Friday, April 08, 2005

哲学の翻訳、翻訳の哲学

G.W. Leibniz, L’Harmonie des langues, présenté, traduit et commenté par Marc Crépon, édition du Seuil, coll. "Points", 2000.

何度確認しておいてもよいことだが、どんな書物も状況の産物fruit de circonstancesである。状況の産物でないような、いかなる書物もない。

本書もまた、「哲学における翻訳の重要性」という、より大きなテーマに連なる状況の産物である。本書は、Seuilという人文系大手出版社の売れ筋文庫Pointsの、Essaisというシリーズ(série)の一冊として刊行されているが、最も重要な書誌情報は、「この著作は、アラン・バディウとバルバラ・カッサンの監修下で刊行されている」という一文である。同じSeuilに、Ordre philosophiqueという別の叢書をもっている(例えば、ドゥルーズのベーコン論『感覚の論理学』の簡略版はこの叢書から刊行された)この二人は、明記されているわけではないが、どうやらEssaisの中に「シリーズの中のシリーズ」とでも言うべき、自分たち専用のシリーズを持っているようである。

バディウとカッサンのこの「シリーズ」の特徴は、重要な哲学的テーマに関するテクストを対訳版で、関連資料や語彙を付して提供することにある。例えば、ハイデガーが取り上げなおした中世存在論の枢要概念に関するトマス・アクィナスとフライベルクのディートリヒの決定的なテクストに、中世哲学の第一人者アラ ン・ド・リベラが解説を付した『存在と本質』(1996年)。あるいはまた、現代フランスを代表する政治哲学者バリバールが、近代認識論の祖ジョン・ロックの『人間悟性論』のとある一章とその仏訳に、近代西洋哲学全般を規定する「意識」と「自己」という概念の創出を見て取ろうとする『自己同一性と差異』(1998年)。他にも、パルメニデスの希仏対訳、スピノザの羅仏対訳、ルターやシュライエルマッハー、ニーチェの独仏対訳、ベンサムの英仏対訳などがある。

「オリジナルのテクストをとにもかくにも自分で、原語で、読む。現在の日本の思想界に最も欠けていると思われるこの誠実な態度が、フランスでは当たり前のように、現在第一線で活躍する哲学者たちの号令の下に、大手人文系出版社の、しかも文庫本で出版される、という形で実行されている」といった形の問題提起をすれば、「事態を誇張しすぎている」といった反駁の声が確実にあがるであろう。だが、日本の事態の深刻さを指摘するのは簡単だ。皆さんが廉価で入手しやすい代表的な哲学書の対訳版を一つでも挙げてくださることができればそれでいいのである。たった一つでも!

学部生時代から極端な専門化の一途をたどり、アリストテレス専門家はデカルトを知らず、デカルト研究者はフッサールを知らず、フッサール学者はネグリを知らない、という「哲学の縦割り行政」は根本的な問題の一つであるが、ここではそれが専門言語の一本化・秘教化として姿を現しているのである。

1)専門言語の一本化 「君はギリシャ語も読めずにアリストテレスを論じるというのかね」という哲学教師の嫌味を私は不当だとは思わない。それは至極まっとうな意見であり、語学のできない哲学者は心を入れなおして、真摯に語学の勉強に取り組むべきである。

しかし他方で、対立が「語学のできない表層的なゼネラリストか(現代思想家に多い)、特定の語学はできるが広範な視野を持たない専門家か(各分野の哲学者)」というレベルにとどまってしまうならば、それはきわめて不毛だと言わざるを得ない。そして、残念ながら、このレベルを超えた状況に今の日本がいるとは到底言えない、ということは最低限どんな立場の哲学者でも認めるところであろう。なぜなら私たちの国の哲学institutionは言語教育の重要性を看過するようにできているからである。これが次の問題、すなわち私が「専門言語の秘教化」と呼ぶ問題である。

2)専門言語の秘教化 「君はドイツ語も読めずにカントを論じるというのかね」という哲学教師の嫌味を私は不当だとは思わない。それは至極まっとうな意見であって、語学のできない哲学者とは端的にナンセンスである。

しかし他方で、現在の日本の哲学のinstitutionには、言語的なトレーニングを与える場が決定的に不足している。外国語で哲学の授業を行なう外国人教師がほとんどおらず、外国語で論文を書く習慣もない状況で、学生たちはどうやって哲学のツールとしての外国語(それは一般的な外国語の修練とはかなり異なる)の訓練ができるというのか。一部の意識ある学生たちが「手弁当で」「竹槍で」やるしかない状況なのです、残念ながら、と悲しげに首を振り微苦笑を浮かべつつ、大先生たちはおっしゃる!また、とりわけ哲学科においては、海外で修行を積んだ者が必ずしもより高い評価を受けるとは限らず、小判鮫よろしく先生の後ろに密着していた者が教授になるという不可解なる「人事慣習」が横行していないとも限らない。

マルクスをもじって言えば、意識が制度を規定するのではなく、制度が意識を規定するのである。必要は発明の母である。制度なしに大学における哲学が存在し得ないならば、「必要悪」としての制度をせいぜい活用しなければならない。したがって重要なのは、学部における外国語の習得をより本格化させ、哲学研究の根幹に「言語」を据えると同時に、大学院入試により高度の語学能力を要する試験を導入することだ。生き残りをかけて必死な大学の哲学科が安易な簡素化に生存の希望を託すようなことがもし万が一あれば、後で悔やんでも悔やみきれない禍根を残すことになるだろう。だが、私たちの政府は目先の帳尻あわせを優先し、国の宝であるべき国立大学を天下り官僚という「解体業者」たちに売り払ってしまった。こんな重大な過誤を見過ごした国民は自分の子孫たちがツケを支払わされる羽目になるということを十分に意識しているのであろうか。

専門研究にあまりにも入り込みすぎた結果、それ以外のものが見えなくなってしまった痛ましい研究者たちは言うまでもなく、アクチュアルな問題に対する広い視野を誇るはずの現代思想家たちさえもが、制度論的な視点を見事に欠落させているのはどうしたことであろうか。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定するというマルクスの言葉を好んだ「批評家」が大学の哲学について罵詈雑言以外に語ることかくも少なく、建設的な意見に関しては皆無であったという事実は兆候的である。

さて、そうは言うものの、たしかにフランスと日本では、状況は-哲学の置かれた社会的地位も、出版状況も-かなり異なる。フランスは、大統領や大臣が演説の中で文学者や哲学者を当たり前のように引用し、それを聴衆がさして奇異としない国柄である。哲学者の発言が、他の知識人に比べて、さほどの遜色なく通用する国である。すでに中学・高校から、自国の哲学者デカルトのみならず、プラトンやカントのテクストにたとえ形だけではあっても目を通し、どれほど貧弱なものであろうと一家言もつことが端的に時間と労力の無駄だとは判断されない国である。

出版事情に関して言えば、哲学が高校で教えられることと相まって(むろん日本のかつての「倫理」の授業のような知識詰め込み教育ではなく、テクストを読みながら複数の概念を実地で学習・議論していく型の教育である)、毎年相当量の哲学書(リライトされたものではなく、オリジナル)が高校生・大学生向けに刊行され、それによりある程度の採算が見込まれることによって、 例えばプラトン『プロタゴラス』の複数の翻訳が文庫本で出版される国である(むろん、それらのほとんどが読まれずに中高生の本棚の肥やしになるだけであったとしても、それはそれで文化的な意義を持つ。彼らがいつかその『プロタゴラス』を手に取らないと誰に言い切ることができよう)。否定的側面が多々あることを承知で言えば、アグレガシオン(高等教育資格試験制度)が毎年複数の哲学者・テーマを課題とするために、それらの哲学者の著作が定期的に復刊され、課題となったテーマに関する研究が参考書として刊行されるという「制度」が、出版に関する限りで言えば、ある種の「好循環」を生んでいる国である。

現在の日本では、「日本語とギリシャ語の対訳版でプラトンを出版することに何の意味がある。どうせ学生たちは読めないのだから」とおそらくはプラトン研究者すら言うだろう。「そのような対訳版を廉価で出版するのはリスクが大きすぎる。一般読者は買わないだろうから」と比較的経営状態の安定 した大手出版社すら言うだろう。だが、日本の哲学者の言い分も、日本の出版社の事情も脇に置かせてもらって、「理念を振りかざす青二才の屁理屈」と軽くいなされることを承知で言えば、やはり対訳を廉価で出版することには見過ごせない哲学的な価値がある。原書を、原語で、ゆっくり読んでいくことの重要さが今の日本ほど必要とされている国もまたないということに、彼らは気づいているのだろうか。スロー・フード、スロー・ライフが重要であるように、スロー・リーディングにもまた、測り知れない哲学的な重要性があるのである。

もちろん、売れ筋の本を仕掛けていくことにも意味がある。商業的にはこちらのほうがメリットが大きいことは、私のようなど素人でもよく承知しているつもりである。2004年現在で言えば、ネグり+ハートの『帝国』関連書籍や、デリダ=ナンシー系列のイタリア人脈などを積極的に仕掛けていくことにはむろん大きな思想的意味もある。だが、率直に言って、これは現代思想かぶれの学生・若年サラリーマン向けだという印象を拭いきれない。ジジェクやバトラーの思想が大学を超える大きなムーヴメントをアメリカや、とりわけ日本において、引き起こしたという証言を私は寡聞にして知らない。そして、かつてのバルトのときと同じように、性急に出版された悪訳をつかまされるのは、最も熱心な信者たちなのだ。

現代の平均的な日本のサラリーマンが真っ先に読むべきなのは、そして繰り返し熟読玩味すべきなのは、16歳の少年が16世紀に書いた『喜んで隷属することに関する論文』であり、19世紀末のとある地方代議士が書いた『怠ける権利』である。これらの本を廉価版で提供することこそ、2004年現在の日本で最も大胆かつ壊乱的な営為なのであって、最先端の現代思想を輸入することはただそれら本物の思想を輝かせ(そして同時に自らをも輝かせようと する)ことによってしか価値がない。本物の思想はいつの時代にもアクチュアリティを失わない。ただ現在においてしかアクチュアルでない本は、これらの書物に束の間当てられるスポットライトに過ぎない。

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 本書には、ライプニッツ(1646-1714)が1679年から1710年にかけて、すなわち彼が33歳から64歳までの間に書いた言語と国民性の関係に関する三つの試論、主題的に関連する書簡からの抜粋や各種関連資料、キーワード解説、参考文献一覧が収められている。(2004年9月20日)

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