1.メルロ=ポンティにおける絡み合いの探求
『見えるものと見えないもの』に代表されるような後期メルロ=ポンティの探究の核心には、古典的な表象の哲学はもちろんのこと、フッサール現象学ですらも捉えるには至らなかったものを捉えようとする試みがある。たしかに、フッサールの「地平」概念は、このような試みの先駆であると言えるが、「この語を厳密にとらねばならない」とメルロ=ポンティは言う。地平は、絵や地図、さらには空間性のように、可視性ないし一般性の半透明(translucide)の空間に還元されるものではない。
フッサールが事物の地平について――誰もが知っている事物の外的な地平について、それからそれらの「内的な地平」、事物の表面がその境界線を示すにすぎない可視性に満ちたあの謎の暗闇について――語ったとき、この「地平」という語を厳密に受け取らねばならない。地平とは天でも地でもなければ、細々した物の寄せ集めでもないし、[...]何か「意識のポテンシャリティ」のシステムといったものでもない。地平とは、ある新たなタイプの存在であり、ある多孔質の、プレグナンツ[知覚された像などが最も単純で安定した形にまとまろうとする傾向を指すゲシュタルト心理学の用語]あるいは一般性を備えた存在(un être de porosité, de prégnance ou de généralité)であり、地平がその前で開かれる人間は、そこに取り入れられ、含まれている。その人の身体や遠景は、ひとつの同じ身体性ないし可視性一般に参画しており、この身体性ないし可視性は、その身体や遠景の間で、地平さえも超えて、その皮膚の手前で、存在の深奥に至るまで、支配している。(原書p. 193)絡み合いとして解された地平は、可視的なもののうちで私の視覚によって為されるあらゆる限定を横溢し、事物の「肉」たる潜伏(latence)のうちにすべての可視的なものを包み込んでしまう。というのも、可視的なものは決して純粋なものではなく、常に不可視性に触れているからである。同様に、私の視覚は、一度かぎり決定的に画されるものではなく、身体性のうちに刻み込まれるものだからである。絡み合いとはしたがって、一方で世界の肉による可視的なものの横溢、他方で身体性による私の視覚の横溢という二重の横溢の運動である。世界の肉、可視的なもの、身体性、私の視覚というこの四つの項がキアスムをなし、その交差点には絶えず、「あるいは彷徨し、あるいはまとめられる」可視性の神秘的な出現が認められる。
(ちなみに、ジャニコーが挙げている64年の初版と、私の手元にある(判組みを変えたらしい)2002年版とでは、頁数がほぼシステマティックに二頁ずつずれている。これも注意されたい。)
ルノー・バルバラスは、その博士論文『現象の存在について。メルロ=ポンティの存在論について』(Renaud Barbaras, De l'être du phénomène. Sur l'ontologie de Merleau-Ponty, Grenoble : Jérôme Millon, 1991.)の第1章において、『見えるものと見えないもの』において素描された存在論が、『知覚の現象学』がその中に囚われになっていた二元論、すなわち未だ古典的な「反省性」概念と「前反省的」ないし自然的なその相補物との二元論をいかに超出したかを見事に示した。実際、前期メルロ=ポンティの思考は、隅々まで自然と文化(nature et culture)の対立によって貫かれている。逆に、存在のエレメントとしての肉(「エレメント」は古代哲学の「四大」やバシュラール的な意味において理解されねばならないし、「存在」自体、純粋な贈与としてではなく、絡み合いとして捉えられた限りでのものである)の探求に専心することで、後期メルロ=ポンティは、反省的なものと前反省的なものの分割に先立ち、自我の他我への対面の手前にある次元に到達しようとする。この次元にあっては、私の身体性は、間主観的なものとなる。だからこそ間主観性の骨組みは、世界の生地と分かちがたいのである。あらゆる鳥瞰(surplomb)の思考は、この複雑な生きた身体性の次元を捉えそこなう。大文字の他者の鉛直(aplomb)もまた、間主観性の細やかな繊維を断ち切ってしまう。
2.レヴィナスにおける鉛直的思考
レヴィナスの代表作『全体性と無限』は、ただ単に後期メルロ=ポンティの哲学的探究と同時代であるばかりでなく、フッサール現象学のある種の欠陥が提起するまったく同じ問題に対して答えようとする試みであるという点まで同じである。志向性は、反省性を「還元する」までには至らない。世界への出現も、他者の接近も、ラディカルな超越論的観念論による自我意識の普遍的な構成を解明しようとする試みにあって、十分な注意が払われたとは言いがたい。レヴィナスは、「地平」概念の純粋に志向性的な意味を超出することを目指したが、少なくとも用語的なレヴェルでは、メルロ=ポンティのそれと酷似している。
志向性の分析とは、具体的なものの探求である。観念は、それを規定する思考の直接的な眼差しのもとで捉えられた場合、この素朴な思考の知らないうちに、この思考によって疑われぬ地平のうちで、立ち尽くしたままでいることが明らかになる。これらの地平こそが具体的なものに意味を与える――これがフッサールの教えの要点である。フッサール現象学において、文字通りに受け取った場合、これらの疑われぬままの地平はそれら自身、対象を目指す思考と解釈されるのではないか、といった問いは重要ではない。(原書文庫版、p. 14.)
メルロ=ポンティと異なり、レヴィナスはフッサールを扱う際にかなりの自由裁量を行使し、それを率直に表明しているといった違いを除けば、少なくとも志向性の地平を乗り越えることを目標としている点で、そして実は、フッサール以上に現象学の「精神」に忠実たろうとすることを戦略としている点でもまた、両者の試みは一致している。この戦略はハイデガーによって創始され、「現れないものの現象学」のうちにその完成形を見出し、デリダやミシェル・アンリによって継承発展させられている。
しかし、『全体性と無限』に代表されるようなレヴィナスの思考の核心には、「鉛直aplomb」と呼ぶほかない思考態度がある。ここでは「厚かましさ、ずうずうしさ」といった心理学的な意味ではなく、自我や存在から同性(mêmeté)を一挙に奪い取り、「無限」観念の優位を断固として主張するその哲学的な姿勢を意味する。
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