フーコー・ドゥルーズ・デリダにおける哲学・教育・政治
これが二流・三流の哲学者――カンブシュネールは、magistralités secondairesとか「疲弊しきったパラダイム内部で営まれるクーン的な「通常科学」の意味での「通常の」活動」といったソフトな表現を用いていますが、分かりやすく言えばこういうことでしょう――の教育への受動的な無関心だとすると、二つ目の脱備給は、一流の哲学者による教育の積極的な「否認 désaveu」です。
カンブシュネールは、「冒険的な、すなわち予見不可能で慣習に囚われない思考のみを思考とし、それ以外の哲学的身振りが存続しうると想像することを拒否する」態度の代表例として――まさに西山さんもレジュメの中で指摘しておられましたが――フーコーを挙げています。
《フーコー・ドゥルーズ・デリダ》と並べて語られることも多い三人であり、先ほどの《哲学・教育・政治の三位一体》で言えば、哲学と政治に関しては類似点も多く挙げられますが、殊教育に限って言えば、三人の態度、ポジショニングはまったく異なるといってよいでしょう。
(註:ドゥルーズに関しては、2007年1月17日のポスト「哲学と政治」、デリダに関しては、2007年5月23日のポスト「脱構築とは制度の脱構築である」を参照のこと)。
フーコーとドゥルーズには教育、とりわけ大学などの教育制度に関する言及がほとんど見られず、見られる場合には「規律・訓育としてのdiscipline」の観点から語られるのが常であるのに対し、デリダには教育や制度に関するもっとニュアンスに富んだ数多くの言及、幾つかの著作があります。
この違いは著作や発言だけにとどまらず、彼らの制度的な所属先にも見られます。三人が三人共に、アカデミスムの中心であるソルボンヌにいなかった、大学制度の規範が指し示す囲いの外、いわゆる大学の外部にいたという点では共通していると言えるかもしれませんが、フーコーはクラシカルな王制の遺物であると同時に自由な知的機関でもあるコレージュ・ド・フランス教授であり――ベルクソンやメルロ=ポンティのように、と申し添えておきましょう――、ドゥルーズは実験的な大学として有名であったパリ第8大学に「在籍」したのに対し、デリダはまた別の意味で大学の外にあるENSやEHESSに在籍しながら、国際哲学コレージュを「創設」しました。
デリダもドゥルーズもフーコーも天から降ってきたわけではなく、彼らの天才がある時代の、ある国の、ある制度に育まれ、制度と衝突し、制度との格闘を通じて生まれた偶然と必然の産物であるというごく当たり前のことをよくよく肝に銘じておく必要があります。
三人の「制度」やその中での教育や哲学活動というものに対するスタンスの違いから彼らの哲学自体を眺め直してみることは、単に興味深いという以上の効果を彼らの哲学理解にもたらすであろうという事だけは言っておきたいと思います。
(フランス留学を経験した研究者にすらも、しばしばこの「制度」という視点が抜け落ちているのは、彼らが修士や博士課程からフランスに行き、ただただ真面目に必須授業に出席するか、あるいはあたかもコンサートかミサに通うように高名な哲学者たちの講義や講演ばかりつまみ食いするかの違いはあれ、いずれにしても研究者養成制度の一端を垣間見ただけで――私は別のところで、フランスの高等教育と日本のそれとの決定的差異は「研究者養成制度」と「教育者養成制度」の制度的分離であると繰り返し強調してきました――フランスの哲学事情が分かった気になり、あとは部屋や図書館に閉じこもって独学に勤しむという彼らの生活習慣・思考習慣と関係しています。制度に庇護され、あるいは制度に規定されながら、制度の存在やその在り方に無自覚であるというのでは、ドゥルーズやデリダ、フーコーを勉強している意味が大きく減じるように思えます。)
哲学と教育:他者と出会うこと
カンブシュネールが描き出すこの二つの脱備給のタイプは、実はどちらも日本の哲学・思想研究の現状にそのまま見出されるものです。前者の「教育に対する受動的無関心」は保守的でアカデミックなタイプに見出されますし、後者の「教育の積極的否認」は現代思想系で相対的にジャーナリスティックなタイプによく見かけます。
今日ここでコメントをするにあたって強調しておきたかったこと――残念ながらというべきか、予想通りというべきか哲学科の学生・院生がほとんどいないようですが――、それは《教育の哲学》の必要性です。今日蔓延する放棄(délaissement)、相続人不在(déshérence)、自生的な脱備給(désinvestissement)、ほとんど象徴的な去勢とでも言いたくなるような無関心(désintérêt)に対抗して、《教育の哲学》にふたたび関心をもち、積極的に相続し、批判的に備給するだけでなく、哲学に関心を持つすべての人々に関心を持たせる(intéresser)ことこそが真の《哲学の教育》につながるのだ、ということです。
ただしこの関心=利益(intérêt)は、大河内さんがいみじくも指摘したように、時流におもねった哲学の有用性(utilité)を強調するためのものではなく、短期的な有用性――精神医学であれ脳科学であれ――の限界を批判=境界画定する哲学に内在的な効力(efficacité)を強調するためのものでなければなりません。限界を批判するとはもちろん無意味を宣告するということではまったくなく、どこまでも融通無碍な概念装置であるかのような幻想を捨て去るということです。
例えば、誰の目にも明らかなように、可塑性で何でも説明できると思うのは誤りです。しかし、だからといって、可塑性を無視するだけなら、それもまたさほど哲学的な身振りとは言えないでしょう。より興味深いのは、可塑性概念に何が出来て、それによってどこまで行けるのかという境界画定を行なうことです。概念は規定されることで己の力を十分に引き出すのですから。
大場さんは、大河内さんの発表の最後に出てきた《われわれ》とはいったい何者なのかと問われました。これは、今日のこのシンポジウム全体にとって決定的な問いであったと思います。私もこのコメントの最後でやはりこの問いに戻ってくるつもりですが、ここではひとまず、《われわれ》若手哲学・思想研究者が教育の問題、大学の問題に関心を持ち、その関心を公にしていくこと、教育界・教育学者・大学論者・官僚という哲学にとっての他者の言葉に耳を傾けると同時に、彼らにも耳を傾けてもらう場を持つこと、これがこのイヴェント=出来事の大きな意味であり、大場さんがここにいらっしゃる意義の少なくとも一つではなかろうかということを申し上げておきたいと思います。(続く)
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