Friday, March 07, 2008

哲学者の土曜日(1)哲学・教育・政治の三位一体

2月24日、シンポジウム《哲学と大学―人文科学の未来》に参加。そこで喋ったことを(時間の都合上喋れなかったことも含めて)ここに再構成しておく。

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大河内さんが会の冒頭で予言されたように、彼がヘーゲルで《トス》を上げて、西山さんがデリダで《アタック》という展開で前半を終えました。前半の「哲学者の大学論」とは内容的にも形式的にも――パワーポイントの使用といった事だけでなく、語り口そのものの性質が――まったく異なる大場さんの「ヨーロッパの大学制度論」は、その伝でいえば《レシーヴ》ということになるでしょうか。

私の役目は、このレシーヴの意味を明らかにするよう努めること、感性と悟性の間を繋ぐ構想力よろしく、前半と後半の間をつなぐというほとんど不可能に近い課題に挑戦することであります。さて、うまくいきますか。

0.「教育の哲学」が「哲学の教育」に必要である――哲学・教育・政治の三位一体

まず、自分の話から始めさせていただきます。私はフランス哲学・思想を専門とする若手研究者ですが、私の周りを見渡してみて常々不満に思っていることがあります。それは、哲学や思想を研究する者は、常々《自分がどういう場所、どういう状況に身を置いてものを考えているか》ということに意識的、反省的、批判的でなければならないはずであり、哲学・政治・教育はほとんど三位一体とでも言うべき三角形を形成するはずであるのに、現代の哲学・思想研究の物質的・精神的基盤たる「大学」や「研究と教育の関係」といった基本的な事柄に対してほとんど何の自覚も意見も持ち合わせていない人が多すぎはしないか、ということです。

先ほど岩崎さんがおっしゃっていたことですが、大学の独立行政法人化(後の大学法人化)のとき、同じ理論系の「マイナー」学問である地質学や天文学の学者が危機感を募らせて反対運動に加わったのとは好対照に、最もだらしなかったのが人文学、殊に哲学科であったというのは誠に象徴的な話です。

しかし実は、事情はフランスでも同じです。2006年に雑誌『テレマック』で特集「教育を考える」、2007年に雑誌『形而上学・道徳雑誌』で特集「今日、教育を考える」を組んだドゥニ・カンブシュネール(パリ第一大学教授・哲学)は、現在のデカルト研究を先導する一人と見なされていますが、その彼がやはり次のようなことを述べております。

《教育はフランスではなおざりにされた=見捨てられた(délaissée)問題である。個人的に、普通の会話の中でなら、これほど情熱的に語られるトピックもない。それゆえ育児論から教育制度の現状に至るまで、さまざまなジャンルでありとあらゆることが語られてもいる。だが、哲学の分野に限って言えば、事情はそれほど芳しいものではない。

「教育の哲学」は、フランスでは事実上IUFMにしか存在しておらず、したがって厳密な意味での大学には不在であり、こうした一種の制度的な無[néant institutionnel]のゆえに今日では姿を見かけることすら稀になってしまった。》(Denis Kambouchner, "L'éducation, question première", Revue de Métaphysique et de Morale, octobre-décembre 2007, p. 415.)


[註:IUFMはInstituts Universitaires de Formation des Maîtresの略。「教員教育大学センター」「教師教育大学院」「大学付設教師教育部」などと訳されている。]

《この問題に取り組んでいる人々の質云々ではなしに、教育の哲学はフランスでは相対的に恵まれない=相続権を奪われた(déshéritée)分野である。[…]実際、我々の間で、教育の問題が哲学者の興味を引く(intéressent)ことはほとんどない。一つ象徴的な例を挙げれば、LMD制度の準備に関する会合で、哲学科でも教育の哲学に関する部分を増やしてみてはどうかと提案したところ、「それは我々の務めではない」とか「それに取り組むにはIUFMがある」といった発言が同僚の一人からあり、その発言に何人もの賛同者があった。》(Denis Kambouchener, "Les nouvelles tâches d'une philosophie de l'éducation", Le Télémaque, 2006, pp. 45-46. )

カンブシュネールは、このように学校や大学における教育の状況改善・環境整備に対する物理的・精神的な「投資をやめてしまうこと(精神分析で言うところの脱備給) désinvestissement」が現在哲学界を支配しているが、この脱備給には二つのタイプがある、と言います。

一つは、哲学活動の制度的な下部構造の問題です。現在、哲学という活動はたいてい大学で行われることになっていますが、歴史上常にそうであったわけではありません。哲学の年齢は大学の年齢より古い。現在大学で進行している極端な専門分化、細分化(atomisation)は、本来的に体系的な知(エンチクロペディー)であるはずの哲学の広範な弱体化(affaiblissement global)をもたらすと同時に、哲学が長年モデルとしてきた師と弟子の関係を解体し――もはや誰も師の位置を占めることはできない――、教え学ぶということが哲学にとって有している本源的な意味に対する哲学者たちの集団的な無関心(désintérêt collectif)を助長しているというのです。(続く)

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