Saturday, April 16, 2005

『神学的転回』(5)後期メルロとレヴィナス(下)

では、同じ目的(志向性の超出 dépassement de l'intentionnalité)・同じ戦略(現象学を見えないものに向かって開くこと ouverture de la phénoménologie à l'invisible)から出発しながら、なぜメルロ=ポンティとレヴィナスの間にこのような根源的な相違が生じてくるのか。前者は存在論を擁護し形而上学を糾弾しているが、後者は形而上学を擁護し存在論を糾弾しているといった程度の指摘で満足することはできない。事は現象学運動の方向性そのものに関わるのである。

直接的で具体的な争点は一にかかって、超越性を無条件的に主張するのか、見えるものを忍耐強く問い続けるのか、という点にある。どちらかを選ばねばならない(entre l'affirmation inconditionnelle de la Transcendance et la patiente interrogation du visible, l'incompatibilité éclate ; il faut choisir.)。むろん我々の問いが哲学的かつ現象学的なものたることを望むのであれば、恣意的な裁断など問題外である。方法に関する問いを導きの糸として先鋭化することで、答えるように努めるほかはない。

では、方法論のレヴェルにおいて見られる、メルロ=ポンティとレヴィナスとの相違とは何か。メルロ=ポンティの方法論には、発見的手法(heuristique:与えられた課題に対して段階的に評価を進め、自己発見的に解を見出す方法)に付き物の脆さがある。誰もが感じることのできる経験の豊かさへと接近するために、それを表現する言葉そのものをも手探りで探求を続け、性急な断定や理念の誘惑に屈することなく、他者に対して注意深い眼差しを投げかけ続ける、言ってみればミニマリスト的な手法である。知性はここでは、プルーストにおけるように剥き出しのまま、感性的なものを深く捉えにやって来る。何物も仮定することなく、経験のうちで最も逃れ去りやすいものをただひたすら解明しようと欲する、メルロ=ポンティの飽くなき意志は、現象性を間近に思考し、それに浸されよう(penser au plus près de la phénoménalité pour mieux être habité par elle)とする点において、あくまで現象学的であり続ける。絡み合いは何物も排除することなく、世界の深みに眼差しを開く。

これに対して、一挙に私を奪い去る他者性の鉛直は、現象学的というよりは形而上学で神学的的なアプリオリを示している。サイコロには仕掛けがしてあり、決断はすでになされており、背景には信仰が厳かに立ち上る(les dés sont pipés, les choix sont faits, la foi se dresse majestueuse à l'arrière-plan.)。読者は、絶対者の峻厳に打たれ、洗礼志願者(catéchumène)のような立場に置かれて、もはや聖なる託宣や尊大な教義の開陳に黙して耳を傾けるよりほかない。
欲望とは絶対的に他なる者の欲望である[…]。欲望にとって、観念と合致しないこの他者性はある意味を持つ。他者性は、他者の他者性として、いと高き者の他者性と解される。(原書文庫版 p. 23)

すべてはあらかじめ準備されており、一挙に与えられる。そして、この「すべて」はすべて伝統的な聖書の神に由来するものなのである。これは、超越論的な自我をその限界まで裸性に導こうとする「還元」に対する裏切り以外の何物でもないではないか。神学という放蕩息子とそのお供たちの厳かな帰還ではないか。あたかも自明のことであるかのように、神学がほとんど魔術的・秘儀的に意識の最も親密な場所を占めることを哲学は黙って見過ごすことができようか。

むろんレヴィナスの有り余る才能や傑出した独創性を否定することが問題なのではなく、彼の現象学的な方法論の一貫性(cohérence méthodologique et phénoménologique)を問い直すことが問題となっているのである。たとえば、欲望は大文字化され、極限まで強調されているが、いかなる経験に即してそうされているのか。言うまでもなく形而上学的な独断にすぎない。一方で知性主義的合理主義(rationalisme intellectualiste)の精神に忠実たることを宣言しつつ、他方で「形式論理学」と彼が名づけるものを乗り越えようとしているようだが、「欲望」や「他者」の大文字化による総称化・実体化はどうするつもりなのか。高みの次元を考慮に入れるのはいいとして、なぜ「いと高き者=神」と同一視されねばならないのか。

この種の形而上学的な独断の積み重ねによってレヴィナスの思想体系が構築されていくとすれば、その方法論は解釈学的循環と折り合いをつけることはできても、現象学的なものではありえない。「たしかに現象学に固有の光(と)の戯れからは逸脱している」といったレヴィナスの「自白」ではまったく不十分である。教育的配慮からか護教論的配慮からかはともかく、彼の現象学の用い方は、経験の核心に他者の鉛直を据えようとする彼の試みとともに、まったく歪曲に満ちたものであって、現象学から形而上学への明白な移行ないし転向を示しているにすぎない。結局のところ、最初の形而上学的・神学的前提があまりに膨大なものなので、「取るか、捨てるか」が唯一の回答にならざるをえない。

本書『フランス現象学の神学的転回』は、近年開拓されたこれらの神学的な地盤に関する調査とともに、その大元になった急激な方向転換(embardée)にまで立ち返り、この方向に進まない可能性を思考しようとする。これによって、レヴィナスが大きく開けた突破口とともに、後期ハイデガーが繊細な手つきで見せた幾つもの切れ目にも、神学的な底意のあることが理解される。神学は否定的な形でも介入しうるのであり、存在論的な不安とむすびつくこともあるのである。

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