二つの目の参照軸は、ネグリ+ハートの『帝国』です。この本には様々な読み方があるでしょうが、私にとってこの本の中心概念の一つは、《非物質的労働 travail immatériel》です。
農林水産業中心のパラダイムから産業革命後の工業中心のパラダイムへの移行、社会の工業化を「経済の近代(モダン)化」と呼ぶのが正当だとすれば、人口の大半が第三次産業(サーヴィス業・情報産業)に就いている状態への移行、社会の情報化過程をためらうことなく「経済のポストモダン化」と呼ばねばなりません。そこで生み出される労働やその結果生み出される財の特徴、それが非物質性です。
《サーヴィスの生産が結果としてもたらすのは物質的財や耐久消費財ではないのだから、私たちはこうした生産に含まれている労働を非物質的労働と定義することにしよう。すなわち、それは非物質的な財を産み出す労働――サーヴィス、文化的生産物、知識、コミュニケーションのような――のことである》(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート、『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、以文社、2003年、375頁)。
"Comme la production de services ne débouche sur aucun bien matériel ou durable, on définit le travail impliqué dans cette production comme travail immatériel - c'est-à-dire un travail qui produit un bien non matériel tel que service, produit culturel, connaissance ou communication" (Michael Hardt et Antonio Negri, Empire, tr. fr. Denis-Armand Canal, éd. Exils, 2000, p. 355).
もちろん『帝国』に関しても非物質的労働概念についても批判があることは承知しています。前者にはジジェクの批判がありますし――ただし、ジジェクの批判は煎じつめれば《現代に必要なのはマルクスの再読解ではなく、レーニンの反復だ》という相当乱暴なものですが――、後者には例えば宇仁宏幸(うに・ひろゆき)さんの「ネグリの《非物質的労働》概念について」(『現代思想』2003年2月号、119-129頁)がなかなか有効であるように思います――「構成 constitution」概念の失敗が、「労働の自己価値増殖」の過大評価につながっている、という論文後半部の仮設の妥当性は量りかねますが。また、「非物質的労働」概念自体に私自身、留保がないわけでもありません――それが様々な労働過程の均質化を意味する、というのは首肯できないからです。
しかし、ともかくも、現代の政治経済学を考えるうえで、「非物質的労働」概念の《批判》が避けて通れない仕事であることだけは言を俟たないと思います。この概念をはじめとする新たな労働状況の出現が日曜/日常、余暇/労働、家庭/仕事の伝統的な区別を内側から蝕んでいるのです。
《政治的な文脈において生産と再生産の区別が徐々に消えていくことは、時間と価値の計測不可能性を再び際立たせることになる。労働が工場の壁の外に溢れ出すにつれて、労働日という虚構の尺度を維持し、生産の時間を再生産の時間から、あるいは労働時間を余暇の時間から切り離すことはますます困難になる。
生政治的な生産の地勢上にはタイムカードは存在しない。プロレタリアートは、一般性を十全に発現するような形で、あらゆる場所で、あらゆる時間に生産しているのだ》(同上、499‐500頁)。
"L'indistinction progressive entre production et reproduction, dans le contexte biopolitique, illustre aussi - une fois encore - la non-mesurabilité du temps et de la valeur. Comme le travail sort des murs de l'usine, il est de plus en plus difficile de maintenir la fiction d'une mesure quelconque de la journée du travail, donc de séparer le temps de la production de celui de la reproduction, ou le temps de travail du temps de loisir.
Il n'y a pas d'horloges pointeuses sur le terrain de la production biopolitique : le prolétariat produit partout, dans toute sa généralité, toute la journée" (p. 484).
従来自明視されてきた仕事を取り巻く二項対立図式が、科学技術、とりわけ情報技術の発達による時間概念の変化を通じて大きく揺さぶられており、日曜/日常もその例外ではありません。大学教員や哲学者が大学と社会、哲学と社会の関係を考えるに際して、「無用の用」を持ち出すとしても、これまでのような日曜日のamateurism・純粋主義を前面に押し出した形では説得的な議論はなしえないのではないかと思うのです。
大場さんが「《われわれ》とは誰でしょうか?哲学者?大学教員?社会全体?」という批判的な質問を投げかけたとき、念頭にあったのは「大学とは誰のものか」という決定的な問いを抜きに立論すると、哲学者による机上の空論に終わりかねないという危惧ではなかったかと思いますが、私の方からは以上のような方向性(日曜日の脱構築)でお二人の議論は収束しうるのではないかということを申し上げておきます。
日曜日から金曜日へ
しかし、私たちはヘーゲルとそう簡単に手を切れるのでしょうか?ヘーゲルと訣別したつもりで、その実、私たちはよりいっそう否定的なもののもとへと滞留し続けることになるのではないでしょうか?「朝(あした)に笑う者は夕べに泣く」「盛者(じょうしゃ)必衰」に該当するフランス語の諺に「金曜日に笑う者は日曜日に泣く Tel qui rit vendredi dimanche pleurera.」というのがありますが、ここでは「日曜日を笑う者は金曜日に泣く」とでも言ってみたい気分に駆られます。
というのも、実は、ヘーゲルは金曜日についても語っているからです(笑)。1802年に書かれた『信と知』Glauben und Wissenの最後に、
「思弁的な聖金曜日」
speklativer Karfreitag
Vendredi-Saint spéculatif
という言葉があります。聖金曜日とは、キリストがゴルゴタの丘で磔刑に処された受難(Passion)の日です。先に「人生の日曜日」には様々なバリエーションがあると言いましたが、この「思弁的な聖金曜日」の解釈にも様々なヴァージョンがありそうです。例えば、2006年9月にSteffen DIETSCHという研究者が、その一例としてHans Urs von Balthazarという神学者の描き出した終末論的なヘーゲル像をポワチエ大学で紹介したことがあるようです。
それはともかく、この「思弁的な聖金曜日」は、『精神現象学』のやはり最後に出てくる
「絶対精神のゴルゴタ」
Calvaire de l’Esprit absolu (仏語のニュアンスについてはこちら)
Schädelstätte des absoluten Geistes
とほぼ同義で、純粋概念が、あるいは無の深淵としての無限性が、「無限の苦痛(Schmerz)――歴史的には教養の立場において"Gott selbst ist tot"という感情としてあったところのもの」を単なる一契機として示すことで、有限性を絶対的なものとみなすカントらの「教養の立場」を否定する過程を意味しています。
要するに、「神は死んだ」という感情を最終審級と見なすのではなく、この感情の冷徹な真理性を「絶対的な受難(Leiden)」として受け止めるということは、受難の金曜日を世界の終わりと見なさず、その後に復活が、そして復活祭の無限の反復が待ち受けていると考えることです。
これを私たちの文脈に置き換えて言えば、「無用の用」としての哲学から日曜日が持ちうる楽観的ないしアマチュア的な相貌を剝ぎとり、無限の批判作業が職業(プロ)として行われるべき金曜日の性格を哲学に見てとることだと言えるでしょう。
こうして私たちは、ヘーゲルの大学論からデリダの大学論へと移行することになります。(続く)
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