Sunday, March 15, 2009

KY=空気の読み過ぎ(町へ出よう、書を捨てずに)

「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉はとても甘美だ。大衆民主主義社会にあって、おそらく誰もが首肯したくなるフレーズ。そこから「象牙の塔」批判、「講壇哲学」批判まではほんの一歩だ。

フランス人の友人が書いた68年論の帯には"La philosophie est dans la rue !"(哲学は街路にこそある!)とある。そういえば、構造主義者たちは、"La structure ne descends pas dans la rue !"(構造が街路に降り立つことはない!)と批判されたのではなかったか。

街に出て、例えば「浮浪者」「派遣社員」「不法滞在外国人」と呼ばれたりもする人たちと、時には寝食を共にしながら、共闘する。その誠実さにはもちろん賞賛の言葉以外にない。

しかし…。「空気に過敏な論壇」という構図、「さまざまなる意匠」や「掘っ立て小屋の思想」という構図は、ここでもまたあてはまるのではないか。

書を捨てるのでもない、町へ出ないのでもない、そんな態度は不可能だろうか。

中谷巌を支持するわけでは全くないが、以下で問題にされている事柄には興味がある。KY=空気の読み過ぎは論壇にも学会にも共通する「日本的」な原理なのかもしれない。

***朝日新聞3月14日付朝刊より抜粋

■空気に過敏な論壇
 論壇の停滞が久しい中、経済論壇は、不景気で逆に活況を呈したといわれる。
 だが、経済紙で経済論壇の時評を担当している東大教授の松井彰彦氏は、疑問も感じている。一つが論壇と学界が、「水と油」の関係になってきていること。学界の最前線では、中谷氏が単純化するような野放図な市場主義が礼賛されてきたわけではないのに、学者が大学に閉じこもっていることもあって、研究知識の蓄積が論壇に反映されない。その構造こそが問題だという。
 「気になるのは、日本の論壇に、KYならぬ『空気を読みすぎる』傾向があること。例えば今こそ自由の価値とは何かの議論をすべきなのに、構造改革批判のムードに覆われて、やりにくい気配を感じる」という。
 主張の変更が問題にされると、学者がますます発言しなくなる恐れもある。同志社大教授の浜矩子氏は、変えないこと、真理の前に謙虚であることとの間でバランスが不可欠だとし、そのうえで人々の側に立って臆(おく)せず発言するべきだ、と話す。

No comments: