2.金曜日のデリダ
《脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。》(デリダ)この引用については、2007年3月7日のポスト、および2007年5月23日のポスト。
*
さて、デリダも、私の知る限り少なくとも三度(『弔鐘』、「正しく食べなくてはならない、あるいは主体の計算」と『信と知』)、ヘーゲルの「思弁的な聖金曜日」に言及しています。
が、そういった書誌的な細部を用いたこじつけなどせずとも、今日西山さんが扱ったデリダの大学論(『条件なき大学』、月曜社、2008年3月刊行予定)を一読すれば、この本は心晴れやかな日曜日の本ではなく、金曜日ないし土曜日の本であると断言できるのです。あたかもウィークデーとウィ-クエンドの間で絶妙なバランスを保ちつつ語り続けるラジオのDJのように。
「金曜日ないし土曜日」という妙な言い方をしたのは、デリダが何気なく、しかし執拗に、語っているのは日曜日や金曜日についてではなく――ただし、dimanche(p. 62)やdominical(p. 60)がまったく無意味でもない仕方で登場していることに最小限の注意は向けておく必要があるでしょう――、sabbatやsabbatiqueについて、それも否定的に語っているからです。
非sabbatの時間性
sabbatとは、「安息日」の意であり、キリスト教では「日曜日」、ユダヤ教では「金曜日の日没から土曜日の日没まで」を指します。sabbatiqueはその形容詞形で、repos sabbatiqueは「安息日の休息」であり、année sabbatiqueは「研究のために大学教授や企業の管理職に与えられる長期休暇」のことです。
では、「安息日」が『条件なき大学』に登場するのはどのような文脈においてのことでしょうか?デリダはその第四章で、来るべき人文学に対する7つの提言を行なう際に、その7番目にして最後の提言について、それも二度も、「その提言は安息日的なものではない」と断っています。
"La septième, qui ne sera pas sabbatique, tentera un pas au-delà des six autres vers une dimension de l'événement ou de l'avoir-lieu" (Jacques Derrida, L'université sans condition, éd. Galilée, 2001, p. 67).
"Au septième point, qui n'est pas le septième jour, j'arrive enfin maintenant" (p. 72).
また、第三章では、彼自身の大学論を支える論理を「《かのように comme si》の修辞学」と呼び――"comme"は脱構築の真の問題ないし標的であるとさえ言われます(p. 74)――、それはいかに似ているように見えるとしても、労働のない、「永遠の安息日の休息」「夜の来ない安息日」に満たされた社会といった来るべきユートピアを描くSF小説の論理ではない、と繰り返しています。
"La rhétorique de ce "comme si" n'appartient ni à la science-fiction d'une utopie à venir (un monde sans travail, in fine sine fine, "à la fin sans fin" d'un repos sabbatique éternel, lors d'un sabbat sans soir, comme dans La Cité de Dieu d'Augustin) ni à la poétique d'une nostalgie tournée vers un âge d'or ou un paradis terrestre, à ce moment de la Genèse où, avant le péché, la sueur du travail n'aurait pas encore commencé à couler" (p. 52).
労働時間の脱構築
デリダによるsabbatの頻用は一見すると奇妙なこだわりに見えるでしょうし、私のこだわり方も尋常でない(笑)ように見えることはよく承知しています。が、それは、時間や労働(ないし労働時間)といった概念の脱構築こそが、「哲学と大学」論を現代に通用するものにするために通らねばならない道であると、私もデリダ同様、信じているからです。
時間(heure)とは、「純粋に虚構的な数えうる単位」であり、「時(temps)を制御し、秩序づけ、数え(compte)、物語り(conte)、作り出す《かのように》」であるとすれば、講義、ゼミ、講演、あまつさえ「アカデミック・クォーター」さえもが、労働の時間によって規定されているのです。大学教員の怠慢(?)の代名詞のような時間すら、それ自身ある歴史(例えばスウェーデンの)を持っているのです(もちろん遅刻を擁護しているわけではありません)。
"L'heure reste le compteur du temps de travail hors et dans l'université, où tout, le cours, les séminaires, les conférences, se calcule par tranches horaires. Le "quart d'heure académique" lui-même se règle sur l'heure" (p. 62).
7つ目のポイントが「7日目(=日曜日)でない」と言われてしまえば、デリダのこの本を金曜的だと強弁している私たちには、5つ目のポイント――これは5日目(=金曜日)的ではないのでしょうか?――がどのようなものであるかが気になるところです。
"5. Ces nouvelles Humanités traiteraient, dans le même style, de l'histoire de la profession, de la profession de foi, de la professionnalisation et du professorat. [...] Nous assistons bien à la fin d'une certaine figure du professeur et de son autorité supposée, mais je crois, l'ai-je assez dit, en une certaine nécessité du professorat" (pp. 71-72).
「職業=プロフェッショナル」という概念の歴史――例えば、professionは必ずしもtravailともmétierとも重なりません――、「所信表明 profession de foi」の歴史、「職業化・専門化 professionnalisation」の歴史、「教授職 professorat」の歴史を再検討することを通じて、ある種の「教授」像の終焉と、彼が備えていると想定されていた「権威」の終焉を確認し、と同時に、教授職を維持するある種の必要性=必然性を確認せねばならない、というのがデリダの構想する「新たな人文学」の5つ目の、そしてprofessionという語を強調していた西山さんにとってもおそらくは最も重要な、ポイントです。
このとき、デリダは決して実生活と切り離された真理追求という日曜日的なポジションにいません。彼は、職業として、脱構築という仕事・労働に従事しており、ウィークデーにいるのです。そして、「大学は無条件的に真理を追求できるものでなければならない」というデリダの信仰告白=信条表明は、聖金曜日のpietàにも似た悲痛な響きを伴っています。これがデリダの「哲学と大学」論を金曜日的だと見なす理由です。(続く)
No comments:
Post a Comment