解放(Libération)に続く戦後の十年は、フランス現象学にとって試行錯誤の続く十年間であった。この時期に問題となっていたのは、とりわけ現象学とマルクス主義の関係である。
サルトルは、はっきりと政治的な時期に入り、現象学から撤退した。以前彼が実践していた現象学的存在論は社会的・弁証法的な現実に対して抽象的にすぎたと認めたのである。
チャン・デュック・タオに代表されるような、現象学とマルクス主義を融合させようという試みにしても、マルクス主義によって現象学をその悪弊たる抽象から「救い出す」という姿勢は鮮明であった。現象学の扱う質料(matière)、なまのhylèは、文化的な産物であって、その中立性は疑わしいものであり、十分に弁証法的でもなければ、人間の労働によって変化させられうるものでもない、というのがその理由であった。たしかに現象学的還元は、意味・方向の贈与(donation de sens)を通じて人間的でダイナミックな真理へと導いてくれるものではあるが、フッサールにあっては一種の「全面的な懐疑論scepticisme total」にまた再び落ち込まないから抜けきってはいないというわけである。こうした試みは結局のところ、本格的に現象学をマルクス主義と統合しようというよりは、現象学の周囲にcordon sanitaire(伝染病の流行している地域の周辺に設けられる防疫線ないし予防線)を構築しようとするものにすぎない。
(ジャン=フランソワ・リオタールの『現象学』やジャン=トゥッサン・ドゥザンティの『現象学入門』(Jean-Toussant Desanti, Introduction à la phénoménologie, Gallimard, 1963 ; repris dans la coll. "Idées", 1976 ; disponible maintenant en Folio.)においては、繊細な手つきで、フッサール現象学に対するマルクス主義的批判が行なわれている。
ちなみに、リオタールの名著『現象学』(初版1954年)は、少なくとも私が手元に持っている1961年の第4版と、2004年の第14版ではテクストが若干違っている。たとえば、ジャニコーがここで引いている"scepticisme total"という言葉は、前者の版ではscepticisme destructifとなっており、引用符はついていない(したがってジャニコーは1954年の版を参照させているが、これは正確ではない)。
また、新版では、「Nous avons pris le parti d'écrire intentionalité comme rationalité plutôt qu'intentionnalité.」という註が付されているが旧版にはなかったり、あるいは「フッサールからハイデガーに至る遺産もあるが、また裏切りもある」という旧版の表明の「裏切りtrahison」が新版では「変成mutation」に変更されていたり、といった例には枚挙に暇がない。いつの時点でテクストが変更されたのか、何度も変更されたのか詳細は不明だが、1965年に初版が出た邦訳はそれ以前の古い版に拠っているので、引用されるときには注意されたい。)
この時期の重要な地殻変動は、むしろもっと目立たない形で生じている。1950年、ポール・リクールは、『イデーンI』の翻訳を刊行したが、リクールの付した序論は重要である。リクールは、とりわけフッサールの超越論的観念論の意味に対する戸惑いを隠していない。単なる主観的な観念論が問題になっているにすぎないのか?しかし、未だ「世界的」なあらゆるアプリオリの徹底的な還元を行なう直観の哲学によって、フッサールは相対主義からもカント主義からも解放されているように思われる、と。リクールは、フィンクの解釈がもたらす次のようなパースペクティヴを共感をもって描いているが、それを積極的に採用したわけでもない。つまり、心理学的な志向性も、ノエシス・ノエマ関係も超えて、フッサールは、志向性の第三の意味、すなわち世界の起源の「生産的」で「創造的」な解明を見出したのだという解釈である。
リクールは後年、『他者のような自己自身』において提出することになる問いをすでにこの1950年の段階で定式化しているわけだ。主体性が間主体性と合致するのは還元のどのレベルにおいてであろうか、と。「最もラディカルな主体は神であろうか」と何気なく洩らしている言葉を聞き逃すことはできない。神学的転回は明らかにこの種の問いかけに胚芽として含まれているわけだが、とはいっても、リクールはいつものように慎重な姿勢を崩さない。現象学から神学への一歩を彼が意志的に踏み出すことはない。いずれにせよここでもまた、フッサールの残した諸困難がいかに大きなものであるかが明らかになったわけであり、我々はその分析を、とりわけ現象性の核心に住まう根源的なものという形で逆説的に姿を現す超越性という形而上的な概念を導きの意図にして、本書において深めていくことになる(une question directrice, métaphysique par excellence, celle de la Transcendance se révélant paradoxalement dans un originaire logé au coeur de la phénoménalité)。
言い換えれば本書の課題とは、還元の意味、間主体性によるアプローチ、生活世界の概念的な地位、現象学と形而上学の関係などなどが交錯する諸問題が、大きく分けて二つの方向へと収束し、と同時にある種の「解決」を見るのはなぜかを理解することである。二つの方向性をキーワードで示せば、それぞれ「絡み合いentrelacs」と「鉛直aplomb」になる。
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