Sunday, March 09, 2008

哲学者の土曜日(3)日曜日のヘーゲル

1.日曜日のヘーゲル

ではさっそく大河内さん、西山さんの発表の核になる部分を振り返り、それを適宜延長することで大場さんの発表との刷り合わせを試みてみたいと思います。

大河内さんの発表「教養・体系・国家:ヘーゲルにおける大学と哲学」の中心を占める鍵概念も、何といっても有名な《生活[人生]の日曜日 Sonntag des Lebens》ではなかったでしょうか。私なら発表タイトルを「日曜日のヘーゲル」(笑)とでも名付けてみたいところです。

コジェーヴにはじまる

周知のように、「人生の日曜日」には幾つかのバージョンがあります(昨年末の日本ヘーゲル学会で入江容子さんという方が《ヘーゲルにおける「人生の日曜日」の問題》と題した発表をされています)。おそらく最も有名な例は、『美学講義』のオランダとドイツの絵画に関する章に出てくるものではないかと思われます。

《人生の日曜日こそがすべてを平等にし、邪悪なものすべてを遠ざける。これほど上機嫌になれる人間が、根っからの悪人であったり、卑しい人間であったりするはずはない》

„In dieser unbekümmerten Ausgelassenheit selber liegt hier das ideale Moment es ist der Sonntag des Lebens, der alles gleichmacht und alle Schlechtigkeit entfernt Menschen, die so von ganzem Herzen wohlgemut sind, können nicht durch und durch schlecht und niederträchtig sein.“ (ヘーゲルの言わんとするところが絵画付きで分かる重宝なサイト

« Le moment idéal réside justement dans cette licence exempte de soucis ; c’est le dimanche de la vie, qui nivelle tout et éloigne tout ce qui est mauvais ; des hommes doués d’une aussi bonne humeur ne peuvent être foncièrement mauvais ou vils » (Esthétique, troisième volume, tr. fr. par S. Jankélévitch, p. 314).

この一節が有名なのは、フランスの小説家レイモン・クノーが1951年に『人生の日曜日』という小説を発表し、その冒頭にこの一節を掲げたからです。これまたよく知られているように、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(1947年)は書き下ろされた「著作」ではなく、作家にして編集者でもあったクノーが編集出版した「講義録」でした。

コジェーヴ≒クノー(イコールではありません)の「人生の日曜日」は、「歴史の終わり」を生きる人間のシニシズムに満ちた平穏な生活を意味しています(実は『美学』にあたってみると、例えばブリューゲルの絵に見られる何とも言えない農民風のおかしみ、ほとんど動物的な陽気さ、といったほぼ完全に異なる意味で使われているのですが…)。

近々(3月10日)、マルコ・フィローニというイタリア人哲学者が同題の著書(Il filosofo della domenica. La vita e il pensiero di Alexandre Kojève, Bollati Boringhieri, Torino 2008.)刊行を機に「日曜日の哲学―20世紀フランス哲学におけるアレクサンドル・コジェーヴ」と題する講演をUTCPで行なうそうですが、何という偶然でしょうか。ヘーゲルにおける「人生の日曜日」がクローズアップされるようになったのは、少なくとも私の知る限り、まさにコジェーヴを通じてのことなのです。


日曜と日常、聖と俗

さて、しかし、大河内さんが発表で主に依拠されたテクスト「ベルリン大学教授就任講義」(1818年)に現れる「人生の日曜日」は、コジェーヴ≒クノー的なそれとはまた違ったものです。

そもそも、日常(Alltag, quotidien)と日曜(Sonntag, dimanche)の関係は、社会組織のみならず、個人の行動原理、精神構造までも少なからず規定しています。フランス語で「日曜日」を意味するdimancheがdies dominicus(主の日 jour du Seigneur)の縮約形であることから分かるように、かつて時間は教会によって支配され、超越的な原理の顕現する特別な日(Sonntag,太陽の日 jour du soleil)を中心として、一週間が組織されていました。世界創造を終えた後の安息日の休息は神聖なもの、信仰者にとっての責務であり、他のすべての日(Alltag)は、日常的なもの(alltäglich)、卑俗なものでした。

岩崎さんも言及されたotiumとnegotiumの伝統的な概念対、すなわち余暇と労働の関係に基づく古典的な「時間の政治学 chronopolitics」――むろん永井陽之助(1924年-)のそれとは必ずしも重ならない意味での――、より正確に言えば時間の生-権力があったわけです。

「ベルリン大学教授就任講義」で、ヘーゲルは日曜と日常のこの伝統的な二項対立を持ち出しています。

《最も偉大な制度のうちの一つであるのは、通常の市民生活において時間が仕事日の仕事と日曜日、つまり必要の関心、外面的な生活の仕事(そこで人間は有限な現実性に沈み込んでいる)と、人間がこの仕事を免れ、彼の目を地上から天へと向け、彼の神性、永遠性、彼の本質を意識することになる日曜日とに分けられていることである》(GW XVIII, 26)。

ただし、プロテスタンティズムの国プロイセンの「中心(Mittelpunkt)の大学」たるベルリン大学に来たことに自覚的であったヘーゲルは、純粋で「無用」な信仰生活を送る役割を担っていた僧侶に代わって、自分の他に目的を持たず、したがって「有用 nützlich ではない」真理の認識を生業とする哲学者が「日曜日」を簒奪することを強調しています。「人生の日曜日」という鍵概念が登場するのはこの文脈においてです。

《哲学との交流は人生の日曜日と見なされうる》(ibid.)。

大河内さんの主張のポイントは、ヘーゲルの「哲学と大学」論は「日曜日」(創世記)の世俗化、「日曜日の機能転換Umfunktionierung」であった、したがって伝統的な「日曜/日常」図式の顛倒でも破壊でもなく、むしろその図式が維持され、純化・脱神秘化を経て強化されさえしたということだと思います。

僧侶に代わって哲学者が「無用の用」のミサを執り行ない、そこでは厳しい脱神秘化、概念化の試練が待っている――「日曜大工」「日曜歴史家」など、アマチュア性を示すために「日曜日」という言葉が用いられることがあり、とりわけ「日曜歴史家」などの場合、ただ単に「プロではない」ということを意味するだけでなく、「利害関係から離れた、特定の教義に縛られない、自由闊達な」という含意をもつこともあります。この意味では、ヘーゲルの言う哲学教授は「日曜哲学者」だということになるでしょう。

しかし、たとえ厳しい脱神秘化や概念の試練が待っているとしても、「人間が平日働き通すのは日曜日のためであり、日曜日を持つのは平日の仕事のためではない」(ibid.)という図式は変わりません。

《大学とは社会における/から切り離された「日曜日」的存在であり、哲学とは大学における/の中でも特殊な位置にある「日曜日」である》として、「無用の用」という言説自体は批判的な検討に付されることなく維持されています。これで現代の大学に突き付けられる新自由主義的な言説に対抗できるのだろうか、と。

大河内さんは冒頭で「ヘーゲルの中に必ずしも答えがあるとは思っていない」と言われ、また最後に「日曜日も大学もかつての意味を失いつつある今、その場所を我々はどこに見出すのか」と問われましたが、それはこのような意味合いにおいてのことだったと思います。(続く)

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