Tuesday, September 18, 2012

大学の時間(6)反省の時


大学は/を忘れない。大学は/を記憶する。大学は/を約束する。
大学における/としての記憶と約束については、西山雄二編『人文学と制度』(未来社、2012年)所収予定のニーチェに関する拙稿を参照のこと。



以上見てきたように、単位の問題は、大学における時間をめぐる問題であるが、私たちが哲学的に取り組むことができるのは、それだけにとどまらない。秋入学など時期・季節の問題を含めた入試の在り方、授業回数増加の問題、大学における労働と余暇の関係など、すべて「大学の時間」の問題圏に属する。ビル・レディングズの的確かつユーモアにあふれた言葉を引用しておこう。
短絡的な考えがもたらす有害な例の一つとして、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識がある。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えないし、何を価値あるものとするかの判断は、多くの複雑な要因を考慮に入れて慎重に行なわねばならないと誰でも知っている。他の選手は走るのに、キャッチャーがしゃがんでいるからといって、報酬が他より少なくて当然とは誰も思わない。これは、大学内ワールド・シリーズが必要だなどと言っているのではなく、ただ、他者の考えを理解する過程で自動的に生じるロスを差し引いても、価値の問題は思った以上に複雑なものになりうると言いたいだけなのだ。スポーツの世界からもう一つ例をとれば、たとえば、冬季オリンピックの中でも比較的人気のあるフィギュア・スケートは、時間計算によって確実に勝者が決まる〔速さを競う〕他の種目と比べた場合、ポイント計算がシンプル〔芸術点などの評価基準が審査員の判断によるもの〕だからといって大きな障害にならないことを示唆している[14]
このレディングズの著作『廃墟のなかの大学』で示された基本的な認識を踏まえて大学論を展開すべきであるとすれば、「廃墟の後で」を標語にしてもよいであろう
反省の時  まとめよう。大学をめぐる問題の一つは、時間の問題であり、それが典型的な形で現れてくるのは単位の問題であることを簡潔に見てきた。そのような大学の時間を、先述したフランスの哲学者デリダは「反省の時」(le temps de la réfléxion)と呼ぶ。それは、社会的時間から相対的に独立した、大学という装置の内的リズムが、社会の要求の緊急性を緩和し、この要求に、大きな戯れの自由、すなわち無限の可能性と無際限の危険性に同時に開かれた場所、私たちが「多孔空間」と呼んだものを確保してやるといったことだけを意味しているのではない。デリダによれば、
 反省の時とは、言葉のあらゆる意味でのréflexion(反射・反映・反省)の諸条件そのものにまで立ち帰っていく機会でもあり、それはちょうど、新しい視覚装置の助けによって、ついに見ること自体が見えるようになる、つまり、ただ自然の風景や街や橋や深淵が見えるだけではなく、見ること自体の中に「貫入」する(« téléscoper » la vue)ことができるようになる、そういう時に似ています。それはまた、聴覚装置を通じて聴くこと自体を聴くようなもの、言い換えれば、聴きがたいものを一種の詩的電話術(téléphonie poétique)によって捉えるようなものです。してみると、反省の時とはいわばもう一つの時間、自らが反省(反映・反射)しているもの〔社会の時間〕とは異質な時間なのであり、思考を呼び求め、それこそが思考と呼ばれるようなもの(ce qui appelle et sappelle la pensée)の時間も、おそらくはそれによって与えられるのです[15]
「社会の時間」の扱い方について絶えず反省し、再検討する「大学の時間」を守る必要がある。ただし、それをただ盲目的に死守するのではなく、そのような「大学の時間」それ自体について絶えず反省し、再検討するという仕方で。視覚自体を見直すことで見えないものを見る、聴覚自体を聴き直すことで聴こえないものを聴くという仕方で。冒頭で触れた「アカデミック・クォーター」は、考えてみれば奇妙な時間である。それがイタリア・スペイン・フランスといった、いかにものんびりとしたラテン系諸国には存在せず、逆に北欧・中欧の国々では几帳面にシラバスにまで書き込まれているのである[16]。大学の時間を哲学するとは、大学で、大学によって、大学のために、反時代的で奇妙な効力をもつさまざまな「アカデミック・クォーター」を記憶し、約束し、発明することなのかもしれない[17]

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