日本の日常:日曜の頽落
要するに、このグローバリゼーション状況下にあって、日曜/日常、聖なるもの/日常的なもの、余暇/労働の伝統的な二項対立図式を保持したまま、利害を超越した大学ないし哲学の真理探究という《無用の用》の側面、《日曜日》の側面を特権視するだけで、絶えずさらなる有用性・効率性・機能性を要求する新自由主義的な言説に対抗しうるのだろうか、ということが大河内さんの問題意識ではなかったでしょうか。
ここで瀬戸一夫の『時間の民族史―教会改革とノルマン征服の神学』(勁草書房、2003年)に言及しておきたいと思います。瀬戸氏は、中世ヨーロッパ人の来世信仰は必ずしも我々現代人の理解を超えたものではないと強調し、現代の高等教育を例にとっています。
高等教育が必ずしも成功や幸福の確実な保証とはなりえないにもかかわらず、私たちが若い時期のかけがえのない時間を犠牲にして学業に耐えているのは、そのことによっていつの日か実社会で《成功》や《幸福》に近づくことができるという「信仰」のためではないか。受験戦争に巻き込まれた多くの小中高生、予備校生のメンタリティは、来世を待望しつつ信仰生活を耐え抜く修道僧のそれとさしたる相違はないのではないか。
中世と現代は「来世」=「実社会」、「天国」= 裕福で安定した「老後の生活」、「修道院」=「学校」という対比構造で捉えることができるという瀬戸氏の類比は、プロテスタンティズムに拠らずともカトリックの枠内で資本主義をはじめ現代的生の予定説的な側面を語りうる可能性を示し、上述した古典的な時間の生-権力が今なお脱魔術化されきることなく私たちを呪縛していることを物語ってはいないでしょうか。
現代社会、とりわけ日本社会にあって《神聖》なのはむしろ働く時間であり、日曜日はまた一週間を走り抜けるための《卑俗》な骨休めにすぎません。大学、とりわけ人文学でしばしば見られる「無用の用」の言説、日曜日ないし余暇、真理の客観性・科学性・中立性の魅惑を単純に強調することは、主権(至上権)が行使される週日に行なわれる《労働の聖別sacralisation du travail》に対抗するかに見えて、その実、二項対立図式として同じ地平を共有しており、地平線の向こうへと眼差しを向けさせないという意味では、後者よりたちが悪いとすら言えるかもしれません。
重要なのは、日曜日の脱構築を通じて日常/日曜の対立そのものを内側から解体することです。そのためには、例えば、古今東西のさまざまな「怠けparesse」論を読み直さねばならないでしょう(私の2003年8月のポストも参照のこと)。ネット上でもポール・ラファルグの名著『怠ける権利』を読むことができますので、ぜひご一読下さい。
日曜日の脱構築:世界化と非物質的労働
ここではしかし、フランス現代思想の最前線から二つの参照項を借りて、大河内さんの議論を延長すると同時に、大場さんの議論との接続の可能性をごく手短に示唆するという方途を取ることにします。それら二つの参照項の共通点は、グローバリゼーションに二項対立の形で対抗運動を対置しようとするのではなく、グローバリゼーションそのものの中に現在支配的な傾向とは異なる要素を見出し、その潜在的な力に注目しようとしているところにあります。
一つ目の参照軸は、ジャン=リュック・ナンシーによるグローバリゼーションに関する議論です。
《もし世界化が――価値を普遍的なものとすることによって――価値の生産を転位させる前に、世界化(脱神学化)が価値というものを転位させる――価値を内在化させる――ならば、この両者はともに、「創造」を世界の「理由=根拠の不在」へと転位する。だがこの転位は、存在‐神論的図式、あるいは形而上学的‐キリスト教的図式の場所移動、その「世俗化」ではない。この転位は、この図式の脱構築、空洞化であり、また、賭け=遊動――と危険――の他の空間を切り開く》(『世界の創造 あるいは世界化』、現代企画室、2003年、42‐43頁)。
"Si la mondialisation (la déthéologisation) déplace la valeur - l'immanentise - avant que la mondialisation déplace la production de la valeur - en la faisant universelle -, les deux ensemble déplacent la "création" en "non-raison" du monde. Et ce déplacement n'est pas une transposition, une "sécularisation" du schème onto-théologique ou métaphysique-chrétien : il en est la déconstruction, l'évidement, et il ouvre un autre espace de jeu - et de risque - dans lequel nous entrons à peine" (Jean-Luc Nancy, La création du monde, ou la mondialisation, éd. Galilée, 2002, pp. 55-56).
フランス語では、「グローバリゼーション globalization」という英語の概念を指すのに、通常globalisationは用いず、mondialisationという語を用いますが、ナンシーは通常等価と見なされるこの二つの語の間に錯綜した関係を見出すことでグローバリゼーション状況の分析と批判を同時に行おうとするわけです。ここで重要なのは、「mondialisation=世界化」という概念がグローバリゼーションを横溢しやがて内部から転覆する剰余の契機として考察される際に、「価値」概念が持ち出され、その否定ではなく批判こそが重要だと言われている点です。
価値・効用・有用性は経済的な概念だからと忌避するのではなく、その似非科学的で形而上学的な側面を批判し、価値概念の刷新を図ることが、同時に経済状況への介入となる。我々の文脈で言えば、大場さんの指摘された「大学における質保証」や「評価」の問題を単に忌避ないし呪詛するのではなく、逆にそこで用いられている「質保証」や「評価」といった概念の批判的な検討を行なうことが、同時に教育の政治状況への哲学的な介入となるのではないでしょうか。(続く)
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