の学問的な達成が反映された、学術的な校訂版全集が一歩遠のいたことだけは確かであろう。

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