Wednesday, March 18, 2009

四行教授(老人よ、荒野を目指せ)

朝日新聞が頑張って出しているGlobeという紙内紙の話を少し前にしたが、3月16日付で《なぜ東大からノーベル賞が出にくいか――「四行教授」のぬるま湯の罪》という記事が出ていた。頷けるところもあるが、全体としてがっかりさせられる記事だ。

「エリート教育」の話を強調してきたので、もしかすると東大とかノーベル賞といったものに関心を持っていると思われているかもしれないが、実はあまり関心がない。東大生は、これは挑発でもなんでもないが、私の定義する「エリート」の範疇には入らないし、ノーベル賞は私の専門である哲学・思想研究には(いずれにしても近年では)縁がないからである。しかも「なぜ東大からノーベル賞が出にくいか」など、読まなくてもはじめから論の筋道も結論も見えている話ではないか。

それでもこの記事が目を引いたのは、「四行教授」という(私にとっては)謎の言葉ゆえであった。

《四行教授とは、履歴書に「東京大学卒、東大助手、東大助教授、東大教授」(これからは[…]5,6行になる人も多いだろうが基本的には変わらない)の4行しかないという、純粋培養の道を歩んだ人のことだ。[…]。東大に限らず、役所、企業にもある硬直化した日本の組織の特徴をよくあらわしている。》

私の知る東大の諸学科には四行教授はいないように思うが、五六行教授はけっこういるようだ。しかし、では、国立私立を問わず、他の有力大学を見渡して、どこが胸を張ってそうでないといい張れるのだろうか。要するに、日本では(フランスでも)教授の大学間移動がまだまだ少ないというだけの話だ。

《いったん東大に入れば優越意識に駆られる。なぜわざわざ外に行くのか、とリスクをとろうとしない精神構造になりがちだ。しかし、チャレンジを避けるのは、世界のトップになれる可能性を摘んでいることに等しい。ぬくぬくとした羊水にくるまれた、ひ弱な秀才で終わってしまう。残念なことだ。》

これは、あるいはかつては当てはまったかもしれないが、現在の事態をまったく読み違えている議論である。問題はこうだ。何度も言うように、昔から大学への就職は困難だというが、現在のほうが桁違いに困難である。大学院が増え、院生が増え、博士号取得者が増え、そして少子化でポストは減る一方だ。哲学などの「食えない」学科は、とりわけ中小の大学で敬遠され、よりポストが減る構図である。

すると、大学院に入る際に、学びたいことと同時に、あるいはそれ以上に、「就職」のことを意識するようになる。研究がいかに浮世離れしたものであり、研究者が世事に疎いといっても、有力大学の大学院への進学を考えるようになるのはいわば当然であろう。

その結果、有力大学の院生ほど競争を強いられ、目の色を変えることになる(この点、中小の大学の院生がはじめから諦めるというか、「のんびり」ムードなのは、また別の深刻な構造的問題である)。発表を出来るかぎり多くし、論文を量産せねばならない。教歴をつけて、博論をできるかぎり短期間で書いて…。

海外留学が就職に絶対的なプラスになるならするが、留学しなくても就職できるなら、まずは就職が重要だ。のんびり「武者修行」などとんでもない――すでにこの院生たちのピリピリムードからして昔とは大違いだということが分からないのだろうか。もちろん、悪化の一途をたどるそのような状況を踏まえたうえで、しかしながら、院生たちの自然発生的な自閉・鎖国傾向、私が先に「天動説」と呼んだものを批判しつつ、「地動説」を支持し、鼓舞していくことは必要である。だがそれは、誤った現状認識に基づいて誤った非難を投げつけることとは違う。

著者の言う「ぬくぬくとした羊水」は、いつの時代も同じ温度であったわけではない。「リスクをとろうとしない精神構造」も、「チャレンジを避ける」理由も常に同質的であったわけではない。著者の家系・経歴は、《私自身、医者一家に生まれ、東大医学部を卒業後、助手になってから、初めて米国に留学した》というものだ。だが、彼が「冒険」できたのは、しっかりとした財政的な基盤、家族の(もちろんプレッシャーと背中合わせの)精神的・物理的援助があってこそだということ、今教授職にある者たちも多かれ少なかれ「時代」という風に背中を押されてきたのだということを忘れて、抽象的な精神論などぶってもらっては困るのである。

最大の問題点は、72歳にもなって、しかも数々の重要なポスト――UCLA教授、東大教授、日本学術会議会長、内閣特別顧問――を歴任してきたにもかかわらず、著者は少なくともこの記事の中で何一つ具体的な施策を提言できていない点にある。「東大教授がノーベル賞をとれない」ことが問題であるというなら――著者は東大教授も務めた――、「人づくりこそが日本にとって最も重要な課題」だというなら、自分が東大教授であった頃の知見や反省点を踏まえて、「グローバル時代の今」、東大は、若者は、具体的に何をするべきなのかを、それを問題としているこの記事の中で、簡潔にではあれ言うべきであろう。

次のような言葉は美しい。しかし、「自分」が抜け落ちている。いや、誇示すべき「自分」は記事の中でいやというほど誇示されているのだ――私は東大を飛び出し、アメリカで成功し、東大教授になれた、などなど。だが、問題の渦中にいる若者に対して真摯な「自分」が抜け落ちている。著者は「『既得権』をもつ方々の英断」に期待したいという。ならば、著者のせめてもの責務は、何を期待したいのかを言うことであろう。「既得権」を十分に持っているあなたが抽象論をもとにした説教話をして、どうするのだ。

《たとえノーベル賞には届かなくても、若いうちから世界の一流に身近に接し、薫陶を受け、多様な優れた若い研究者と切磋琢磨する環境で研究する。[…]到達できるかどうかは別にして、チャレンジする。自分はどの程度の位置にいるのかを知り、自分を探すのだ。若者は荒野を目指さないのか?

優秀な学生は多くてもチャレンジ精神が薄いように感じる。グローバル時代の今こそ「既得権」をもつ方々の英断と、若い人々の勇気に期待したい。日本の将来はここにかかっている。》

繰り返すが、この言葉が間違っているというのではない。問題は、これが彼の「問題」であるようには思われないということである。荒野を目指すかどうかは若者の問題であって、彼らに任せればよい。若者に荒野を目指してほしいのであれば、老人ができることは、若者が荒野を目指したくなるように、目指しやすくなるように、自分なりの尽力をすることである。それこそが、若者に荒野を目指してほしい老人にとっての「荒野」であろう。老人よ、荒野を目指せ。

私たちは近々、少しでも日本の若手フランス哲学研究者がフランス語でヨーロッパの若手研究者たちと議論できるような機会をつくろうと試みるだろう。これが今の私たちなりのささやかな答えであり、ささやかな「荒野」である。

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