日本の単位制度小史(2)大綱化以後 もちろん文部省も、日本の大学も、この事態にただ手をこまねいていたわけではない。1998 年の大学審議会答申『21 世紀の大学像と今後の改革方策について―競争的環境の中で個性が輝く大学―』の中で「我が国の大学制度は単位制度を基本としており、単位制度の実質化は教育方法の改善にとって重要な課題である。現在の単位制度は、教室における授業と事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を授与するものであり、学生の自主的な学習が求められる」と「自学自修」の重要性を強調し、2005年1月28日の中央教育審議会答申『我が国の高等教育の将来像』では、「単位の考え方について、国は、基準上と実態上の違い、単位制度の実質化(単位制度の趣旨に沿った十分な学習量の確保)や学習時間の考え方と修業年限の問題等を改めて整理した上で、課程中心の制度設計をする必要がある」として、より鮮明に「単位の実質化」を求めた。大学側も「シラバス」や「学生による授業評価」、単位の過剰登録を防ぐため、1年間あるいは1学期間に履修登録できる単位の上限を設けるいわゆる「キャップ制」の導入などを進めてきたが、学生の学力向上に関して目立った改善効果が見られなかったため、さらに直近では今年(2012年)3月26日、中教審大学教育部会は『予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ』と題して、「教育の質的転換は“待ったなし”の課題。学修時間を増やして学生の主体的な学びを確立する取り組みを柱に本腰を入れたい」とする報告書をまとめた[11]。たしかに一面からすれば、つまり1単位=講義+準備学修(予習・復習)戦前から今日まで、日本の大学教育はあまり変わっていないかもしれず、残念ながら日本の大学に固有の「大学らしさ」は未だに発揮されないままなのかもしれない。だがおそらく、ごく大局的に見れば、学生が自主的かつ主体的に「学修」しない、教員も学生も紋切り型の機械的・自動的・受動的な知識偏重の詰め込み教育に陥ってしまっているという非難はいつの時代にもあり、それが教育と教育をめぐる学を前進させてきたのである。むろん学生側の「あと三分の二」の勉学活動を授業へ組み込むには、大学教員側からの教育方法や教授方法の開発や工夫が欠かせないが、それにはすでに、ラーニング・ポートフォリオ、コンセプト・マップなど実際に種々試みられている事例がある[12]。
教育のパラドックスの象徴としての単位 問題はむしろその先にある。「学修時間を増やして学生の主体的な学びを確立する」という言葉そのもの、あるいは「自発性を育てる」とか「自学自修へ導く」という考えそのものに端的に見られるように、教育、とりわけ高等教育とはそもそもパラドクシカルなものである。単位とは、その高等教育という不可能事を可能にしようとする最も象徴的な指標なのである。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、土持の指摘するように、「戦後日本の大学の歴史において、この単位制度が注目され真摯な議論が行なわれたことは少なく、単位制の導入期の新制大学発足時と大学設置基準の大綱化に伴う大学改革のわずか2回を数えるに過ぎない」[13]。だが、その2回がいずれも日本の高等教育の大変革期であったという事実は見逃せない。単位の問題は、理論的にも実践的にも、大学をめぐる諸問題の中でも中枢に位置しながら、あまりにも根幹的であるがゆえにかえって問いに付されずに来た問題なのである。
単位の時間 時計で計測される時間(分・秒)はいかに客観的な外観を持とうとも、歴史上のある時点で発明された一つの抽象的に仮構された単位であるが、大学の時間としての「単位」もまた、一つの抽象的・仮構的な存在であり、その歴史的な文脈によって異なる意味を与えられてきた。そして、そこで「問題」とされることは、時代によって、状況によって変移していく。この「単位の時間」を考慮に入れる必要があるのである。戦後の大学改革、1991年の大綱化、そしてそこから二十年を経て第三の改革が進みつつあるが、一つだけ大きな問題点を指摘しておくとすれば、単位制の本来的な理念である「学生を自学自修へ導く」ための方策の一つとして、「15週の授業」の徹底がなされ、その結果、唯一の長期休暇になりうる夏休みが縮減されている。「自学自修」と言っておきながら、学生には自分で何でも決められる「空白の時間」をなるべく与えたくないかのようだ。これは大いに考え直す余地がある。教育とは、強制力によってではなく、魅力によって人々を惹きつけ、義務(obligation)によってではなく、憧憬(aspiration)によって目標へと導こうとするものである。等しく学生の内にも、教育職員の内にも、事務職員の内にも、人間がもつ本来的な自主性・創造性があると信じきること、可能な限り彼らに自由裁量の余地を与えること、そのような自由と自主性の尊重と共にしか、多孔空間としての大学は開かれないだろう。単位時間が決定された20世紀初頭のアメリカの大学生と、現在の日本の大学生とでは状況が違いすぎる。現代日本の学生に「自学自修」への道を開くにはむしろ、「就職活動」からも「アルバイト」からもできるかぎり切り離されうる環境の整備こそが急務であり、文科省は双方にとって有益な妥協点を見つけるべく、産業界と交渉すべきである。
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