学会員でなくても、どなたでもご参加いただけるとのことですので、ご関心のある方はぜひお越しください。
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日仏哲学会秋季大会シンポジウム
2021/9/11 15時~18時半。 東京都立大学+ZOOM(要事前登録)「哲学者の講義録を読む」
学会員でなくても、どなたでもご参加いただけるとのことですので、ご関心のある方はぜひお越しください。
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日仏哲学会秋季大会シンポジウム
2021/9/11 15時~18時半。 東京都立大学+ZOOM(要事前登録)伊達聖伸さんより2021年4月5日にいただきました。
森本淳生さんより2021年4月23日にいただきました。
ところで、ベルクソン自身はvocationという語をどのように使っているのか。例えば、ギトンはこう述べている。
《ベルクソンは、彼の最後の著作〔『二源泉』〕で、通常の責務すなわち社会的義務を越えたところには、より高次の責務があると述べているが、それはつまるところvocationの責務に他ならない。ただし、ベルクソンはこのvocationという語を用いてはいない。彼はもっとシンプルな「呼びかけ」(appel)という語を好んだのだが、それらはまったく同じことである。》(p. 15)
ギトンは間違ってはいないが、厳密ではない。間違っていないというのは、『二源泉』第一章の道徳的責務をめぐる議論においてたしかにvocationという語は用いられていないからである。厳密でないというのは、『二源泉』第三章の、必ずしもappelと無関係とはいえない文脈において、vocationという語はただ一度だけ用いられているからだ(DS, 228)。
《平凡な教師でも、天才的な人たちの創造した科学を機械的に教えることによって、彼の生徒たちの誰かのうちに、彼自身は持たなかったような天分(vocation)を覚醒させ、知らず識らずのうちに、その生徒を彼の伝達する使命(message)のうちに不可見的に現存しているそれらの偉人たちの競争者に変えるだろう。》(1953年[1977年改訳]・平山高次訳、262‐263頁)
《平凡な教師でも、天才的な人間がつくり出した科学を機械的に教えることによって、その生徒の誰かのうちに、彼自身がもたなかった天分(vocation)を目覚めさせ、知らず知らずにその生徒を偉大な天才たちの――目には見えないが、彼の伝える使命(message)のうちに現存している天才たちの――競争相手にするだろう。》(1965年・中村雄二郎訳、259頁)
《凡庸な教師が、天才の創り出した学問を機械的に教えていても、この教師自身には与えられていない使命(vocation)へ呼び覚まされる者が、その生徒たちのうちから出てくることがある。教師は、この生徒を無自覚のうちに、そうした偉人の好敵手に変えつつあるのであって、そうした偉人は、教師が運び手でしかないこの使命(message)のうちへ――目に見えぬ形で――現前しているわけである。》(1969年・森口美都男訳、434頁)
《凡庸な教師も、天才的な人間の創造した学問をただ機械的に教えることで、彼のある生徒のうちに、彼が自分自身では持たなかった召命(vocation)を呼び起こし、無意識的にこの生徒を偉人たちに匹敵する者へと変容させるだろう。偉人たちは、この教師が伝達した音信(message)のなかに不可視のまま現前しているのである。》(2015年・合田・小野訳、296頁)
昔のようにデカルトやライプニッツを読んでいた時代は完全に過去のものになってしまった。
しかし、何とか踏みとどまりたいと思い、試行錯誤を繰り返している。
ゼミⅠの教科書:
岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。』、ポプラ社、2019年。
→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。
ゼミⅡの教科書:
斎藤環『キャラクター精神分析』、ちくま文庫、2011年。
→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。
ゼミⅢの教科書:
山口尚『日本哲学の最前線』、講談社現代新書、2021年。
→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。
ハードカバーの専門書や、原書講読は叶わないが、せめて生きのいい哲学に学生たちが触れられる機会になれば。
実際、ギトンのこの著作もLa Jeunesse de Bergsonと名付けられてもよい著作である。目次を訳出しておこう。
序論
第一章:vocationに関する省察
第二章:イメージと名残(images et vestiges)要するに「ベルクソンの顔が写った写真と彼の筆跡」(des visages et des écritures de Bergson, p. 31)のこと。
第三章:平和な少年時代(Paisible adolescence)辞書には「青年期」とか「思春期」という訳語が載っているが、「男は14~20歳、女は12~18歳くらいを指す」という補足説明を見るかぎり、現代的感覚からすると「青年期」は20代のような気がする。「思春期」は別のニュアンスが入ってきそうだし。
第四章:オーヴェルニュでの修行時代(Les années d'apprentissage en Auvergne)
第五章:或る肖像画のための素描
第六章:ベルクソンにおけるvocation mystique
終章:ベルクソンの運命(Destinée de Bergson)
付録・若書き or 初期習作(Travaux de jeunesse):エコール・ノルマルでの二つの小論文
というわけで、この本のタイトルとしてのvocationを訳すには、第一章と終章をもう一度読んでみるほかない。(続く)
よく出てくる研究書なのに、実のところタイトルをどう訳すべきなのかよく分からぬままにやり過ごしてしまっていることが多い。Jean GuittonのLa vocation de Bergson (Gallimard, 1960)もそんな一冊である。
まずこのvocationという語が、きわめて多義的であるうえに、一つ一つの意味も、煎じ詰めて考えてみると、よく分からない。試しに『小学館ロベール仏和大辞典』を引いてみると、「①(生来の)好み、性向、適性、②使命、天職、(本来の)目的、用途、③【神学】神のお召し、召命」などとなっている。
そういうわけで、『ベルクソンの召命』とか『ベルクソンの使命』などと「③寄りの②」の感じで訳されることが多く、それでなんとなく分かった気になって、やり過ごしてしまうのである。
がしかし、それは要するにどういう意味なのか?「召命」はあまりに「訳語」チックで、単独で意味が取れないうえに、そもそもキリスト教の文脈が強すぎる。「使命」は、意味は分かるのだが、何だか「行け、ベルクソンよ!」的な勇壮な感じがしてしまう(気がする)。ただし、ギトンはキリスト教的なニュアンスを濃厚に漂わせているので、そういう意味ではそれほど外してはいないのだが、、、
*
そもそもこの本は、アカデミー・フランセーズのHenri Mondorが手がけた叢書vocationsの9冊目として刊行された著作であって、それ以前のラインナップ(7タイトル、8冊)を見ると、どうやら有名な作家の青年時代に焦点を当てようとしているらしいことが分かる。
André Bellivier, Henri Poincaré ou la vocation souveraine.
Jean Dellay, La Jeunesse d'André Gide. (2 vol.)
Pierre Flottes, L'Eveil de Victor Hugo (1802-1822).
Henri Mondor, Mallarmé lycéen.
Edouard Rist, La jeunesse de Laënnec.
Géraud Venzac, Jeux d'ombre et de lumière sur la jeunesse d'André Chénier.
そうすると、意味的には「①寄りの②」で訳したいところだが、『ベルクソンの好み・性向』ではファンブックみたいだし、『ベルクソンの適性』ではキャリア教育の指南書のようだし、『ベルクソンの天職』も今一つ、である。(続く)
ピエール・アンドルー(Pierre Andreu, 1909-1987)
最近、彼の伝記?風の短い紹介を見つけた。カルカッソンヌの方のブログのようである。
http://musiqueetpatrimoinedecarcassonne.blogspirit.com/archive/2019/04/02/pierre-andreu-1909-1987-un-ecrivain-atypique-3136177.html
『ベルクソン研究』(Les Études bergsoniennes)の第二号(volume II, 1949)のNotes et documentsという欄に小文?研究ノート?「ベルクソンとソレル」が発表された(pp. 225-227)。半分以上の紙幅(pp. 226-227)は、ソレルの未刊行の遺稿「精神のトリロジー」――1910年にエドゥアール・ベルトに託されたが、その後ベルト夫人が発見し、アンドルーに刊行を託したとのこと――の抜粋に割かれている。一言で言うと、「ベルクソンの成功を作ったのは宗教だ」(p. 227)という趣旨。
第三号(volume III, 1952)に論文「ベルクソンとソレル」が掲載されている(pp. 41-78)。
2021年1月12日に福島勲先生よりいただきました。
ロンドンWS発表準備の週
6月23日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、その後、発表準備
6月24日(木)朝:翻訳、★本務校・対面授業再開。午後:授業、夜:その日のうちに火曜のミニレポ採点終わらせる。
6月25日(金)朝:翻訳、午後:授業、夜:発表準備
6月26日(土)朝:発表準備、午後:合同ゼミ、夜:発表準備
6月27日(日)朝:発表準備、午後:PBJ-DI研究会
自著完成の週
6月28日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
6月29日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
6月30日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ(+学内業務)、夜:査読1
7月1日(木)朝:翻訳、午後:授業、夜:査読2
7月2日(金)朝:病院➡翻訳、★佐大へ対面授業再開。午後:授業、夜:自著完成
7月3日(土)朝:10:00-西日本哲学会・編集委員会、(自著完成)15:00-理事会(代理出席)
7月4日(日)自著完成、火曜のミニレポ採点
ベルクソン、ソレル論完成の週
7月5日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
7月6日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
7月7日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、B-S論完成
7月8日(木)朝:翻訳、午後:授業、B-S論完成
7月9日(金)朝:翻訳、★佐大へ。午後:授業
7月10日(土)火曜のミニレポ採点、B-S論完成
7月11日(日)木曜のミニレポ採点、B-S論完成
政治哲学や社会思想史の専門家にもご参加いただき、ベルクソンとソレル、ベンヤミンについての発表をした。その中でソレルの『創造的進化』評論を取り上げたのだが、ディスカッションで「ベルクソンはintérêt bien entenduについてどう考えていたのか」と質問を受けた。
intérêt bien entendu(正しく理解された自己利益)は、19世紀の政治思想史のなかではどちらかと言えば批判の対象となることの多かった概念だということであった。例えば、たまたまネット検索で目についた杉本竜也さんの「市民的主体性と地方自治」(法政論叢48巻2号)にはこうある。
《しかし、再三記しているように、問題は人々の積極的な関与が期待できないデモクラシーでは、そのような共同体は実現困難だということである。
そこでトクヴィルは「正しく理解された自己利益」(intérêt bien entendu)という考えを持ち出す。彼は、人々が私利を追求することをいったん容認するかわり、私利の追求を公益の実現〔と〕結び付けることで個人的欲求を適正化することによって、個人主義を克服し、公共性を実現することを企図した。この転換を可能にするのが共同体における公的実践であり、これこそが個人主義に陥った人々を公共性へと導くことができる、現実に採用しうる数少ない選択肢だとトクヴィルは考えた。
ただ、トクヴィルにとって、正しく理解された自己利益を前提とした社会・政治理論は次善の策に過ぎない。というのも、彼の中には”経済”というものに対する拭い難い不信感・警戒感が存在していたと思われるからである。》 (123頁)
要するに功利主義的社会観・道徳観の中心に「経済」をどう評価するかということがあったわけである。
ソレルの『創造的進化』評論は、この点についてというわけではないが、ともかくもベルクソンの生命哲学のこの経済学的側面を鋭く指摘している。
「ベルクソン氏が自らの考えを明確にしようとするとき、しばしば経済学者たちから、利便性(commodité)や最小の努力(le moindre effort)、正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)に関する諸々の考察を借用している(例えばpp. 123-124、p. 143)。道すがら膨大な数の失敗について語るとき、ベルクソン氏が経済学に負っているものに気づかなかった人はいないだろう(p. 141)」(第一論文p. 279)。
これは、ソレルの視点から『創造的進化』の論法が浮き立たせられたおかげで出てきた質問であり、普通に生物学的議論だけを追いかけているとほぼ見えてこない翻訳の問題である。
実際、原書Quadrige版p. 133に対するこれまでの訳はこうなっている。
つまり、動きやすくなることは動物にとりまぎれもなく利益(intérêt bien entendu)であった。さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益(leur intérêt particulier)というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。(真方敬道訳、岩波文庫、1979年、164頁)
それゆえ、動きやすくすることは、動物の真っ当な利益になる。適応一般について述べたように、種の変化をそれぞれの個別的な利益によって説明することは常に可能だろう。このようにして人は変異の直接的な原因を与えることだろう。しかし、このようにして与えることになるのは、たいてい変異の最も表面的な原因だけだろう。深い原因は生命が世界に放った推進力である。(合田正人・松井久訳、ちくま学芸文庫、2010年、171頁)
動物の関心事は、だから言わずもがな、自らの運動能力をさらに際立たせることにあった。適応一般について先に述べたように、種の変化を、それぞれの種の個別の関心事によって説明することはできるだろう。それを形質変異の直接的原因と見なすことはできるだろう。しかし、こうして説明される直接的原因というものは、もっとも表層的な原因でしかない場合が多い。その奥に横たわる原因は、生命活動をわれわれの世界に出現させた衝撃力であり…(竹内信夫訳、白水社、2013年、157頁)
太字で強調した二つの語は、以上の経緯を踏まえれば、ほぼ同義語として捉えてよいということになるだろうか。いやはや、まだまだ修行が足りない、と反省するとともに、自分のフィールドの外に出て話を聞いていただくことの大切さを改めて実感した次第である。ディスカッションに参加いただいた方々、本当にありがとうございました!
刊行物としては実にごく短い報告文が一つと情けない限り。他方で、研究発表は7つ:ベルクソン研究が4つ、結婚の脱構築が2つ。「かゆみの哲学」という新たな方向性が1つ。英語やフランス語での発表がなかったことも反省点の一つ。
①単著【報告】「知的冒険とは何か――講演会へのイントロダクション」(第29回国際文化学会報告:久保田裕之「未来の結婚を哲学する――『最小の結婚』監訳者にきく結婚の脱道徳化と民主化」への導入として)、『九州産業大学国際文化学部紀要』第77号、2021年3月、35-36頁。
①単独発表「ベルクソンとリズムの問題」(日仏哲学会春季・秋季合同大会シンポジウムⅡ(秋季)「リズムの哲学:ソヴァネ、ベルクソン、マルディネ」、オンライン会議(zoom)、2020年9月13日)
②単独発表「声の肌理をどう翻訳するか――ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『時間観念の歴史』翻訳について」(第 46 回ベルクソン哲学研究会:『時間観念の歴史』&『物質と記憶』刊行記念ワークショップ「ベルクソンの翻訳をめぐって」、ZOOM会議、2020年10月4日)
③単独発表「分身と分人――哲学と文学のあいだで」(日本フランス語フランス文学会2020年度秋季大会ワークショップ「分身――その増殖のプロセス」 、ZOOM会議2020年10月25日)
④単独発表「ベルクソンCdF講義を導入する」(PBJ(Project Bergson in Japan)主催「ベルクソンと現代時間哲学『コレージュ・ド・フランス講義1902−1903年度 時間観念の歴史』合評会」、ZOOM会議、2020年11月21日)
⑤単独発表「結婚の脱構築――ヘーゲル、キルケゴール、マルクス」(明治大学大学院・教養デザイン研究科での特別講演、動画配信、2020年12月)
⑥単独発表「触覚をめぐる最近の哲学的考察(デリダ、伊藤亜紗)――痒さの哲学に向けて」(科研費・基盤(B)《「ポスト身体社会」における芸術・文化経験の皮膚感覚についての横断的研究》(課題番号19H01207)研究会、ZOOM会議、2021年3月11日)
⑦単独発表「図式論と生――ベルクソンとハイデガーにおけるカント解釈をめぐって」(実存思想協会 2021年3月春の研究会講演会「ベルクソンとハイデガー――「時間観念の歴史」をめぐって」、ZOOM会議、2021年3月14日)
⑧単独発表「ベルクソン人格概念と英米哲学接合の試み(仮)」(PBJ-DI分析系分科会、ZOOM会議、2021年3月29日)
私の発表では、①デリダの『触覚』を使って伝統的な哲学的触覚論
実存思想協会2021年3月春の研究会
シンポジウム(15:00~17:00)
WSの記録としては1000字の要約になるので(3月くらいに仏文学会cahierの中に公開予定)、ここにロング・バージョンを公開。
分身(double)と分人(dividuel)
文学と哲学のあいだで
藤田尚志(九州産業大学)
本発表では、とりわけ19世紀の文学や絵画、音楽において大きく取り上げられた「分身」を根本的に近代的な形象として捉え、「分人」という現代的な形象との対比のうちにその本質を浮き彫りにすることを試みた。
「分身」の読解格子としておそらく最も有名なのは、精神分析的観点であろう。フロイトは、ドッペルゲンガーとは死(自我の消滅)への恐れという原初的な自己愛(ナルシシズム)から生じた防衛機制であるとするランクの見解を拡張し、心的な検閲を遂行する「超自我」的機能(良心の声)や、抑圧された無意識の欲望を回帰させる「エス」的機能まで分身に負わせていた(cf. 中山元『分身小説論』)。自我・超自我による上方・側面からの検閲・抑圧であれ、エスによる下方からの突き上げ・沸騰・横溢であれ、いわゆる「局所論」として名高い精神分析的図式は、「分身」を精神の垂直的分裂の帰結として捉えている。
精神分析に代表される近代的な読解格子では、分身は、同一の自分であるはずの個人が何らかの形で二重化した姿として捉えられていたが、ポスト構造主義的読解は「私こそが他者の分身である」と主張する。ドゥルーズは『フーコー』(1986年)において、「フーコーに常に執り憑いていた主題は、分身(double)の主題である」と喝破した。「他者」といっても、絶対的な超越性が問題となるのではない。一見断絶と見えたものも襞の折り畳みにすぎず、垂直的分裂と見えたものも、実際には水平的折り畳みにすぎない。「分身」は他者の内在化として新たな姿を現したのである。
しかしながら、20世紀後半以降、分身は、大衆文化・サブカルにおいては依然として根強い人気を誇るものの、もはや哲学的・理論的な関心を引かなくなっているようにも思われる。ドゥルーズは、1990年6月13日の日付をもつジャン⁼クレ・マルタンへの手紙の中で「私はシミュラークルという概念を完全に捨て去ったように思います。この概念には大した価値がないからです」と述べていた。これは、シミュラークルという概念が実効性を失ったからではなく、むしろそれが現代社会を覆いつくしたからではないか。オリジナルが模造に対して圧倒的な価値をもっていた前近代、複製技術の到来によりオリジナルと複製の差異が曖昧になっていく近代、そして私たちが現実世界で見ているものよりも、バーチャルリアリティの世界のほうがリアルな力をもつ現代――例えば、カーナビは現実の道路を見ているわけではないが、現実への介入力という意味では、実際の道路を目視で確認していくよりはるかに強力だ――というボードリヤール的図式はよく知られていよう。
近代的な産業社会の成立を通じて人間精神は本格的に個人として共同体と対峙することになり、その緊張・葛藤・対立・矛盾の“効果”として「分身」が生じてきたのだとすれば、現代社会とそこに生きる自我や人間関係の変質とともに、「分身」の形象自体もその読解格子とともに変化を見せることになるだろう。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)は、巨視的なマクロの視点から「パパ-ママ-私」の三角形の中に幼児の精神形成やその後の心理的諸問題を押し込める「家族主義」を批判し、微視的なミクロの視点から人間の欲望の多様な流れとそれを織りなす諸々の微細な特異点の動きを規定する「部分対象の論理」の解明を主張した。
このような時代状況の変化とともに、私たちの「自我」の存在様態自体もまた大きな変化を蒙らざるを得ない。ドゥルーズは1990年の「追伸――管理社会について」と題された小論において、その変化の特徴を「分人」という単位の出現に見ていた。「いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではありません。分割不可能だった個人(individus)は、分割によってその性質を変化させる「分人」(dividuels)になったのです」。自我の垂直的分裂から他者の水平的折り畳みへという「分身」の読解格子の変化は、「分人」概念の登場と軌を一にしていたのではないか。
だが、「個人から分人へ」あるいは「分身から分人へ」という単線的で不可逆的な図式を思い描くとすれば、それはいささかナイーヴにすぎるだろう。個人/分人は、シミュラークルの三つのフェーズ同様、消滅・交代の通時的関係ではなく、並行・包含の共時的関係にあるのではないか。18世紀の異形の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、私たちの考えでは、分人主義的な作家であり、分人的な思考・文体が現代以前にも存在していたことを証明する格好の存在である。ル・ボルニュは、ルソーとレチフの自伝作品を「『告白』あるいは特異な自我(moi singulier)の対象化」「『ムッシュー・ニコラ』あるいは範例的自我(moi exemplaire)の対象化」として実に興味深い比較を行なっているが、私たちとしては、この対比のうちに「個人」と「分人」の概念的差異を明確にできるのではないかと考えている。発表では、1)「凝縮表現」(raccourcis)か「見せびらかし」(étalage)か、2)「感情が入り乱れて作り出す無秩序な状態を解きほぐす(débrouiller)」か「自然と目の前にある事物によって心や頭に反して引き回される存在として、あるがままに描く」か、3)パースペクティヴが個別化・特殊化(particularisant)の傾向をもつか一般化・全般化(généralisant)の傾向をもつか、4)見事なジャンルの書き分けかラディカルなまでに混淆的な創作物か、といった点について個人主義と分人主義の比較を試みた。