Monday, March 30, 2009

マシュレ、『ささやかなこと。日常的なものの轍と波立ち』

つい最近会った友人と哲学談義をしていると、「けっきょく君はPierre Machereyの弟子なんだね」と言われた。そのとおりである。

リール第三大学名誉教授マシュレ(1938-)は、アルチュセールの弟子と言われたり、その文脈で言及されたりすることに警戒感を示す。バリバールやランシエールと違って、現代思想系の派手な舞台に引っぱり出されることをあまり好まないからだ。

では彼がひとり閉じこもり、自らの存在と思惟の奥深くに沈潜し続けていただけかというと、まったくそんなことはない。彼はリールという地方都市で、大学の同僚、高校の哲学教師、院生や学生などとともに、多年にわたって自分のセミネールで地道な共同作業を続けてきた。

この彼の「実践」面での地味さは、「理論」面の地味さと表裏一体の関係にある。マシュレは主に、1)スピノザ研究、2)哲学と文学の関係に関する研究、3)19世紀・20世紀フランスにおける哲学実践に関する研究、4)マルクス主義研究を行ってきた。たぶん多くの現代思想系研究者にとって、彼の仕事は、ラディカルさを欠いた、地味で穏当なもの、さらには退屈なものという印象をさえ与えるかもしれない。

しかし私は逆にこう問いたい、彼らのほうこそラディカルであることを唯一無二の価値基準とするある種の強迫観念にとらわれてはいまいか、と。私はフランス現代思想をドイツ観念論と比べるより、ヘーゲル左派に比較することのほうに関心がある。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルではなく、フォイエルバッハやシュティルナー、ブルーノ・バウアーといった、後にマルクスによって「超批判主義」として批判されることになる面々である(これについては最近書いた仏語版の大学論で言及してあるので、ご関心のある方はどうぞ)。

そうではなく、「前衛のための前衛」でも、ある時期の丸山のように「後衛」と韜晦してみせるのでもないポジショニングこそ、マシュレの選択した位置ではないか。地味なうえに、一見雑多にも見える彼の哲学的営為の総体を支えているもの、それはまさに理論的なものと実践的なもの、pratiqueとthéoriqueの関係についての執拗な問いかけにほかならない。そしてこの問いかけには系譜がある。

pratiques théoriquesはアルチュセールにとって重要な鍵語であり、後にそれはバリバールとルクールがPUFで指揮した叢書の名となった(この重要な叢書は現在、彼らの弟子のカルサンティとルブランに引き継がれている)。マシュレはアルチュセールの「名」とは違って、この実質的な代名詞には大いに執着を示している。私のこのちっぽけなブログの名もそこに端を発しているわけだ、知っている人には言わずもがなのことだけれども。だから初めに言ったように、「けっきょくマシュレの弟子」「そのとおり」なのである。

そのマシュレが彼の最新刊を送ってくれた。
Pierre Macherey, Petits riens. Ornières et dérives du quotidien, éd. Le bord de l'eau, coll. "Diagnostics", 2009.

私はベルクソン研究者としても、「無 néant」や「空虚 vide」、「隔たり écart」などの間の概念布置を考える上で、このpetit rienは案外重要なものではないか(『創造的進化』に登場する)と考え、昨年のシンポにおける発表でも言及したし、先日行われたベルクソン研究会でも触れたのだが、それはともかく。

本書の表題は、ひとまず『ささやかなこと。日常的なものの轍と波立ち』とでも超訳しておこうか。petits riensは本当に難しい。「なんでもないもの」「取るに足りないこと」「些細なことども」「ちょっとしたこと」などなど。否定のニュアンスをどれくらい入れ、と同時に肯定のニュアンスもどれくらい入れられるか、どの翻訳を選ぶにしてもポイントはそこにあるだろう。

「つまらない」という単語自体には否定的なニュアンスしかないが、「つまらないものですが…」という定型表現になると、一筋縄ではいかなくなる。rienも、それだけだと単なる否定だが、petitが加わるとかなり陰影に富んだ表現になる。Simon Critchleyのある著書のタイトルを借りれば、very little...almost nothingとでも言うべきもの、空間、あるいは場所が生じるのである。(続く、たぶん)

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