うーむ。私の仕事のスタイルからすると、微妙かつ重要な問題だ。
今までのところ、日本語と英・仏語でほぼ同内容(もちろん、毎回多かれ少なかれバージョンアップしている)の論文を刊行したことが二度あるが――そして、こういったケースはこれからますます増えていくと予想される――、それらはすべて依頼論文であるか紀要論文であり、おまけに、どちらも最初の註でその旨断っている。したがって同内容で「二重投稿」したことはない。まず、狭義の「二重投稿」についてだが、まずい点は、すでに他の場所で発表したという事実を隠匿しているという点にあると思われる。たしかに、これは道義的にどうかという気もする。しかし、非常にフランクに言って、日本語で発表されたことがあるかどうかなど、フランス人やアメリカ人にとってはどうでもいいことであろう――自然科学系では「当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていた」らしいので違うのであろうが、フランス語の哲学雑誌でそのような「原則」を見かけた記憶がない。私が「初出」を記したのは、プライオリティの問題をはっきりさせておきたかったからである(これは日本人相手でも同じことだ)。
次に、広義の「二重投稿」のまずい点は、同じ業績の使い回し、という点にあると思われる。しかし、少なくとも人文系において、仮にほぼ同内容の論文であったとして、それを「翻訳」する労力はかなりのものだ。私は、既発表の論文の英語化・仏語化などを一つの「業績」とみなされるべきと考える。
英語の論文をフランス語に使い回したというのと、日本語の論文をそうしたというのとでは、意味が違う(いささか、日本人弁護的になるが、翻訳の労力も同じではないとさえ言いたい)。世界の哲学シーンで、日本人以外の誰が日本語の哲学論文など読むだろう。仮にいたとして、ごくごく少数であろう。したがって、今の日本の人文社会科学の「国際化」「世界標準化」を推進したいのであれば、むしろ積極的に――むろん道義的な問題はクリアしたうえで――「二重投稿」を進めるべきである(別々の業績にカウントすべきである)と考えるが、如何?
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2011年1月7日7時0分
東京医科大学の整形外科の教授(52)が複数の英語論文について、二重投稿したり、同僚の論文に自分を筆頭筆者として加えて投稿したりしていたことが朝日新聞の調べでわかった。一部は2004年の教授選の選考で業績に挙げていた。大学側は論文2本を二重投稿と認定し、厳重注意した。日本整形外科学会も調査している。朝日新聞の調べでは、大学側が二重投稿と認定した2本は、04年と09年に海外の専門誌などに載った論文。このほか、03~06年に、7本の日本語論文の主要なデータを英訳して、海外誌に載せていた。こうした投稿も、二重投稿とみなす学会や科学誌も少なくない。当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていたが、7本ともその旨を明記していなかった。教授は今後、大学の助言を受けて、教室の全論文を点検、論文の修正や取り下げが必要か検討するという。
この7本の中には、15年前のデータを再使用して、海外誌に投稿した論文もあった。90年の日本整形外科学会誌と05年のアジア太平洋整形外科学 会(APOA)の雑誌に載った論文で、特殊なマウスの関節を写した同じ電子顕微鏡写真10枚が使われていた。日本語の論文は90年以前に研究されている が、APOA誌には「00~03年に行った研究」と書いていた。この教授は「『あらためて検討した』と書くつもりが、『研究を行った』との誤訳になってし まった」と説明している。
日本の雑誌に掲載された同僚の論文に、自分の名前を中心的な役割を意味する筆頭筆者として加えて、海外誌に投稿していた例も複数あった。その理由 について、同僚の論文でも研究には参加していたため、と説明している。一方で、共同筆者の1人は「教授の論文投稿自体、記憶にない」と話した。共同筆者か ら筆頭筆者に変わっていた論文もあった。
教授に就いたのは04年4月。東京医大の教授になるには「英文論文が10本以上、5本は筆頭筆者」という条件が02年に加わった。二重投稿など問題のある論文9本のうち、3本は教授選考の評価対象だった。
教員の処分を決める大学の裁定委員会は昨年6月、論文2本を二重投稿と認定。ただし、1本について、教授が事前に雑誌に取り消しを申し出ていたことを考慮して、教授への処分は厳重注意にとどめ、非公表としていた。
教授は「英語論文はほかにも出しており、教授選のために水増ししたつもりはない。論文投稿について認識が甘かった。今後このようなことがないよう徹底したい」と話している。(杉本崇、林敦彦)
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