今更ながらに村上さんの2007年5月4日のポストに対するレスポンスを(お忙しいさなか、レスを求めているわけではありませんので)。
村上さんには私もひとかたならぬ敬意と親愛の情を抱いています。近すぎず遠すぎず、今のような(従兄弟のような?)関係を「上方行き」の後も続けていけたら、と私の方は願っています。
村上さんとはお会いして飲んだりもするのですが、なぜかこういう話はあまりしませんね。それはプロ野球選手が飲み会で野球の話をしないのと同じかもしれません。その同じ選手が後輩の選手には経験談を話したり、アドバイスを送ったりすることはあるでしょうけれど。
このブログに書いていることの大半は、同輩や後輩に向けて書かれたものです。
ですから、村上さんの目に「前提条件にすぎないことを何も青筋立てて言わなくても」と映るのは不思議ではありません。ただ、「前提条件を論じる」のも「青筋」もこのブログの基本線なので(笑)。実物の私に会ったことのない方のために念のために言っておくと、私は普段、「青筋」な人ではないです。
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さて、《英独仏語で書くことは、普遍性に到達するための条件にすぎない》と、私も思います。それはどんな条件なのでしょうか?必要条件?十分条件?分かりません。ただ、今周りを見渡してみて、哲学する際の使用言語に対する意識が全般的にとても低い、そう思います。
したがって、《ヒンティカやビヨークが凄いのは、彼らの強烈な普遍性への意志ゆえであって、英語はそこに至るための一つのツールにすぎない》、これにももちろん賛成です。
ただ、《ヒンティカやビヨークが凄いのは、英語だからではない》、これは微妙です。英語という契機はそこまで小さくはないと思うのです。現代の偉大な自然科学者は英語で書かずともやはり同じように偉大であったとは言えません。そして私たちが従事しているのは、人文学という科学であるわけです。
ビヨークが仮に英語で歌っていなかったとしても、アイスランド語で彼女の歌世界は完璧に表現されていたかもしれません(本当はこれもそれほど確かなことではありません。あの「ビヨークな英語」も魅力の一部なのですから)。
ともあれ、世界の音楽シーンは間違いなく「ビヨークのいない世界」に変わり、ビヨークはワールド・ミュージックの棚にひっそり並ぶことになっていたでしょう。それは英語を通じてビヨークの魅力を知ることになった音楽ファンにとって耐えがたい欠落であるはずです。アイスランド語では"Tibet, Declare Independence!"もインパクトは薄いでしょうし――私はビヨークの常にpoliticalな姿勢も好きです。
この「英独仏語」という準備的な契機をふたたび強く言うのは、若手研究者が村上さんの言説を誤解して、「だから結局、日本語でまずはいいものを書けばいいんだ」という従来の不毛な二者択一(哲学力か、語学力か)に退行してしまうのを危惧するからです。
でも、一歩進んだ地点を村上さんと共に夢想してみるのも楽しいことです。最近、武満の対談選がちくま学芸文庫で出ましたね。たぶん、村上さんのおっしゃりたいのは、目指すなら武満レベルを目指せ、と。何も意識の低い者を叱咤激励して貴重な時間を浪費する必要はないじゃないか、ということでしょうか。
「世界に認知されること」以上に、「世界にどう認知されるか」が重要というのは本当にそのとおりです。つまり、到達すべき普遍性にもいろいろある、ということでしょうか。そのことを考えるための一つのきっかけになれば。 何週間か前に書いた雑文です。
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2008年2月29日付の朝日新聞夕刊に「日本的なオペラ、前面に」という小さな記事があった。
《本場の歌劇場の引っ越し公演は引きも切らず、新国立劇場は主役級に外国人歌手を並べる。そんな時代に全日本人キャストでワーグナーをやる意味は何か。答えの垣間見える公演だった》
という言葉で始まり、
《どんなにグローバリズムが進んでも、民族的形姿はついて回る。日本のオペラ界はそこを武器にしないと生き残れまい。》
と締めくくるこの記事は、いつも頭のどこかで「日本人が日本語で西洋哲学研究をやる意味は何か」と自問している私の興味を引いた。
むろん新聞の舞台評にその答えが書いてあれば苦労はしない。記事の筆者がいう「武器」とは、「日本的無常を漂わせた」簡潔な装置の中で、「日本人としては声量十分だが、欧米の名歌手たちと比べれば非力の感は否めない」歌手がヴォータンを演じるにあたって、「日本人を母に持つ[ので日本人の感性が手に取るように分かる、と言いたいのであろう]ベルギーの若い演出家」が、「考えようによっては、ヴォータンほど哀しい男もいない」という「無力な父のイメージ」を前面に押し出し、全編「大変な愁嘆場」にしてみせるというものだ。
彼の言う「民族的形姿」とはどうも「義理と人情の板ばさみに顔を歪める、まるでやくざ映画の鶴田浩二のような線の細い辛抱役は、日本人が歌ってこそ」といった「優男の悲壮感」であるらしい。これで「こちらも目頭が熱くなる」と言われても、こちらが困ってしまう。
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日本語でフィロソフィーをやる意味は何なのか。フィンランド人がフィンランド語で哲学論文を書いたとして、いったい何人の人が読むのか?英・仏・独語が世界の哲学の共通言語である。なぜ日本語でなければならないのか。何のために?誰に読んでもらうために?哲学が科学性・客観性・真理などのために必ずや「普遍」を通過するものならば、より開かれた言語で書くのが哲学者の「義務」でもあるだろう。
デカルトやスピノザがラテン語で書いたように。フィンランド人のヒンティカが英語で書くように。デリダやフーコーが時折英語で話し、書くように。ドゥルーズが自分の書く言語に無頓着でいてもよかったのは、彼がフランス語という比較的メジャーな哲学言語の使用者だったからである。
学生のため?哲学ファンのため?自然科学者は、苦手であっても英語でペーパーを書き、日本語で授業をし、日本語で啓蒙書を書くではないか。なぜ人文科学者はもっぱら日本語で書くのか?
ここしばらく私が日本語でばかり論文を書いているのは、きわめて哲学外在的な理由によるのであって、今のところ、私には日本語で哲学・思想研究を行なう明確な哲学的理由が見つけられていない。
逆に問おう。「日本の哲学」とは何か?「日本的な哲学」とは何か?日本語で書かなければ、あるいは日本の思想家について書かなければ、日本の哲学ではないのか?日本人がやるから日本の哲学なのか?「日本的」とはどういうことか?これもよく分からない。
日本的なオペラ=歌舞伎(あるいは大衆演劇、あるいはやくざ映画)というほど単純なものでないことは確かだ。歌舞伎は日本のオペラにあたるといっていいと思うが、日本的なオペラが必ずしも歌舞伎的なものでなければならないということはない、ということである。
性急に答えを見つけようとして見つかる類の問いでもないだろうし、また実践を伴わない抽象的な「机上の空論」をして見せるつもりもない。自分の研究の歩みを進めることで自分なりの答えを探しつつ、倦まず弛まず問いの形を洗練していきたい。いつの日か満足な答えをその問いに与えられれば。
1 comment:
こんばんは。ばたばたしていてきちんとしたお返事ができなくてすみません。落ち着いたときに考えてみます。
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