Sunday, September 16, 2012

大学の時間(4)真の「単位の実質化」のために

論文は極度に時間のない中で書きあげられたので、大綱化以降の状況について、いったい何が問題であるのか、もう少し補足しておく。

文科省のHPにはこうある。


Q3 日本の大学の現状について、「授業に出席しなくても単位が取れる」「勉強しなくても簡単に卒業できる」などの声を耳にしますが、これについて大学はどのような対策を講じているのですか。
 これまでの我が国の大学に対する評価の中に、大学では適切な卒業認定が行われておらず、学部卒業者として期待される教育内容がきちんと身に付いていない場合があるのではないかとの指摘があります。大学は人材養成の役割を担うことから、学生に対して教育目標を明示し、その目標に向けた計画的な学習を可能とする環境を提供した上で、適切な成績評価・卒業認定を行うことにより、学生の卒業時における質の確保を図っていくことが大学の社会的責務であり、大学にはこうした指摘を受けることがないよう充実した教育活動を行うことが強く求められています。

授業の設計と教員の教育責任
 我が国の大学教育は単位制度を基本としていますが、同制度は、教室での授業と授業の事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を授与することを前提としており、各大学において1単位当たりの必要な授業時間を確保するとともに、学生には大学の教室で授業を受けるだけでなく、教室外においても自主的な学習を行うことが求められます。このため、授業中に指導を行うだけでなく、シラバス等により、年間スケジュールや毎回の講義内容を詳細に明示したり、 講義の前提として読んでおくべき文献を指示するなど、学生の準備学習・復習について適切な指示を与えることも大学の教員の務めと言うことができます。このことについて、大学やそれぞれの教員が自覚を持って、授業の設計と学習指導に取り組むことが必要であり、また、これに応じて、学生の側においても主体的に学習に取り組んでいくことが重要です




昭和31年(1956年)1022日の『大学設置基準』第二十一条に「一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし」とあり、平成3年(1991年)624日の『大学設置基準の一部を改正する省令の施行等について』、いわゆる「大学設置基準の大綱化」の後もこの点は踏襲されている。ほとんどの科目は2単位だから、2 単位=90時間=5400分。90 1 コマと考えると、60 コマの学修が必要となる。大学で行なわれる講義は15回=15コマなので、自宅学習は45コマ必要。これを予習と復習に振り分けると、例えば、予習15コマ、復習30コマとなる。簡単に結論だけ言えば、1科目の単位を得るためには、予習:授業:復習=112の学習が必要ということ

1つの90分授業に対して、270分の予習・復習が必要であるような講義をせねばならないということである。当然、講義は、学生とのより活発なやりとりを含むものとなり(そうでなければ、予習・復習の成果が計測されない)、大きな変化を余儀なくされる(少人数でなければ、そのような計測は不可能であるから、少人数制の徹底も必要になる)。詳細は省くが、このことはすでに1951年の報告『大学に於ける一般教育』において指摘されていた。

また、いわゆるキャップ制によって課された一年間に取得できる単位数の制限も、今以上に厳しく制限されるべきだろう。さらに、学生の「オン・オフ」の切り替え、彼らの「充実したキャンパス・ライフ」(海外留学、ボランティア活動など)をアメリカ並みに実現しようと思うなら、夏季長期休暇の確保は必須である。この観点から言うと、「夏季長期休暇の確保」と「1学期=15週の徹底」を両立させようと思うなら、残る手段は「四月開始の廃止」しかない(長期休暇を挟んで1学期を行なうのは学習効果の定着という観点から非効率的だからである)。

アメリカの単位制度を導入しておきながら、アメリカの学期制度を導入しないのは制度設計的に無理があることを今一度考え直すべきだと思う。この点については稿を改めるが、いずれにしても「大学の時間」を考えるとは、「学生の時間」「学びの時間」「余暇とは何か」「学期はどうあるべきか」といったことを理念と照らし合わせつつ考え直すことでもある。



大学で学生たちが着実に学力をつけるような授業を行なうことを「単位の実質化」という。単位の実質化は、一方で、以上に見たように、大学の制度設計および各教員の授業設計に対する根本的な態度変更を要求する。

しかし他方で、もし文科省と経済界が「単位の実質化」とその期待される結果としての「大学生の学力アップ」を真剣に検討するのであれば、大学だけに「勉強時間の確保」を求めても効果が上がらないことは明らかである。

まず、「大学の時間」を大幅に奪っている「就職活動」をどうにかすべきである。文科省は、大学に「学生の勉強時間」の確保を求める前に、産業界に就職活動のあり方を今以上に根本的に見直すよう求めるべきである。

次に、学生に学業成績に応じた積極的な財政支援を今よりもっと弾力的に行ないつつ、学生アルバイトを(少なくとも学期中は)全面禁止するか、大幅に時間制限を掛ける必要があるだろう(何度も言うが、文科省と産業界が「勉学の時間の確保」を真剣に求めるのであれば、だ)。だが、これもまた産業界の利害に直結している。社会は、大学生を低賃金労働者として大いに利用している現実を直視する必要がある。

大学にばかり文句を言っていても始まらない。変わらねばならないのは大学だけでなく、産業界であり、そして社会である。

「大学の時間」を考えるとは、「単位」を考えることでもあるが、それは単なるつじつま合わせ、数合わせであってはならない。今日まで一貫して引き継がれており、基準改正時において議論されたこともほとんどない、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修を「最も基礎的な単位算出基準としての1単位」とするという「大原則」自体は、現代の日本の大学と大学生を取り巻く状況下において、本当に「とくに問題はない」のだろうか。

「大学の時間」を考えること、それは、奇妙な効力をもった、いくつもの反時代的な「アカデッミック・クォーター」を発明することでなければならないのではないか。

*参考・清水一彦『日米の大学単位制度の比較史的研究』(風間書房、1998年)

《ここで注意しなければならないのは、〔大綱化によって、〕授業時間設定の自由度は増したが、従来の1単位の大原則は順守され「標準45時間の学修」という基本的枠組みは残されたことである。したがって、45時間から授業時間を差し引いた残りの時間は、学生の予習や復習の準備学習の時間となり、その意味では制度発足〔時〕の自学自修の尊重は維持されたと言える。大学審議会の議論の過程でも、当初は教室外の学習成果を単位計算の中に組み入れることが現実には空洞化しており、単位計算方法を「技術的な観点から」見直すことに始まったという。しかし、その後に「標準45時間の学修」という大枠は最終の段階で残すことになり、それは「単位の実質化という観点から」この問題を考え直した結果でもあった。教室外の準備学習及びその成果をどのように考え具体的に対処していくかという、古くて新しい問題がここでも議論の中心となったのである。》(410頁)

《最も基礎的な単位算出基準としての1単位については、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修という大原則は今日まで一貫して引き継がれている。この原則自体はとくに問題はなく、基準改正時において議論されたこともほとんどない。》(415頁)

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