Friday, January 14, 2011
決着(ひとまずの)
あと数時間で出発というのに、終わったはずの二本の論文の見直しをしています…。
1)韓国のフランス大使館が主導する日中韓台共同の
人文系雑誌に載る予定のフランス語論文。
これは仏語添削者(仏人ネイティヴ)とのやりとりをメールではなく、
あるシステムでしなくちゃいけなくて、正直とても面倒くさい。
ようやく最終段階…(あと少しで本当に終了)。
2)アメリカのベルクソン論集に載る予定の英語論文。
翻訳者問題は、結局「翻訳者としては記載せず、註に日本語から仏語へ翻訳した旨を注記」するという折衷案で合意。手直ししているので、中身もバージョンアップしている。
Monday, January 10, 2011
余波
1)2004仏語紀要論文(査読あり)→2007英語雑誌投稿論文:論文の冒頭に「日本語既出」の註あり。ちなみに、このとき私は翻訳者の翻訳をチェックし、意見交換も交えたのだが、私の名前が翻訳者としてクレジットされることはなかった。
2)2008仏語雑誌論文(依頼論文)→2009日本語紀要論文:論文の冒頭に「仏語既出」の註あり。
今度、英語の論文集に収められる2011?論文は、日本語で書いたもの2009を翻訳して載せてよいと言われていたので――したがってもちろん、編者はその事実を知ったうえで、私の論文の掲載を承諾している――、何も断りをつけずに翻訳したのだが、今回の件で不安になってきたので、すでに最終原稿を提出した後だったのだが、急きょ掛け合ってみることにした。交渉は次の二点。
1)日本語ですでに発表された論文の翻訳である旨、断りの註を冒頭に入れること。
2)私の名前を第二翻訳者として追加すること。というのも、今回は、私は日本語論文をまず最初にかなりの程度、拙い英語に訳し、次に、完全に(すべて)、フランス語に翻訳したのである以上、たとえ最終的にちゃんとした英語にしてくれた人が「翻訳者」であるとしても、私もまた自分の原稿を「翻訳した」という事実に変わりはないからである。また、この事実が明確に記載されたほうが、先々いろんなことが生じてきたときに(特に業績のカウントに際して)ややこしいことにならない、と思ったからである。私の提案が受け入れられるとよいが、さてどうなることか。
いやはや、せちがらい世の中になってきた…。
Sunday, January 09, 2011
東京医大教授、論文を二重投稿 大学側は厳重注意
うーむ。私の仕事のスタイルからすると、微妙かつ重要な問題だ。
今までのところ、日本語と英・仏語でほぼ同内容(もちろん、毎回多かれ少なかれバージョンアップしている)の論文を刊行したことが二度あるが――そして、こういったケースはこれからますます増えていくと予想される――、それらはすべて依頼論文であるか紀要論文であり、おまけに、どちらも最初の註でその旨断っている。したがって同内容で「二重投稿」したことはない。まず、狭義の「二重投稿」についてだが、まずい点は、すでに他の場所で発表したという事実を隠匿しているという点にあると思われる。たしかに、これは道義的にどうかという気もする。しかし、非常にフランクに言って、日本語で発表されたことがあるかどうかなど、フランス人やアメリカ人にとってはどうでもいいことであろう――自然科学系では「当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていた」らしいので違うのであろうが、フランス語の哲学雑誌でそのような「原則」を見かけた記憶がない。私が「初出」を記したのは、プライオリティの問題をはっきりさせておきたかったからである(これは日本人相手でも同じことだ)。
次に、広義の「二重投稿」のまずい点は、同じ業績の使い回し、という点にあると思われる。しかし、少なくとも人文系において、仮にほぼ同内容の論文であったとして、それを「翻訳」する労力はかなりのものだ。私は、既発表の論文の英語化・仏語化などを一つの「業績」とみなされるべきと考える。
英語の論文をフランス語に使い回したというのと、日本語の論文をそうしたというのとでは、意味が違う(いささか、日本人弁護的になるが、翻訳の労力も同じではないとさえ言いたい)。世界の哲学シーンで、日本人以外の誰が日本語の哲学論文など読むだろう。仮にいたとして、ごくごく少数であろう。したがって、今の日本の人文社会科学の「国際化」「世界標準化」を推進したいのであれば、むしろ積極的に――むろん道義的な問題はクリアしたうえで――「二重投稿」を進めるべきである(別々の業績にカウントすべきである)と考えるが、如何?
***
2011年1月7日7時0分
東京医科大学の整形外科の教授(52)が複数の英語論文について、二重投稿したり、同僚の論文に自分を筆頭筆者として加えて投稿したりしていたことが朝日新聞の調べでわかった。一部は2004年の教授選の選考で業績に挙げていた。大学側は論文2本を二重投稿と認定し、厳重注意した。日本整形外科学会も調査している。朝日新聞の調べでは、大学側が二重投稿と認定した2本は、04年と09年に海外の専門誌などに載った論文。このほか、03~06年に、7本の日本語論文の主要なデータを英訳して、海外誌に載せていた。こうした投稿も、二重投稿とみなす学会や科学誌も少なくない。当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていたが、7本ともその旨を明記していなかった。教授は今後、大学の助言を受けて、教室の全論文を点検、論文の修正や取り下げが必要か検討するという。
この7本の中には、15年前のデータを再使用して、海外誌に投稿した論文もあった。90年の日本整形外科学会誌と05年のアジア太平洋整形外科学 会(APOA)の雑誌に載った論文で、特殊なマウスの関節を写した同じ電子顕微鏡写真10枚が使われていた。日本語の論文は90年以前に研究されている が、APOA誌には「00~03年に行った研究」と書いていた。この教授は「『あらためて検討した』と書くつもりが、『研究を行った』との誤訳になってし まった」と説明している。
日本の雑誌に掲載された同僚の論文に、自分の名前を中心的な役割を意味する筆頭筆者として加えて、海外誌に投稿していた例も複数あった。その理由 について、同僚の論文でも研究には参加していたため、と説明している。一方で、共同筆者の1人は「教授の論文投稿自体、記憶にない」と話した。共同筆者か ら筆頭筆者に変わっていた論文もあった。
教授に就いたのは04年4月。東京医大の教授になるには「英文論文が10本以上、5本は筆頭筆者」という条件が02年に加わった。二重投稿など問題のある論文9本のうち、3本は教授選考の評価対象だった。
教員の処分を決める大学の裁定委員会は昨年6月、論文2本を二重投稿と認定。ただし、1本について、教授が事前に雑誌に取り消しを申し出ていたことを考慮して、教授への処分は厳重注意にとどめ、非公表としていた。
教授は「英語論文はほかにも出しており、教授選のために水増ししたつもりはない。論文投稿について認識が甘かった。今後このようなことがないよう徹底したい」と話している。(杉本崇、林敦彦)
Wednesday, January 05, 2011
新年
いきなり疲れてしまってますが…。
今年も頑張りますので、応援よろしくお願いします。
研究もさることながら、教育。来年何をやろうかなといろいろ思案中。
「欧米思想史」という講義を持つことになったので、
フランス哲学史(デカルトからデリダまで)もいいし、
現代ドイツ哲学入門(フッサールからスローターダイクまで)とかでもいいし、
英米哲学史(ロックからローティまで)もいいなとか。
ただ、他の講義との兼ね合いもある
(全部の授業を完全にリニューアルすることはできない)ので、思案中。8コマ…つらい。
通年:ゼミ3つ、講義1つ
2年ゼミⅡ(ライプニッツ『人間知性新論』を読む)
3年ゼミ(結婚の脱構築)、
卒論ゼミ(哲学・思想研究)、
教職哲学(西洋哲学史+若干の東洋思想史)
前期:講義4つ
哲学入門A(古代哲学篇:タレスからプロティノスまで)、
倫理の世界(結婚の西洋哲学史)、
哲学の世界(芸術学部向け:芸術の哲学★リニューアル)、
後期:講義4つ
哲学入門B(中世哲学篇:アウグスティヌスからクザーヌスまで)★リニューアル、
異文化との接触(海外留学事情)、
哲学の世界(国際文化学部向け:検討中)、
Tuesday, December 28, 2010
近況
2)09シンポ原稿仏語…(9月末締切)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
4)11/20福岡・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
5)英語ベルクソン論文集・原稿校正(終了。もっといじりたいけど、時間が…)
6)12/26「大学と哲学」研究会予習(なんとか終了)
7)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)鋭意作業中…。
8)鈴木先生COE・デジャヴ原稿仏語論文化(12月下旬)鋭意作業中…。
9)仏語雑誌掲載論文の仏語校正(1/10締切)鋭意作業中…。
10)ライシテ・シンポ依頼論文(日本語)執筆(1/10締切)鋭意作業中…。
11)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
12)2月中旬トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
13)3月仏語ベルクソン論文集のために論文バージョンアップ
14)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
15)白水社・政教論文(2011年3月末締切)
16)デリダ翻訳(2011年3月末締切)
17)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月末締切)
18)英語雑誌・依頼論文執筆(2011年8月末締切)
Wednesday, December 22, 2010
ピエティスムスの祖シュペーナーに関する書誌断片
他分野の研究者のお話を聴けるということがある。
ピエティスムスについて幾つか文献を伺ったので、メモしておこう。
いつか読んでみたい。
①シュペーナー、「ピア・デシデリア」Pia desideria(敬虔な望み)1675年、『キリスト教教育宝典5』玉川大学出版部、1969年。
②シュペーナー(堀孝彦訳)「敬虔なる願望」(PIA DESIDERIA, 1675の抄訳)、『福島大学教育学部論集』、18号の2(人文科学)、1966年10月25日。PDFはこちら。
③堀孝彦「ドイツ敬虔派の思想と運動――シュペーナーのばあい」、『近代の社会倫理思想』(青木書店、1983年)に第2章として所収。
④伊藤利男『敬虔主義と自己証明の文学』、人文書院、1994年。
⑤芝田豊彦『ドイツにおける神秘的・敬虔的思想の諸相――神学的・言語的考察』、関西大学出版部、2007年。
Tuesday, December 21, 2010
わびさび
例えば、今日はこんな感じ。
10:40-12:10ドゥルーズ講義
昼休み:留学生二人が試験の質問。次の授業のプリント印刷。昼ご飯を食べる暇なし…。
3限:ベルクソン講義
4~5限:事務作業(たまりにたまった書類の処理…)、
先の留学生の質問の続き(1時間強)。
言語レベルにかなり制約のある学生に哲学の記述試験対策をするのは本当に大変…。
その後、卒論指導の学生をかなり待たせつつ、試験対策は強制終了。
卒論指導、かなり熱心にやっているつもりだが、何度アドバイスしても理解されていないのは悲しい…。
こんな感じで、最近は、授業の合間を卒論指導と試験対策に埋め尽くされ、
明らかにオフィスアワーなぞという生ぬるい制約をはるかに超えて
学生対応をしているにもかかわらず、
学生たちの反応は今一つ。疲れるし、なんとなく侘しい…。
帰りに読み始めた本:
柳沼良太『プラグマティズムと教育――デューイからローティへ』、八千代出版、2002年。
Monday, December 20, 2010
停滞
卒論学生の指導のために、キェルケゴールの『人生行路の諸段階』、キェルケゴール関連の研究書を数冊読んでいる。
執筆中の論文関連の本。それ以外となると、今は来年度のシラバス作成の時期なので、読む本がどうしても、シラバスのネタになりそうなものに偏ってしまう(笑)。しかし、どのみち最近、ほとんど本が読めていない。
石井洋二郎『フランス的思考――野生の思考者たちの系譜』、中公新書、2010年12月20日。
春日キスヨ『変わる家族と介護』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小川仁志『はじめての政治哲学――「正しさ」をめぐる23の問い』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小林正弥『サンデルの政治哲学――〈正義〉とは何か』、平凡社新書、2010年12月10日。
Friday, December 17, 2010
12/26「哲学と大学」公開ワークショップ@一橋大学
一橋大学 佐野書院(西キャンパス南側 JR国立駅から徒歩20分)
地図:http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html(図中28番の建物)
「哲学と大学」公開ワークショップ
13.30-14.15
西山雄二(首都大学東京)「戦後フランスの哲学教育」 コメント:藤田尚志(九州産業大学)
14.15-15.00
宮崎裕助(新潟大学)「英米圏での人文学論」 コメント:大河内泰樹(一橋大学)
15.15-16.45
藤本夕衣(京都大学)「アメリカの大学における教養教育論争 ―「文化戦争」にみる政治哲学の問い」
主催:科研費基盤研究(B)「啓蒙期以後のドイツ・フランスから現代アメリカに至る、哲学・教育・大学の総合的研究」 入場無料、事前予約不要
Saturday, December 04, 2010
12/16ジャン=マルク・レヴィ=ルブロン講演会「文学が科学にもたらすもの」
文学が科学にもたらすもの
ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏による講演会
Que peut la littérature pour la science ?

科学がどのような機能を果たしているか、もしくはどのように科学がその機能を果たしているか、歴史、哲学、社会学、科学などの学問の他に、文学からも学ぶことが出来るのです。
- 日時:12月16日(木)19:00
- 会場:九州日仏学館5F多目的ホール
- フランス語、日本語逐次通訳つき
- 入場無料(要予約)
- お問い合わせ・ご予約:092-712-0904(九州日仏学館)
ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏は「文学が科学にもたらすもの」は何かを問います。というのも、ユゴーやフローベール、ブレヒトなどの良く知ら れた作品であっても、またそうでなくても、文学作品は科学的な活動やその本質、また現在は争点となっていることについて、私たちの理解を助けているからで す。
物理学者、理論家であるレヴィ=ルブラン氏の研究分野は、一般相対性と量子力学。また科学哲学者として、広く一般にも分かりやすく解説することを実践して います。彼はコレクション『シアンス・ウヴェルト』(スゥイユ社)や雑誌『アリアージュ』を指揮しており、それらは科学的な知識と非科学的な実践の橋渡し ともなっています。ニース大学名誉教授、2001年より国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター。
Monday, November 29, 2010
シンポ報告(続)
さて、第二セッションの主題は、セクシュアリティと所有でした。
パトリス・マニグリエは、藤田が大阪でした話を巧みに取り入れ、それに呼応する形で、しかも随所に昨今のフランスの結婚事情に関する数字や制度改革の話をちりばめながら、自分の話の外枠を形成した。結婚の歴史は、制度から契約化(contractualisation)へと移行しつつあるかのように語られるが、実際に必要とされているのは自由にして空虚な制度としての結婚なのではないか。性も、人数も、子どもを持つか持たないかも自由な、ただお互いの「約束」だけが――したがって国家や法制度を介した「契約」がではない――お互いを縛るような結びつき。それは何が性的であるかを国家に規定させない「ポスト・セクシュアリティ社会」においてはじめて実現されるのではないか。
藤田は、結婚の2000年の歴史を概観した後――これについては、結婚の自然誌を人類学的規模で考えるべきだというご指摘を大阪でいただいた。構造主義的な観点との兼ね合いでどう考えるか。いずれにしても考えてみる価値はある――、結婚の形而上学の根本諸概念のひとつとして「所有性」をとりあげ、アドルノにおけるその「脱構築」の模様をその一例として概観した。その後、デリダにおける「結婚の脱構築」の両義性を幾つかのテクストを用いて説明しようと試みた(が時間の関係でまたも宙吊りに…)。ただ、パトリスとの議論の中で、少しは私の所論が明らかにできたのではないかと思う。
Sunday, November 28, 2010
シンポ無事終了!
ご報告が遅れましたが、結婚論シンポ福岡篇は盛況のうちに終了致しました。ご来場いただいた皆様、宣伝・告知・開催にご協力いただいた方々には、厚く御礼申し上げます。今後ともご厚情を賜りたく、何とぞよろしくお願い致します。
当日のプログラムは、
第1部:交換とコミュニケーション
フレデリック・ケック氏は、まず、英国の人類学者タイラーの生物学的・進化論的・自生的結婚観――「外で殺されるか、外で結婚するか」というタイラーの言葉に集約されるこの結婚観は、インドとイギリスなど、大英帝国内における植民地主義的結婚政策に加担するものでもあった――に対して、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』において、象徴的-文化的・構造主義的・構築主義的結婚観を対置したことを強調する。また、ボーヴォワールが刊行直後に書いた書評で、後の多くのフェミニストたちとは異なり、「女性の交換」というレヴィ=ストロースのテーゼを評価し――ケック氏自身の言葉で言えば、レヴィ=ストロースとボーヴォワールの立場は「外で結婚するか、内で行き詰まるか」(インセスト・タブーの回避から生じる族外婚)――、彼女自身の小説群においては、このような構造主義的視点から現代社会における「男性の交換」が描き出されてはいないかと示唆した。
大森晋輔氏は、「侵犯の思想家」というクロソウスキーの通俗的なイメージと、そこから安易に生じうる彼の「逸脱的結婚」観を拒絶し、むしろクロソウスキーにおける言語の次元に注目することを提案する。二十年を隔てて書かれた二つのサド論の変遷――二つ目のサド論は、クロソウスキーの特異な結婚観が端的に表れている『歓待の掟』のすぐ後に刊行されたものである――に如実に見られる、このような思索の深化は、しかしながら、クロソウスキーにとって強迫的とさえ言える主題であった「結婚」との訣別を意味しない(『生きた貨幣』は1970年に刊行されている)。したがって、「結婚か言語か」の偽の二者択一を峻拒し、「結婚と言語」を同一地平において、「切り離しえない」ものとして扱う視点が要求されるのではないか、と大森氏の発表は示唆している。
二人の発表に(そしてもちろんレヴィ=ストロースとクロソウスキーに)共通する主題、それは結婚という現象を「交換とコミュニケーション」の視点から眺めるという姿勢である。レヴィ=ストロースが「未開」部族という「冷たい社会」の構造化要因として取り出した「女の交換」を、ボーヴォワールが、現代社会という「熱い社会」においては「男の交換」も存在するという形で変換してみせたのだ、というケック氏の指摘と、「非言語による言語の侵犯」という説から「古典的言語そのものの徹底による言語の侵犯」という説へのクロソウスキーのシフトには、『歓待の掟』における夫・男の「分身」の問題が関係しているのではないかという大森氏の発表に見られる示唆は、共鳴しているように思われる。
第二部は、セクシュアリティと所有の問題である。これについては、また改めて報告することにしたい。
Saturday, November 27, 2010
Colloque international : La déconstruction du mariage Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida
2e colloque international de La PFF (La Philosophie française à Fukuoka !)
La déconstruction du mariage
Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida
Programme (tous les titres de communication sont provisoires)
13h30- Discours du directeur & de l'oragnisateur
La 1re session : échange et communication
13h 45- Frédéric Keck : « Beauvoir lectrice de Lévi-Strauss »
14h 20- Shinsuke Omori : « Le mariage selon Klossowski – autour des Lois de l’hospitalité »
14h 55-15h 30 Discussion
15h 30-15h 45 Pause-café
La 2e session : sexualité et propriété
15h 45-16h 20 Patrice Maniglier : « Le mariage selon Lévi-Strauss »
16h 20-16h 55 Hisashi Fujita : « La déconstruction du mariage – à partir de Derrida »
16h 55-17h 30 Discussion
17h 30-18h Discussion générale et clôture
18h 30-20h Closing Party
Friday, November 19, 2010
リマインド:11/20結婚シンポ
「結婚の脱構築」というプロジェクトを少しは理解してもらえたかなと思っています。
次は福岡。大阪では「ドゥルーズを例に」とって喋りましたが、福岡では「デリダから出発して」
喋ります。
まず言っておくべきは、結婚の脱構築(déconstruction)は決して結婚の破壊(destruction)ではないということ。姦通・不倫など呼び方は何でもよいが、二人の人間を実体的存在、「主体」として捉えたうえでの「結婚からの逸脱」などが問題になるわけではないということ。その程度の「侵犯」なら、わざわざ20世紀思想・文学の到来を待つまでもない。
次に、私は「結婚の脱構築」を、「哲学と大学」という、もう一つのプロジェクトと同じ問題意識で進めているということ。すなわち、哲学・思想研究者が最も目をそむけている自らの「唯物論」的な基盤、自らの思考を枠づけているものの省察である。私は大した哲学研究者ではないが、自分が足を置いて考える「思考の場所」への意識だけは大学生のころから持ち続けてきた。個人的にいかなる選択肢をとるとしても、「結婚」が多くの人々にとってと同様、哲学者にとっても重要な問題の一つであるという自明の事実をその選択肢が覆い隠してはならない。
最後に、結婚は我々の手によって脱構築されるのではないということ。我々の手によってなされる「べき」という未来のプログラムというよりは、「結婚が常にすでに脱構築されつつある」そのプロセスを明らかにするのが我々のプログラムなのである。だからこそ、最近の諸々の徴候や、最低限の歴史はおさえておく必要がある。結婚の歴史を…。
à partir de とは「~から出発して」という意味ですが、「~から立ち去るべき」という意味をも持ちえます。
何度も言っているが、デリダやドゥルーズ、あるいはベルクソンでも同じことだが、哲学研究者にとって、彼らの「ファン」や「訓詁学者」になることが重要なのではない。彼らが言ったことをただ反復・パラフレーズしたり、彼らの価値基準を押し戴いたりすることが重要なのではない。
彼らの思想の可能性の中心を、彼ら自身に抗して掴み取ることが重要なのだと思っている。そして、いかに稚拙な形であれ、常にそれを実践しようとしているつもりである。
「結婚の脱構築」という名を付したから、このプロジェクト全体がデリダ思想の庇護のもとに置かれているに違いないと考える人は多いようだ。もしそうであるならば、それはマルクスの『資本論』の副題「経済学批判」がカント哲学の庇護のもとに置かれているのと同じ程度においてである。
Sunday, November 14, 2010
近況
2)09シンポ原稿…(9月末締め切り)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ原稿
4)11/20福岡・結婚論シンポ原稿
5)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)
6)鈴木先生COE・デジャヴ原稿論文化(12月下旬)
7)12/26「大学と哲学」研究会予習
8)ライシテ・シンポ原稿論文化(1/10締め切り)
9)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
10)トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
11)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
12)白水社・政教論文(2011年3月末)
13)デリダ翻訳(2011年3月末)
14)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月)
Saturday, November 13, 2010
ライシテ・シンポ
発表は、私が哲学、伊達さんが宗教学、鳥羽さんが社会学の観点から、それぞれライシテを考察。今までにない多角的な視点からのライシテ・シンポになったと多くの方々から喜んでいただけたようで、まずは一安心。三者の発表内容に関しては、次号の『日仏社会学会年報』に掲載されるので、ご関心がおありの方は、そちらをご覧ください。
私個人としては、「宗教的なもののゆくえ」が気になっている。信、信仰、信頼、社会的紐帯といった概念群を介して、この問題は、私の中では結婚論とつながっている。
というわけで、二つの結婚論シンポに突入…。
Thursday, November 11, 2010
11/17結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から
「結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から」
発表者:
パトリス・マニグリエ(エセックス大学・講師)
藤田尚志(九州産業大学・講師)
日時:2010年11月17日(水) 15:30-18:30
場所:人間科学研究科・東館303
【セミナーの概要】
ソクラテスと「悪妻」クサンチッペ。哲学と結婚は最初から折り合いが悪かったというべきだろうか。哲学は愛(エロスないしアガペー)について、性(セクシュアリティないしジェンダー)について、家族(共同体ないし市民社会)について語ること夥しいが、結婚という日常の中の日常を語りはしない。だが、愛・性・家族の結節点としての「結婚」という現象は、プラトンからパウロを経てルターまで、ルソーからヘーゲルやキェルケゴールを経てニーチェまで、ボーヴォワールからレヴィ=ストロースを経てクロソフスキーやデリダまで、常に「哲学」にとって厄介だが避けて通れない、永遠にして喫緊の分析対象であり続けた。おそらくは人類とともに誕生し、古代・中世と絶えず形を変えながら生き延び(イエのための結婚)、近代(モダン)の所産であると同時に(ロマンティック・ラブ・イデオロギーの帰結としての「恋愛結婚」)、すぐれて生権力、生政治の現代的な問題――未婚化・晩婚化・少子化、「パラサイトシングル」から「おひとりさま」まで、幼児虐待からDVまで――でもある「結婚」という制度は、脱構築されるべき一つの(あるいは複数の)形而上学を背後に隠し持っている。フランス現代思想は、結婚の問題に本質的な解明をもたらし、逆に、結婚は、フランス現代思想の臨界点を明らかにする。
Wednesday, November 10, 2010
BIOLOGIA E METAFISICA : IL FILOSOFO, IL MATEMATICO E IL BABBUINO
Prima sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula 3.1 - Facoltà Scienze Politichevia G. della Torre 1
Ore 9 Apertura dei lavori Saluto del Prof. Paolo Terenzi – Facoltà di ScienzePolitiche “Roberto Ruffilli”
Presiede : Arnaud François
Ore 9.30 Giuseppe Longo
Dalla psicologia del babbuino alla metafisicadell’infinito, l’unità fra biologia e conoscenza neifondamenti della matematica
Ore 10.30 Elena Gagliasso
Trasversalità nuove nell'alternativa Ambiente/Mondo
Ore 11.30 Paul-Antoine Miquel
Épistémologie non fondationnelle et métaphysique dela nature
Seconda sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 15,00 – 18,30
Fabbrica delle Candele – Piazzetta Corbizzi, 9
Ore 15 Apertura dei lavori Saluto del Presidente dell’Associazione “NuovaCiviltà delle Macchine”, Prof. Pantaleo Palmieri
Presiede: Giuseppe Longo
Ore 15.30 Rossella Fabbrichesi
Coralli alberi e pennacchi. I filosofi nel giardino di Darwin
Ore 16.30 Arnaud François
Santé et irréversibilité
Ore 17.30 Federico Leoni
La vita come problema di ordine pubblico
Dibattito
Terza sessione
Sabato 4 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula Multimediale - Liceo Scientifico“F.P. di Calboli”, via A. Moro 13
Ore 9 Apertura dei lavoriSaluto del Dirigente Scolastico del Liceo “Calboli”Dott.ssa Morena Mazzoni
Presiede: Federico Leoni
Ore 9.30 Frédéric Worms
La vie est polarité
Ore 10.30 Rocco Ronchi
Grammatica e pragmatica del vivente
Ore 11.30 Davide Tarizzo
La vita e l’ambiente. Metafisica, biometria edecologia
Quarta sessione – aperta al pubblico
Sabato 4 Dicembre ore 16,00 – 19,00
Fabbrica delle candele – Piazzetta Corbizzi, 9
Ore 16 Apertura dei lavoriSaluto del Sindaco di Forlì, Prof. Roberto Balzani
Presiede: Rocco Ronchi
Ore 16.30 Florinda Cambria
Metafisca e materia del vivente
Ore 17.30 Carlo Sini
La verità del babbuino
Dibattito
Monday, November 08, 2010
Deleuze et la musique - un séminaire nomade
16 novembre 2010 – Cdmc (Paris)
Deleuze s’est intéressé à la musique en philosophe, et, si la musique n’a pas fait l’objet d’un ouvrage spécifique, celle-ci occupe néanmoins une place privilégiée dans sa pensée. Comme il s’est tourné vers le cinéma, la peinture ou la littérature pour élaborer sa philosophie, la musique est pour lui l’occasion d’une rencontre spécifique avec les champs opératoires propres au musical. On en repère les effets dans son œuvre avec, par exemple, les notions de multiplicités spatiales et temporelles, de codage et de transcodage, de pensée par diagrammes ou d’affects. Au cours de ces journées itinérantes, nous proposerons un état des lieux de l’approche du musical par Gilles Deleuze, domaine qui n’a pas encore fait l’objet d’une recherche approfondie en France. En effet, il a très souvent fait référence au corpus de la musique contemporaine, largement convoqué de Berg à Messiaen, de Boulez, Berio, Xenakis à Cage et Steve Reich.C’est d’ailleurs à l’ensemble des signaux sonores et à leur expression dans l’espace et dans le temps qu’il porte une attention renouvelée.Nous examinerons, dans un mouvement croisé, l’impact de ces outils de pensée sur la recherche et la création contemporaine en musique. Il s’agit, non seulement de se demander comment Deleuze s’inspire et s’instruit de la pratique musicale qui lui est contemporaine, mais aussi de montrer quelle incidence les lectures de ses textes ont sur la création, la musicologie, l’esthétique musicale, l’ethnomusicologie, les techniques et les technologies...Le séminaire contribuera à établir le contexte historique, à explorer les références musicales, à élucider les rencontres avec la musique, dans l’œuvre du philosophe, mais aussi à parcourir ces interférences entre musique et philosophie, avec les inflexions et tensions qui s’en dégagent pour la musique aujourd’hui.
Saturday, November 06, 2010
リスク社会におけるベルクソン Bergson dans la société du risque
『危機の社会におけるベルクソン
Bergson dans la société du risque』
(フランス語・入場無料・通訳あり)
日時:2010 年 11 月 15 日(月) 18:30 20:00
場所:立教大学池袋キャンパス 5 号館 5301教室
講師:Frédéric Keck フレデリック・ケック氏
司会:澤田直(立教大学文学部教授) 通訳:平林通洋
略歴:フランス国立科学研究所 専任研究員
1974 年生。2003 年リール大学にて哲学博士号取得。
2010 年度 立教大学国際センター招聘研究員。
気 鋭の若手哲学研究者であり、特にレヴィ=ストロース研究を中心に行い、そのプレイアード版編者として世界的に高い評価を得ている。氏はレヴィ=ストロース のみならず、ベルクソン、バタイユ、レヴィ=ブリュールについても精力的に論考を発表。文化人類学、宗教学にも造詣が深く、哲学・思想を人類学や宗教との 関連において読み解く論考を多数発表している。
問い合わせ先:立教大学 文学部文学科仏文専修
澤田直 naosawada@rikkyo.ac.jp