新天地に着いた。ようやくネットにつながったので、段ボール箱に囲まれながら、必要なメールを書きまくっている。
もう何度目の長距離引っ越しだろう。大阪から京都、京都から東京、東京からリール、リールから東京、そして…
年をとるほど引っ越しが辛くなる。捨てるに捨てられないもの(あらゆるレベルで)が溜まり、ますます身動きが取りにくくなるからだ。文化が埃との絶えざる闘争であるとすれば、人として生きるということもまた、「降り積もるもの」に対する不断の抵抗であると言えるかもしれない。
若かりし頃、ベンヤミンの「蔵書の荷解きをする」にごく当然のものとしてのシンパシーを抱いていた。ことと思っていた。
《蔵書の荷解き作業を中途でやめるのがどれほど難しいかということほど、この作業の魅力をはっきり物語るものはありません。昼どきに作業を始めたのが、やっとの思いで最後の箱に近づく前に、真夜中になっていました。》
ベンヤミンのこのエッセイの初出は1931年だから、39歳のときのものということになる。元気だな…そもそも荷解きだけでも単純に疲れるのに。ともかく、結婚し、子供が出来ると、夢中で荷解きしまくれるのは一つの特権であることに嫌でも気づかされる。
《本来、遺産相続こそ蒐集を始めるための最も有力な方法であります。と申しますのも、蒐集家が自分の所蔵物に対してとる態度は、もともと、有産者がその財産に対して抱く責務の感情に由来しているからです。蒐集家の態度とは、したがって、最高の意味では相続人の態度なのです。》
子供より古書が大事と思いたい(必ずしも思っているわけではないわけだ)人間はいいのだが、ふつう子供がいると、相続人の立場に立つよりも、いずれ「役に立たないガラクタの山」として相続される(嫌な顔をされる)であろう自分の蔵書の行く末に思いを馳せるものではなかろうか。
蒐集という行為の反時代的な性質について語り、蒐集にとって「夜」の時代がやってきていることを語ると同時に、ベンヤミンは個人の行為としての蒐集の終わりについても語っている。「蒐集という現象はその主体を失うことによって自身の意味も失う」。しかし、子供や連れ合いがいる場合、蔵書としての意味は失われても、マテリアルなガラクタとしての「意味」は否応なく彼らにのしかかるのである。
蒐集家の幸福を「私人=金利生活者 Privatmann の幸福」と言い換えるベンヤミンは、特権階級がパトロンとして支えてきた芸術でも、大衆がファン・マニア・おたくとして支持するポップカルチャーでもない、過渡期の何かにきわめて敏感であった。しかし、この視点からは見えないものも当然ある。そこそこ裕福な金利生活者は「負の遺産」にそれほど怯えなくてもいいわけだ。
《さて、最後の木箱の本を半ば空け終えたところで、時刻はもうとっくに真夜中を過ぎてしまっております。今私の頭の中を満たしているのは、ここまでお話ししてきたこととは別の考えです。いや、考えといったものではなく、さまざまなイメージ、さまざまな思い出なのです。実に多くのものを見出したさまざまな都市の、さまざまな思い出…》
ここでもまた、今の疲れ切った私は共感することができない。蔵書の荷解きをしつつも、連れ合いと子供と共に新たな生活に飛び込んで、「降り積もるもの」に抗い続けた一日の終わりに、さまざまなイメージ、さまざまな思い出は、残念ながら私にはまったく浮かんでこない。夢の中ででもなければ。Sogni d'oro...
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