Thursday, March 27, 2008

教育のパラドックス

「教育の哲学、哲学の教育」の日。『現代思想』、増頁特集《教育のパラドックス》、1985年11月号所収の木村敏+柄谷行人の対話《他者に教えること》(188-206頁)読了。幾つかポイントを。

1・「語る‐聞く」という水平で対称的な関係が成立するためには、「教える‐学ぶ」という垂直的で非対称的な関係が先行していなければならない、という例の柄谷節。むろん、「教える‐学ぶ」は「教師‐生徒」に固定されない。「そんな風に考えると、《教育》の問題も、普通そう考えられているのとは違った意味で、にわかに面白く見えてくるんです」(柄谷)。

2・「キチガイ」:「木村さんは、《気》というのは自分と汝との間にある、自分ではどうにもならない雰囲気のようなものであると書かれていたわけですが、《気が違う》というのは相手の気が違っているのではなくて、二人の関係の間で《気》が違うわけですね。だから向こうもそう思っている」(柄谷)。

3・デリダ批判:「パラドックスとか矛盾ということに、非常に重きをおくのです。しかし「語られる」領域でだけ、矛盾というのが大事になってしまうだけで、実際に生きられる領域ではそんなことはどうでもいいわけですよ」。「デリダの場合もそうなんですよ。《差延》というのは「自己差異化」であって、全部そこにもっていくんですけど、[…]神=他者を取ってしまうと、内部のほうにパラドックスを凝縮させる形を取ると思うんですよ。自己関係あるいは「自己差異化」の方にね」。

「いわば世界を一義的に論理的に明快にしようとするデリダの言う形而上学。哲学とはそういうものであり、その哲学を《脱構築》するのだと言うけれど、そうするためにはそういう哲学を前提にしなくちゃいけない。いない相手をつくってそれを攻撃しているということは、実はその人自身がそうだということなんじゃないですか」(柄谷)。前期のロゴス中心主義批判から後期のアポリア主義への動きは、たしかにこういう一面を持っている。

4・精神分析の功罪。「コミュニケーションの原型を、非対称的な「世代」に置いたということが、精神分析の功績だと思います」(柄谷)。

「つまり、治療が出来ないということではなく、また、治療が最終的な目的なのではなく、そういう《教える‐習う》というコミュニケーションの関係において人間は存在しているんだということを徹頭徹尾提起しているのが、精神分析なんじゃないかと思うんです。親子関係から始まり、医者と患者、さらに医者の教育〔教育分析〕までも、すべてそういう関係で見られている。そういうところから見た場合には、一般的なコミュニケーションというのは、虚像ではないとしても抽象的なものであるということを、精神分析は言っているように思うんです」(柄谷)。

「精神分析っていうのは物語を強制される場所なんですよ。[フロイトの「狼男」のように]別に嘘をつくつもりではなくても、どうしてもそうなるんです。結局のところ、うまい物語を自分自身が本気で納得すれば、それが治療だっていうことだと思うんです」(柄谷)。「僕の顔色を見て、木村先生はこういう話をすれば気に入るだろうということが分かるからかもしれないけど、たしかに私の興味のありそうな話をしてくれる。[…]僕らもそれに乗っかって喜んでますけど、治療はそんなことで進みはしないんです」(木村)。

ラカン派の精神分析における教育や愛の問題については、最近UTCPから刊行された

Philosophie et Education: enseigner, apprendre - sur la pédagogie de la philosophie et de la psychanalyse, UTCP Booklet 1, 2008.

所収の原和之とアラン・ジュランヴィル両氏の論考を参照のこと

5・治癒≒学習≒成長:「精神療法で患者が治った場合、精神療法をやったから治ったのか、精神療法をやっているうちに治っちゃったのか、精神療法をやったにもかかわらず治ったのか、その区別がつかないということなんです」(木村)。教育の哲学が必ず念頭に置いておくべき視点。

《親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがった出来損ないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。》(坂口安吾、「不良少年とキリスト」)

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