Thursday, June 23, 2011

頂き物

村上靖彦さんの『治癒の現象学』(講談社選書メチエ、2011年5月)

旺盛に研究成果を発表し続けるそのエネルギーには本当に圧倒される。しかし、とりわけ、絶えず貪欲にさまざまな理論を取り込み、一見無縁なものと思われるもの、相いれない視点と思われるものをも、しなやかに取り入れてしまうところに、痛快さ、爽快感を感じる。

《応答には、まずはじめに触発してくる状況に対して介入する「行為」がある。これに対して、行為として状況へと直接介入するのではなく、状況へと適応できるように主体の側の構造を変化させるのが「治癒」である。もちろん「治癒」の結果、状況へと介入する「行為」が可能になるであろう。治癒論と行為論はそれゆえ並び合う関係にある。行為の現象学はハイデガーをさらに延長する可能性を持つが、本書とは別に計画したい。(…)そもそも社会的政治的な改革と、個人の脆弱性への手当は、本来は対立するものではないはずだ。繰り返しになるが、社会制度への介入に関わる行為論と、主に個人に関わる治癒論は並び立つはずである》(13頁)

私も同趣旨のことを、松葉祥一さんの書評として書いたつもりなので(日仏哲学会の会誌次号)、興味のある方はぜひご一読を。



九州大学名誉教授の高遠冬武先生から、『バンジャマン・コンスタン日記』(九州大学出版会、2011年6月)をいただく「コンスタンと同時代、江戸期の文人政治家がものした「日記」が仏語に翻訳されたと仮定」し、その「反訳(一度訳されたものを元の言語に戻すこと)」として『コンスタン日記』翻訳を試みるというなかなかひねった姿勢が効果をあげている。

さっそく学生たちに見せ、「コンスタンは、『アドルフ』によって小説の分野で、しかしまた、政治思想においても、宗教思想においても、重要な人物であり、このような複雑さ、多面性を見る上でも『日記』を読むに如くはない」と読むことを推奨する。彼らに伝わったかどうか心もとないが…。

私自身も、早速拝読させていただこうと頁を開くと、たまたまシュライアーマッハー読後感があり(170-171頁)、「神なき宗教」について、「この主張、一見実に馬鹿げたる主張にも見ゆるが、著者が言わんとする意味においては正しかるべし。余も(…)趣旨は同じなり」と、非常に興味深い一説に突き当たる。

19世紀フランス思想に関わるすべての人にお薦めしたい一冊である。

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