やはり昨年9月に思っていたこと。
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どんなに「つまらない」思想家でも、最低三つ(三著書ないし三論文)読むまで全体的な評価を下してはいけないと思っている。そして、そのような視線はとても大事だとも思っている。
思想業界には、「誰某はつまらない」と名前単位(思想家単位)でばっさり切り捨てることが自分の見識の高さを物語ると思っている人々が多くいる。それが商業的に効率的で、見映えもいいからだろう。
だが、大事なのはそこから自分がヒントを得られるかどうか、それだけだ。「誰某の何とかという著作はここはいいが、ここは問題だ」、そういう言い方を心がける。見栄えが悪く、鈍重な印象を与えるかもしれないが、それがなんだろう。他人の研究に対するこのミニマリスト的な視線と、いろいろな解釈の存在を知り、それらを検討したうえで、自分の解答を導き出すという自分自身の研究姿勢とは、表裏一体の関係にあると思う。
評価は他人に示すより、自分の糧にすることが重要だ。
「僕が何かを自分のために生かすことというのは、人のことを見て学ぶことが多いんですよね。自分のなかから何かを生み出していくことっていうのは、あんまりない。人の行動を見ていると、すごく気になることがたくさん見えてきて、それを自分に生かすというやり方で、まあずっと、すごくいやらしいやり方ですけど、そうやって、今の自分があるような気がするんですよ。そうやっていくと今の自分ができた、みたいな。そのなかから自分の信じているものなんかが生まれてきて、それを生かしていく。
(…)要は『これを今、人が見ていたら許さないだろうな』という行動は、なるべくしないようにはなっていきましたよね。人のことも見ながら、自分を作ってきた。(…)アメリカに来てまた想像していたものと違う世界があったわけです、そこに。まあ、いいことも悪いことも。アメリカでは、分かりやすい。特にはっきりと答えが出るので。それは僕にとっては、すごく助けになりましたね。
『あっ、ああやってやらなければいいんだ』ということが、あまりにもたくさんあって。 あのね、こうした方がいい、というのは難しいですよ。答えが出づらいんですよ。でも、明らかに、『それはまずいよね』という中には、はっきりとした答えが、たくさんあるので」(イチロー)
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