Thursday, September 02, 2010

デカルトとパスカルの間で

哲学と社会学の覇権争いと書いたが、もちろん私の主観ではない――さらに断っておくが、この争いのどちらか一方に与する形で書こうというのでもない。私は両者の良いところを取りたいと考える。当事者の一人、ブルデューの『パスカル的省察』を引いておこう。

《同時代の社会科学に対する戦いでハイデガーが展開したこうした戦略、とりわけ社会科学の成果を社会科学と戦う武器にするという戦略は、1960年代のフランス哲学の「前衛」によって再び採用された。あるいは再び作り出された。

フランスの社会科学は、哲学の覇権主義的野心に対して自律性と固有性を確立するために、ときには哲学の地盤で、哲学と対決する必要があったために、デュルケム以来、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていたが、60年代には、大学界において、また、知識界においてさえ、支配的な位置を占めるに至っていた。レヴィ=ストロース、デュメジル、ブローデル、あるいはラカンも含めて、「構造主義」というジャーナリスティックなレッテルで大雑把にくくられた人々の仕事がそのことを証している。

当時のすべての哲学者は併合主義的な敵対関係の中で社会科学との関連で自己定義を行なわなければならない状況に置かれた。彼らは意識的あるいは無意識的に二面作戦を取り、ときには二股をかける者もいた(「アルケオロジー」「グラマトロジー」などのような「―ロジー」効果や、その他の科学めかした手管に頼って)。こうして彼らは、それでハイデガーの弟子になったわけでもなく、その必要もなかったのだが、社会科学に対してハイデガーが使ったのとよく似た乗り越え戦略を見つけたのである。》(邦訳50-51頁)

もちろん、このようなブルデューのポストモダン批判をルノーやフェリー――「80年代の小論争家たち」――の粗雑なそれと混同してはならない。

《社会科学に対して距離を保とう、明確に画そうとする姿勢(これは社会科学が彼らのヘゲモニーを脅かしつつあっただけに、また、彼らが目立たない形で社会科学の成果を取りこんでいただけにより強く表明されたのだが)はおそらく、70年代の哲学者が進めつつあった、素朴でお人好しな人格主義ヒューマニズムとの断絶が、(デュルケム派)社会科学がすでに世紀初頭から提唱していた「主体なき哲学」に彼らを送り返したにすぎないことを、彼らと彼らの読者に見てとれなくする役割を果たした。

その結果、人間諸科学の客観主義的哲学の「全体主義的」派遣に対して30年代から戦後初期にかけて立ち上がった「実存主義者たち」(サルトルや『歴史哲学序説』の初期アロンのような)に対抗して、60年代に「主体なき哲学」を提唱した彼ら自身に対して、80年代の小論争家たちが「主体の回帰」を説いて流行の振り子を振り戻そうとするに至った、という次第である。》(68-69頁)

こうしてブルデューは、60年代の「主体なき哲学」と、「制度化した余暇(スコレー)」としての「エコール・ノルマル(と準備学級)」との関係について、制度論的な分析を行なうことになるのだが、ここまでは、私はブルデューに賛成である。

しかし、彼が「パスカル的」と呼ぶ次のような姿勢――「象徴権力」への眼差し、根拠づけの野心の拒否――に留まることは出来ないと感じる。

《「モダン派」にせよ「ポストモダン派」にせよ、わが哲学者たちがさまざまな対立を越えて共有しているものがあるとすれば、それはまさに言説の力に対する過度の信頼である。レクトールに典型的な幻想である。レクトールというのは、アカデミックな注釈を政治的な行為と、あるいはテクスト批判を抵抗の行動と取り違える、そしてコトバの次元の革命をモノの次元の革命として生きる輩である。

偉大な英雄的役割への恍惚とした自己同一化の衝動を掻き立てるこの全能という夢に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか。私は何よりまず、思考と思考の力の限界だけでなく、思考を行使する際の諸条件について考えをめぐらすことが大切だと思う。社会的経験は地理的にも社会的にも必然的に部分的かつローカルで、社会世界のいつも同じ小さな区域に局限された経験である。にもかかわらず、多くの思想家にそうした経験の限界を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが大切である。世界の流れを注意深く観察すれば、思想家はより謙虚になるはずである。》(10-11頁)

デリダとブルデューは、思われているほど遠くはない。超越論的な「可能性の条件」「枠」「パレルゴン」に執り憑かれた思想家たちである。経験の限界――「経験の転回点」(ベルクソン)――を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが、それらの諸条件そのものを変えることに役立つのか否か。役立つと信じるか否か。言葉の力を信じるか否か。どこまで信じるのか。どれ以上信じれば過度と見なされるのか。

これは実は、デカルトとパスカルの間にも見られる対立ではあるまいか。デリダとブルデューの対立とは、デカルト対パスカルの反復であろうか、それとも『パンセ』のパスカル対『プロヴァンシアル』のパスカルの反復だろうか。そうだとして、どちらがどちらなのだろうか。そのどちらかにつくのではなく、両者の緊張関係の中でものを考えることは可能だろうか。それは単なる2010年代の小論争家の一人の矮小な折衷主義にすぎないだろうか。

Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。

Tuesday, August 31, 2010

新たなる旅立ち

数日後に福岡を発つという2歳年下の後輩とランチを食べた。
いろいろな事情が折り重なって、研究者の道を断念するのだという。
新たな道でのご成功を心から願っています。

これから研究者を目指すという学生の方々には、
あなたが進もうとしている途はとても険しいものだと
再度念を押しておきたい。

私だって決して他人事でない。気付けば息苦しいことばかり。
数年後、いや一年後どうなっているか。

昨日着いた本のうち、幾つかを「デカルトとパスカル」「哲学と哲学教育」執筆のために、ぱらぱらめくる(もちろんこれまでにもいろいろ読んでましたよ)。
Victor Cousin, Cours de philosophie. Introduction à l'histoire de la philosophie (1828), Fayard, coll. "Corpus des oeuvres de philosophie en langue française", 1991.

Bernard Bourgeois (éd.), La philosophie et la révolution française, Vrin, coll. "Bibliothèque d'histoire de la philosophie", 1993.

Jean-Marc Levent, Les ânes rouges. Généalogie des figures critiques de l'institution philosophique en France, L'Harmattan, coll. "Philosophie en commun", 2003.

最後の本は、19-20世紀に講壇哲学が確立してきた様子と、それを批判する思想家たち(表題の「赤いロバたち」とはアランの言葉である)が誕生してきた様子を同時発生的・構造的なものとして描き出していて興味深い。

さて、そろそろ今まで書き散らしたものを一気にまとめて、原稿に仕上げていかないといけない。

Monday, August 30, 2010

デカルトとパスカル

今日は引き続き大学の仕事で半日つぶれる。その他の時間にいろいろ少しずつ読む。
夜、amazon.frから配達。

Jean-Claude Brisville, L'entretien de M. Descartes avec M. Pascal le jeune, éd. Actes Sud, 1986.

これは1985年に初演された戯曲でつい2年ほど前にCD化もされたので、それも一緒に買ってみた(Le Livre Qui Parle, JC980)。

ごく短い文章なのだが、とある文化辞典に「デカルトとパスカル」という項目を書かないといけない。その一環である。CDも、戯曲自体も、二人のごく基本的な違いを分かりやすく見せてくれており、17世紀の思想家に対する現代人の今なお尽きせぬ関心を示している点で貴重である。

文化辞典なので、思想的な事柄に深入りするつもりはまったくない。二人のフランスにおける文化的受容をごく簡単に描き出せればと思っているのだが、それにしても字数が短い。

『デカルトとフランス』についてはアズーヴィの本があるのだが、あと問題は、「パスカルとフランス」である。こちらはどちらかというと伏流なので、ちょっと厄介。

Saturday, August 28, 2010

哲学教師の肖像(カニヴェ、パントー)

André Canivez, Jules Lagneau professeur de philosophie. Essai sur la condition du professeur de philosophie jusqu'à la fin du XIXe siècle, tome I : Les professeurs de philosophie d'autrefois, Publications de la Faculté des Lettres de l'Université de Strasbourg, 1965.

この本は、フランスの哲学教育論や哲学制度論、哲学教師論をやるときには必ず引かれる古典中の古典である。

それと現代の哲学教師像についての社会学を併せ読む。

Louis Pinto, La vocation et le métier de philosophie. Pour une sociologie de la philosophie dans la France contemporaine, éd. Seuil, coll. "Liber", octobre 2007.

まあ正直な感想を言うと、ここまで来ると、徴候的だと思う。哲学は純粋な観念からなる天上の王国から降ってきたわけではない、哲学者もまた、個人的な利害関心を持ち、ある理論的な場(業界)の中に位置を占めることで理論的生産を行なうのだという、それは別にいい。問題はその後だ。

パントーは、ブルデューの『パスカル的省察』の次のような一文を引いて、「哲学の社会学」の正当性を訴えるのだが…。

《哲学的な場に固有の論理と、その場の中で生み出され遂行される傾向や信仰が社会的に「哲学的」と認められるその論理を分析することほど[…]哲学的な行為はない》

まあ、そのとおりなのだが、ならば、哲学の社会学はやはり哲学に属するのであり、ことさら学問分野としての「社会学」と「哲学」を対立させる必要はない。

これは実は(少なくともフランスにおける)哲学と社会学の覇権争いの伝統を忠実に(不毛に)継いでいるのである。

Saturday, August 21, 2010

近況

まあ、いろいろと大変である。

8月23日まで、重要な雑務。
8月22日、大学論読書会。
8月末日まで、辞書項目執筆。
8月末日、ギリシャ語勉強会。
9月6日まで、エピステモロジ―発表の準備。
9月6日以降、後期授業準備。
9月17日まで、韓国遠征、発表原稿の準備。

Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?

Tuesday, July 20, 2010

リストの思想

偶然聞いたのだが、現在、リール第三大学教授(美学・芸術哲学)である――知らなかった。ということは、カトリーヌ・キンズレールの後任ということになろうか――ベルナール・セーヴが、《さまざまなリスト:哲学・合理性・倫理》というタイトルで、「リストの哲学」について、ホスト(ホステス?)のモニック・カント=スペルベールと語っていた。リストと言っても、音楽家のリストではなく、一覧表の意味のリストである。

Bernard Sève, De haut en bas: philosophie des listes, éd. Seuil, coll. "Ordre philosophique", janvier 2010.

リスト以上に単純なものがあるだろうか?にもかかわらず、なんというパラドックスだろう。リストは散文的なものだが、詩人はリストを歌わせる術を知っていると見える(フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』、サルトルの『嘔吐』)。リストは閉じたものであるかと思えば、開かれており、静的であるかと思えば動的であり、有限であると同時に無限であり、秩序立っていると同時に無秩序であり、それらすべてであると同時に、一瞬たりともリストであることをやめないのだ。ドン・ジュアンの収穫リストと、科学的ないし法的な用語リストとの間に何か共通のものがあるのだろうか?

リストは、何気ない買い物リストから厳かに読み上げられる死者のリストまで、人間の根本的な実践の一つであるにもかかわらず、それ自体が思考の対象とされることはほとんどない。誰かが、あるいは何かがリストの中で、リストの背後で語っているのだろうか?もしそのようなものがあるとして、どのような「リストの思想」がそこで語られていることになるのか?「リストで」行動し、思考するとは何を意味するのか?リストは美学的な価値を持つのか?それは何かを証しているのか?

『上から下まで――リストの哲学』は、リストという日常的なものを真剣に受け取る。作家や詩人、哲学者だけでなく、芸術や社会的な活動の中にも、リストの概念と用法を分析する。誰もが、必ずしもなぜ作るのか分からないままに、リストを作る。リストは、その多様な現れから見て、人間精神の機能の様々なる徴候として読まれうるのではないか。

Tuesday, June 29, 2010

7/3人文社会科学系若手研究者セミナー@日仏会館(恵比寿)

日時 2010年7月3日(土)13時30分

場所 日仏会館501会議室
参加費 無料

講師 伊達聖伸 (東北福祉大学)、藤田尚志(九州産業大学)、伊藤綾 (早稲田大学)

今回の若手研究者セミナーは、マルセル・ゴーシェの『民主主義と宗教』(トランス ビュー、2010年)を共訳されたライシテ研究者の伊達聖伸さんとベルグソン研究者の藤田尚志さん、フランソワ・アルトークの『「歴史」の体制:現在主義 と時間経験』(藤原書店、2009年)を訳されたボードレール研究者の伊藤綾さんに報告していただき、宗教学・政治思想・哲学・歴史・文学を横断する自由 な相互啓発の会にしたいと思います。ふるってご参加ください。それぞれの論者は発表が45分、討論15分を予定しています。

13:30 開会 三浦信孝・廣田功
13:45 伊達聖伸 (東北福祉大学)「ライシテ研究の現在:ジャン・ボベロ、マルセル・ゴーシェ、ルネ・レモンの著作の翻訳を通して」
14:45 休憩
15:00 藤田尚志(九州産業大学)「ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を今どう読み直すか」
16:00 休憩

16:15 伊藤綾 (早稲田大学)「多文化世界における「いき」の用法:九鬼周造『いきの構造』再読」

詳細・アクセスはこちら

Tuesday, May 25, 2010

5/29『哲学への権利』をめぐる仏文学会ワークショップ@早稲田大学

西山雄二さんと水林章先生――ルソーの結婚論では『幸福への意志』(みすず書房、1994年)を勉強させていただきました――とご一緒させていただきます。私自身は大したことは言えないと思いますが、あとのお二人のお話を楽しみにお越しいただければ幸いです。

映画『哲学への権利』15.45-17.15
討論17.15-18.15

大会のプログラムに掲載された告知文

映画『哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡』は、1983年にジャック・デリダやフランソワ・シャトレらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画である。映画は、歴代議長ミシェル・ドゥギー、フランソワ・ヌーデルマン、ブリュノ・クレマン、現副議長ボヤン・マンチェフ、新旧のプログラム・ディレクターであるカトリーヌ・マラブー、フランシスコ・ナイシュタット、ジゼル・ベルクマンへのインタヴューから構成される。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。本作で提示されるのは、大学の余白に研究教育制度を創設することの可能性、知の無償性の原理、教員の民主的で平等な関係、カリキュラムやプログラムの理念、学際性と哲学の関係の問い、経済的価値観と人文学の関係、研究教育の場所の問い、デリダの脱構築思想と教育の関係といった多様な論点である。関係者7名へのインタヴューを通じて描き出され、問われるのは、大学、人文学、哲学の現在形と未来形である。上映後の討論は、上述した主題から出発して、フランスの共和制理念と教育の関係、人文学的教養の新たな形、哲学と制度の問いなどの討議に当てられる。哲学者デリダがパリに創設した国際哲学コレージュを主題とした映画上映ではあるが、しかし、本ワークショップの趣旨はあくまでも、現在の日本において大学や人文学の現状を診断し、討議を通じてその展望を切り開くことである。

Sunday, May 16, 2010

二丁拳銃

学内で講演を二つ。4月28日(水)に「異文化体験」ということで、北フランスでの生活体験を話し、大ヒット映画『ようこそ北国へ』を見せた(人口6000万のフランスで観客動員2000万以上というのだから、凄さが分かってもらえるだろう)。

昨日、5月15日(土)、今度は「留学体験」ということで、留学にまつわる話に中心を移して話した。同じ話にしようかとも思ったし、DVDを使うかどうかも最後まで迷った。というのも、半年留学してきた(しに行く)学生に話すのだが、同じ留学体験といっても、博士論文を執筆しに行くとのはもちろん相当異なるので、「重い」というか説教臭くなりすぎてはいけない、ということを懸念していたのである。

しかし、たとえ半年でも留学は留学であり、私がやってきたことをなるべくそのまま伝えることで、何か伝わることもあるだろう、と最終的に考え、留学中の勉強方法などを紹介した。当時メモ魔だった(小さな辞書とメモを二丁拳銃のように必ず携帯していた)ことを紹介し、実物を見せたりした。

「ショボそうなこの人はこの人なりに闘ってきたんだなあ」と何か感じてもらえればと。

Wednesday, May 05, 2010

オフの過ごし方

昨日は独仏勉強会。ドイツが専門のgさんとフランス系の私が、お互いに「今読みたい独仏語の哲学テクスト」を訳してきて、相手に正してもらうというもの。y君の勉強会も組み合わせて、全部で5時間の長丁場。切磋琢磨とはまさにこのこと。

事情なんて誰にでもある。大切なのは、いかに勉強の場を確保し続けられるか。
言い訳はいい。目指す場所がある。



とうとう阪神・金本選手の連続試合フルイニング出場がストップした。
チームのことを考えれば、もっと早くにストップさせるべきだったと思うが、
個人の成績としては本当に凄いことだ。

■マイナスのイメージを消して試合に臨む

豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている
豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている【写真は共同】

――連続試合フルイニング出場を続けられるのはなぜでしょうか

 見ていて思うのは、イチローも同じなんですけどルーティン(毎日繰り返す練習)を大事にしていますね。金本の場合は試合前にストレッチをしないんですよ。野球選手は体に不安があると試合前にトレーナーにマッサージをしてもらったり、ストレッチを入念にしたりするんですが、金本はどこかに不安がある状態で練習と試合に臨みたくないから、準備運動はしますけど、特別なことはしないんです。
 また、ベテランは試合前の練習を軽めにすることが多いんですが、そこでも金本はしっかり練習します。「不安があるから練習しない」ということがイヤなんです。とにかくマイナスのイメージを消して試合に臨む姿が印象的ですね。

 野球選手としては本当に独特だと思います。自分が決めて信じたことを、とことん頑張れる選手なんです。トレーニングでいい方法があると聞けば積極的に試しますし、ほかの人の意見も聞きますが、自分に合わないと思えばすぐにやめます。
 シーズンオフもほとんどの野球選手はリラックスして、心と体を休めるんですが、金本はトレーニング中心に日程を組みますからね。ゴルフもしませんし、自宅にいながらダラダラすることがないんですよ。休むと決めたら海外や温泉に行って、しっかり療養することに集中するんですけど、オフをなんとなく過ごして、誘われたからお酒を飲んで……という生活はしていないですね。

■努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力があった

――東北福祉大時代からの付き合いになりますが、当時の印象は

 大学に入ってきたときは線が細い選手でしたね。スピードやリストの強さは感じましたけど、特別なセンスがある選手ではありませんでした。
 僕は金本の2年先輩で同部屋だったんですけど、金本は当時からホームランにこだわりがあったので、そこに向けて一生懸命練習をしたり、ウェートトレーニ ングをしていましたね。下級生はいろいろ雑用もあるんですが、毎晩部屋でも筋トレをして、時間があると屋上で素振りをしていました。目標に向かって努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力がありましたね。

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Tuesday, April 27, 2010

ささやかな日々

いろいろ声を掛けていただいて、本当にありがたいと思っております。

四月に入り、授業準備をはじめ、大学関連のことに忙殺されています。



例えば、今日は結婚論に関する一般教養的な(哲学に特化しない)講義が1コマ。
先週が『アベラールとエロイーズ』で、今週は『トリスタンとイズー』。
今年度新しく始めたものなので、毎週準備が大変。

終わるとすぐにギリシア語の個人授業を学生y君と一緒に受けている。
それも三時間みっちり…。

明日は2コマゼミがありますが、その前に、特別講義としてある授業で、
自分の留学体験と国の紹介などを話すことになっているので、今はその準備。
"Bienvenue chez les Ch'tis"という
フランスの大ヒット映画を使おうと思っているのですが、場面を選ぶのに時間がかかる。
あと、留学時代の写真。適当に話せばすぐ時間は過ぎますが、
なるべく実のある話をしたいと思うと、なかなか難しい…。

五月半ばにも一つ話さねばならない。いわゆる「研究」以外のことを、それなりにうまくこなしていくこと。挑戦(ごくささやかな挑戦だけど)は続く。

Wednesday, April 21, 2010

【改訂最新版】ジャン・ボベロ教授講演会のお知らせ

三浦信孝先生よりお知らせが参りましたので、掲載しておきます。


ジャン・ボベロ教授講演会のお知らせ
中央大学が外国人研究員として招聘するパリ高等研究院EPHE名
誉学長Jean Baubérot教授の講義・講演会を以下のように開催します。それぞれの大学でお迎えいただく先生方に深く感謝いたします。
ボベロ教授の著作リストは膨大ですが(略歴添付参照)、邦訳で簡単に入手できるものに『フランスにおけるライシテの歴史』(三浦信孝・伊達聖伸訳、白水社文庫クセジュ、2009 )があります。
laïcitéは非宗教性・脱宗教性・世俗性・政教分離などと訳されてきましたが、いまやライシテが訳語として市民権を得つつあります。ライシテは憲法原理にもなっており、フランス共和国の成立とアクチュアリテを理解する鍵です。ボベロ教授はライシテを「フランス的例外」とせず、政教関係の国際比較(日本を含む)をなさっています。
時間の許す限り多数お出かけください。

5月19日(水)11時「西洋におけるキリスト教社会の成立(1世紀~15世紀)」中央大学八王子キャンパス3号館3454(三浦)
5月20日(木)11時「西洋におけるキリスト教社会の世俗化(
15世紀~21世紀)」中央大学八王子キャンパス3号館3455(三浦)
5月21日(金)13時「ケベックにおけるaccommodements raisonnables : ブシャール=テイラー報告をめぐって」

           明治大学和泉校舎第1校舎4階414教室(小畑精和教授)
5月24日(月)17時「死――宗教と医学のあいだ」

           東京大学本郷キャンパス法文1号館219番教室(島薗進教授)
5月27日(木)18時「第5共和政におけるライシテの変容(1958-2010)」
           日仏会館ホール(主催 フランス事務所Marc Humbert代表、協力 東北大学・辻村みよ子教授)
5月28日(金)14時「ナショナル・アイデンティティとライシテ」
           早稲田大学小野記念講堂、早稲田キャンパス27号館地下2階(フランス語教育学会講演・三浦)

中央大人文科学研究所「総合的フランス学の構築」チーム主査・三浦信孝

Sunday, April 11, 2010

ベルクソン技術論

少し前にカテリーナ・ザンフィのイタリア語のベルクソン技術論を紹介しましたが、
彼女がラファエル・エントーフェンと一緒にベルクソン、シモンドンについて語っています。
数日間、観ることができますので、よろしければどうぞ。

Saturday, April 10, 2010

チャレンジ

4月9日、現代フランス政治哲学読書会@本郷。東京にいた頃は毎回出席していたが、福岡に来てから初の参加(たぶん)。

宇野重規先生による、ピエール・マナン『政治哲学入門講義』(Pierre Manent, Cours familier de philosophie politique)紹介。はっきり言って、日本でこの手の話を聴けるほぼ唯一の場ではないかと思う。宇野重規先生が五月から研究留学でイギリスへ一年行かれるとのことで、読書会後は、歓送会。

ちなみに来年、このグループの何人かで、白水社から政治と宗教をめぐる論文集を出す予定。「19世紀フランス思想史における社会統合」をテーマにして宗教を扱うことが決まっている。

私はまったくの門前の小僧なのだが、終章で「宗教的なものの行方」と題して執筆するらしい。「できればそれまでの諸論文の内容を受けるかたちで19世紀宗教思想を簡単に(?)概観したうえで20世紀あるいは今後の「宗教的なもの」について論じていただくというかなり大胆なもの」を希望されている。うーむ、まあ自分に対するチャレンジですね…。

Thursday, April 08, 2010

先生稼業

今日本格的に大学の授業が始動。これからまた、長い一年が始まる。

今年の大きなテーマは「適度に抜く」。手を抜く、ということではもちろんない。

うまい寿司は固く握ってはダメで、適度に空気を含んでいなければならないという。フランス語で言うaéré(空気の流通のよい、構造が密でない、透いた、余白のある、空気のように軽い)、である。

いい授業とは、適度にaéréな授業なのだと思う。去年は、パスカルではないが、真空(空虚)を恐れて、90分間以上喋れる準備をして、授業に臨んでいた。

今年は、学生に考えさせるということ、学生が授業を完成する最後の一手を放つのだという気持ちで、学生に委ねる瞬間を少しでも多く持っていけたらと思っている。誤解のないように繰り返すが、これは手を抜くということとは似て非なる作業である。去年よりもう少し多く学生と面と向かう、ということでもある。

本当に学生と面と向かう、自分の言葉で、自分の考えで相対する、その難しさを理解し、それを恐れないこと。どんな学生の、どんな球種にも対応すること。先生稼業は、傍から見ているほど甘くはない。

Friday, April 02, 2010

その後

エラスムスの4コマも無事終了。

この三カ月で五本執筆は悪くない。かなり疲れたし、使い回しもあるけど…。
(1)1月:デジャヴ論文(日)
(2)2月:紀要記憶論文(日
(3)3月:シモンドン論文(仏)
(4・5)3月:福岡シンポ論文(日・仏)

その後、
4月エラスムス授業準備(終了)→シンポ07論文(仏)添削→新学期授業準備
5月仏文学会WS
6・7月金森科学論論文
8月デリダ翻訳+とある辞典項目(「哲学と哲学教育」「デカルトとパスカル」「リール」)
9月秋の国際シンポ準備
と続く…。

Sunday, March 28, 2010

The show must go on...

的確にステップを踏んでいく。一つ踏み間違えることも許されない状況。わくわくもしないし、びくびくもしない。不思議と穏やかな心境だ。

18日(木):27日シンポ・自分の日本語原稿ひとまず完成。
19日(金):『哲学の権利』上映会+ドゥギー&丸川先生講演会+懇親会。何よりの収穫は西山さん&ドゥギー&丸川先生と(再び)会えたこと、そして福岡の学生たち、東京や大阪から来てくれた人々がいたこと。西山さんや私たちを通じて、若い人たちが繋がっていってくれるのが嬉しい。
20日(土):27日シンポ・モンテベロ原稿の邦訳ひとまず完成。
21日(日):27日シンポ・自分のフランス語原稿半分完成。
22~23日(月):24日シンポ・フランス語原稿(+言い訳のような日本語要旨)ひとまず完成+エラスムスの授業準備。

24日(水)福岡は雨。朝、飛行機に乗り、昼、法政大学到着。東京も雨。エラスムスの一コマ目、お題は「現代的生気論とは何か」。夕方からシモンドン・シンポ@明治大学、よく知り合った仲なので、結構盛り上がる。シンポ後の懇親会も結構盛り上がる。エラスムスの学生を連れて二次会まで。

25日(木)東京は曇り時々雨。メールを片付けて、朝11時から昼1時までエラスムス2コマ目(ヨーロッパ人にフランス語でフランス哲学の授業)。2時の飛行機で福岡へ。4時過ぎに到着、その足で大学へ。事務作業。どしゃ降り。夜、27日シンポ・自分のフランス語原稿を完成。

26日(金)一転からりと晴れわたる。午前中、大学で会議と説明会。午後、フランス人三人を空港へ迎えに行く。心をこめたもてなしはするが、ステレオタイプなものはしない。ここらへんも実はセンスの見せどころ。

27日(土)すっきりと晴れ渡った一日。国際シンポ@九州日仏学館。朝10時から午後6時までの長丁場だったが、常時20~30人くらい(!福岡ですよ、ここは!)の聴衆の方々がいてくださって、非常に心強かった。先週の『哲学への権利』からのリピーターが何人もいてくださったこと、九大の院生たちやはるばる東京から来てくれたという学生、名古屋の方など、私の従来の知己でない方々が駆け付けてくださったことは、何にもまして嬉しい。ポスターはキャッチーだったが、中身は直球勝負。発表はどれも平均以上のクオリティ。議論も白熱した。アンケートでも「大変難しい」が「大変満足」が大半を占めた。私たちの情熱が伝わったということだろうか。懇親会・二次会は若い世代が新たな「出会い」――人と人の出会いだけでなく、哲学する新たな方法との出会いや、今まで見えていなかった自分の限界との出会い――を見つけてくれるためのもの。

28日(日)今日もまた快晴。疲れてはいるが、シンポ後のゲストの観光はお約束。ということで、フランス人三人を連れて、一日ぶらぶら大宰府と九博に行って、天満宮裏の山に登ったり、出店やフリーマーケットをひやかしたり。じわりじわりと疲れが押し寄せて来て、何度もこっくり。フランス人たちもおだやかな(疲れた)感じで、これはこれでよかった。

…まだ実はこれですべて終わりではない。

29日(月)シンポの後処理作業+学生指導。
30日(火)エラスムスの授業準備。
31日(水)~4月1日(木)朝、大学で会合、その後、東京へ。エラスムス3コマ目+4コマ目。終わったら、とんぼ返りで夕方から学部の集い。

Sunday, March 21, 2010

3/24国際シンポ「不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」

明治大学文学部フランス文学専攻主催、明治大学国際連携部;ユーロ・フィロゾフィー後援

不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって

日時:2010年3月24日(水)15:00-21:10
場所:明治大学駿河台キャンパスリバティタワー19階119J室

第一部 15:00-16:30

15:00-16:00 合田正人(明治大学):ジルベール・シモンドン入門(日本語)

16:00-16:30 質疑応答

第二部 17:30-21:10(司会 藤田尚志、フランス語、通訳あり)

17:30-18:10 米虫正巳(関西学院大学):自然とその不均衡システム――シモンドン、ドゥルーズと共に自然を考える

18:15-18:55 藤田尚志(九州産業大学):ベルクソンとシモンドンにおける想像力と発明

19:00-19:40 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学):個体的なものから生命的なものへ

19:45-20:25 ピエール・モンテベロ(トゥルーズ大学):シモンドンと自然哲学

20:30-21:10 質疑応答ならびに全体討議

参加自由、無料(連絡先 合田正人 mg1957[atmark]kisc.meiji.ac.jp)