Friday, September 14, 2012

大学の時間(1)アカデミック・クォーター

註は採録しない。詳しくは論文を読んでいただきたい。

アカデミック・クォーター  academic quarterという言葉がある[1]。日本では、「大学の教員がのんびりと15分くらい遅れて授業にやって来る(さらには15分くらい早めに授業を切り上げる)こと」といった意味に理解されていることが多い。本来は、ヨーロッパの幾つかの国の大学で採用されてきた伝統的な時間の捉え方である[2]。それらの大学では、時間割のコマとコマの間に休み時間が取られておらず、教師や学生が教室間(特に離れた敷地にある場合)を移動するのに要する時間を、あらかじめ授業時間内に繰り込んであるのである。ある意味で旧来の大学や大学教師像を象徴するこの奇妙な隙間の時間は今、少なくとも日本の大学では、絶滅の途上にある。
時間と哲学  思えば「時間」はいつの時代も、理論的かつ実践的な思弁の対象であった。すなわち時間は、古代から現代に至るまで常に哲学の主要な検討対象であったと同時に、人間のあらゆる活動、中でもとりわけ労働の合理化・能率化・効率化においては、常に計算し、秩序づけ、要するに統御する対象とされてきたのである。現代フランスを代表する哲学者であり、「脱構築」を提唱したことで知られるジャック・デリダ(1930-2004)は、未来の大学や人文学のありかたについて論じた講演の中で次のように述べている。
みなさんには数時間かけて時間というものについて、つまり純粋に虚構的で計算可能な単位について、時間を統御し、秩序づけ、計算し、物語り、つくり出す、あの「かのように」(虚構とは象徴するものであり、また、つくり出すものです)について話したいところでした。大学では講義、ゼミ、講演が時間ごとに計算されますが、大学の内外で、時間は今もなお労働時間の計算軸となっています。「アカデミック・クォーター」という発想自体、時間に規定されているのです。脱構築とは時間を問いに付すこと、「時間」という単位を危機に陥れることでもあるのではないでしょうか[3]
もし「大学について哲学する」「大学を哲学する」ということが可能であるなら、重要な争点をはらんだ主要なターゲットの一つは「大学の時間を哲学すること」であるに違いない。それは、具体的にはどのような企てでありうるのか。例えば、単位について考えてみることは、「大学の時間」を哲学する一つのやり方でありうる。
時間と単位  そもそも単位(units/credits)とは何か。大学における授業(講義・演習・実験・実習・製図・実技・論文指導など)の履修にかかわる学生の学修量を測るための尺度、学問的作業の文字通りの数量的単位である[4]。「学習」が知識や技能を学び習うことであるのに対し、「学修」はそれらを学び修める(身につける)ことであり、授業時間内だけでなく、図書館や自宅など教室外で行われる予習・復習まで含めた、学生の勉学活動の総体を指す。大学の歴史において、時間を単位とする教授・学習形式はすでに中世ヨーロッパに存在していたが[5]、学生の学修量を時間という概念で測定する単位制度credit system19世紀後半のアメリカで初めて考案された。時は1869年、場所はアメリカで最も伝統があり、常にリベラルアーツ・カレッジの中心的な存在であったハーバード大学。初の非聖職者出身の学長に就任したエリオット(Charles W. Eliot, 1834-1926)は、従来の必修科目制を廃止し、学生による教科の自由選択を認めた科目選択制(elective system)を本格的に導入した[6]エリオットは、学長就任演説の中でこう述べている。
ごく数年前まで、このカレッジを卒業する学生は、すべてただ一種類の画一的なカリキュラムのなかを通過して行った。個人の特性・好みとは無関係に、すべての者は同じ教科を同じ割合で学習することとなっていた。そこでは個々の学生が教科を選ぶことも、教師を選ぶこともなかった。この仕組みは未だ、アメリカのカレッジでは支配的で、その擁護者もまた多い。たしかにそれは単純だというメリットを持っている。……つまり、教育は異なった精神をもった個人の特徴というものに、十分注意を払って来なかった。少年時代に通う学校では、その教科はすべての領域を代表していることが必要であろう。そして知識の主要な領域がすべて網羅されていなければなるまい。しかし、19歳、20歳の青年は、自分が何を好み、何に最も適しているのか知らなければならないはずである。……個人にとって賢明なことは、集中することであり、その個人特有の能力を完全に発展させることである。他方、国家にとって必要なのは、知的産物の多様性であって、その画一性ではない[7]
つまり大学の単位制度は、学生のより自発的でより自律的な学習を推進するための制度としてスタートしたのである[8]。たしかに、大学がそれまでの教育の場と最も大きく異なるところは、学生が自分でカリキュラムを決め、卒業するために必要な単位を自分で管理するという点に存する。そこに大学の魅力の一つがあるとすら言いたい衝動に駆られる。だが、そう断言できない事情がある。もう少し歴史をたどってみよう。

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