Tuesday, September 11, 2012

大学(と)産業

1.労働≠人生

経済はたしかに人間の生の重要な一側面ではあるが、すべてではない。労働は人間の活動の一部であって、すべてではない。産業界の要望があたかも定言命法のように社会の至る所に通用する社会は、「労働=人生」と考えることを強制する社会ではないだろうか。今、産業界が大学界に要望していることは、要するに体のいい「人材育成のアウトソーシング」である。

産業界が大学の一つのステークホルダーである以上、「産業界の要望」を聞くのは望ましいことであり、必要なことである。だが、それはあくまでも「要望」であって「至上命令」ではない。大学、特に私立大学は、その点できちんとした認識をもつべきだと思う。

人生が労働のためにあるのではないように、大学は会社のためにあるのではない。大学は会社の人材育成の下請けではない。大学は「労働者」をつくるためにあるのではなく、「人間」を育てるためにある。大学は会社が望む「利益」のはるか先を見て、「人間」を育成しようとするべきだ。

2.社会人≠会社人

産業界と大学は、根本的に異なる価値観をもつ「他者」として、お互いに敬意をもって接したほうがいい。企業人には企業人のエートスがあり、大学人には大学人のエートスがある。ロックミュージシャンのいいところを活かしたいのであれば、彼に会社人のように考え、振る舞うことを求めるべきではない(もちろん、だからといって、そのミュージシャンが傍若無人に振る舞っていいわけでないこと、言うまでもない)。

よく誤解されているが、「社会人」と「会社人」は異なる。「大人になる」「社会に出る」ことは必要だが、それは必ずしも「会社に入る」ことを意味しない。人間にはいろいろな生き方がある。多様性なき社会は貧困な社会である。「社会に出ること」を「会社に入ること」としか学生に考えさせない社会の未来は決して明るいとは言えない。

ミュージシャン、大学人、僧侶、マタギ、羊飼い…。ある種の「河原者」であるかもしれないが、生物多様性から言えば、さまざまな種類の職業と呼べるかどうかも分からない職業についた人間がほどよく混ざっていることが社会として望ましいのではないだろうか。

大学は「会社人」を育てるだけの、会社の下部組織になるべきではない。そして、社会も会社の下部組織になるよう大学に求めるべきではない。


3.待つこと≠富者の特権

今の日本社会には「待つ」余裕がない。そして余裕がないことを振りかざして――「おまえたちみたいに悠長なことは言ってられないんだよ!」という怒号が聞こえてくる気がする――、長期的な利益につながらないことを知りながら、あるいは見て見ぬふりで、あるいは思考停止して、短期的な利益をなりふりかまわず追求しようとする弱肉強食の論理が猛威をふるっている。

「待つ」ことができるのは富者の特権ではない。大企業が良い例である。彼らは富者だが、まったく「待つ」ことを忘れてしまっている。メセナ精神を棄て、死に物狂いで生き残ろうとしている。それが企業の本質であるといえば、それはそうかもしれない(私は企業の未来には別の可能性があると思うが、それを決めるのは企業人だ)。だが、それは必ずしも人間本来の姿ではないし、望ましいあるべき姿でもない。

「待つ」ことができるのは、無為の大切さを知る河原者である。河原者こそは、自ら待つことを学び、またそれを社会に教えることのできる存在である。貴族は道化を手元に置き、殿様は河原者を手元に置いた。それは彼らの異形の眼差しが自らに有益であるかもしれないことを知っていたからである。


4.異文化理解≠外国についての知識

大学人は変わり者であるという。どこの会社にも、どんな大企業にも変わり者がいる一方で、どこの大学にもごく常識的な人間がいるという実に当たり前の事実を今はおいておくとして、なるほど、そうだとしよう。だが、その積極的な意味を忘れるべきではない。


大学には産業「にも」役立つ部分がある。そのかぎりで産学「連携」は積極的に進めるべきだろう。だが、産業に対する大学の「従属」は、産業にとっても、大学にとっても、長期的に有益であるとは思えない。企業の生き死にのためにではなく、人間ひとりひとりの生き死にのために、大学はあるべきなのではないか。人間が文化的に、ということはつまり、異形の眼差しをもって、あるいはもつことは叶わずとも、せめてそれに対する敬意は持って、よりよく生きられるように学生を育てること。それが大学の使命なのではないだろうか。

異文化理解が重要なのは、国際化時代に対応するためではない。あるいは、こう言えばいいだろうか。国際化時代に真に対応しようと思うなら、一番大切なのは、「異形の眼差し」をもつことだ、と。いくらアメリカやヨーロッパ、アジアの異文化に関する最先端の知識を付けても、その知識を元に物事を見る「眼差し」が、「社会に出るとは、会社に入ること」といった「常識」に縛られた眼差しであれば、「異文化理解」の意味は半減する(もちろん、常識が不要だと言っているのではない。常識だけでは物足りない、と言っているのである)。

真の異文化理解とは、ごく身の周りの事柄について異形の眼差しを持てることである。

5.企業と学校の間にある大学

大学、特に私立大学は、一つの産業「でも」ある。それは否定しようのない事実である。だが、大学は、同時に、幼/保・小・中・高などと同様に、人間を育成するかけがえのない場でもある。例えば、法人格をもつ宗教団体は一つの法人「でも」 あるが、それと同時に、見失ってはならない精神的な価値を常に追求するものでもあるだろう。

大学は、企業の世界と学校の世界の間にある。どちらとの連携もおろそかにすることなく、自らの立ち位置を考えるのでなければならないし、社会もまた、そのようなものとして大学を考えたほうが、その社会自体にとって、長期的な視野・大局的な見地から見た場合、より有益なのではないだろうか。

大学に入るとき、「偏差値」や「就職率」は確かに重要な指標であるが、それだけでいいのだろうか。大学を考えることは、社会の未来を考えることに似ている。

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