体を騙し騙し、イヴェントに出席。
3月17日、水月昭道、『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』に関するワークショップに参加。
3月22日、日仏哲学会に出席。
3月23日、ベルクソン哲学研究会に出席。
3月24日、村上靖彦さん『現象学者レヴィナス』(Lévinas phénoménologue, éd. Millon, coll. "Krisis", 2002)書評会に参加。
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ベルクソン研究の日。引き続き、有限性概念を考察する。
ハイデガーと言えば「死に臨む存在」――そう思い込んでいる人は少なくないはずだ。だが、『存在と時間』は、自らが答え得ていない問いの存在に少なくとも意識的である。
《しかしながら、死は何といっても現存在の《終末》にすぎない。それは、形式的に見れば、現存在の全体性を差し挟んでいる一方の末端にすぎない。もう一方の《末端》はというと、それは《発端 Anfang》――すなわち《誕生 Geburt》である。
そして誕生と死との《間に》わたる存在者であってはじめて、求められた全体の姿を示すのである。このように見ると、われわれの分析論の今までの見通しは、いかに明確に実存する全体存在を指向していたにしても、また本来的および非本来的な《死へ臨む存在》を一義的に解析していたにしても、なお《一面的》にすぎなかったわけである》(第72節)。
"Allein der Tod ist doch nur das "Ende" des Daseins, formal genommen nur das eine Ende, das die Daseinsganzheit umschließt. Das andere "Ende" aber ist der "Anfang", die "Geburt".
Erst das Seiende "zwischen" Geburt und Tod stellt das gesuchte Ganze dar. Sonach blieb die bisherige Orientierung der Analytik bei aller Tendenz auf das existierende Ganzsein und trotz der genuinen Explikation des eigentlichen und uneigentlichen Seins zum Tode "einseitig""(S. 373).
要するに、「始まりに臨む存在 das Sein zum Anfang, l'être pour le commencement」とでも言うべきものの分析を欠いては実存分析が完了したことにはならない、とハイデガー自身が言明しているわけである。
しかしながら、先に引いた第72節のもう少し先で、ハイデガーは、誕生という契機を死の契機へ、さらには関心としての現存在の存在へと還元してしまう。
《事実的な現存在は、誕生せるものとして実存しており、また誕生せるものとしてすでに――「死に臨む存在」という意味で――死に至っているのである。誕生と死というこの《両端》とそれらの《間》とは、現存在が事実的に実存している限りは、現に存在している。そしてそれらは、ほかでもなく、関心としての現存在の存在に基づいている可能なるただ一つのありさまで存在しているのである。》
"Das faktische Dasein existiert gebürtig, und gebürtig stirbt es auch schon im Sinne des Seins zum Tode. Beide "Enden" und ihr "Zwischen" sind, solange das Dasein faktisch existiert, und sie sind, wie es auf dem Grunde des Seins des Daseins als Sorge einzig möglich ist" (S. 374).
[一文目だけMartineauの訳文を挙げておく。
"Le Dasein factice existe nativement, et c'est nativement encore qu'il meurt au sens de l'être pour la mort" (p. 259). ]
『存在と時間』は、「現存在と時間性」と題された第二篇の冒頭(第1章)で「全体性 totalité」と「死 mortalité」という二つの異なる問題系を融合している。ポール・リクールは、『記憶、歴史、忘却』(2000年)の中でこの章を「節目になる章 chapitre nodal」と呼び、この融合に違和感を隠せない、としている。死のテーマ系にこだわりすぎることで、可能的存在のその他の側面へ接近する道が閉ざされてしまうのではないか、というのである(p. 465)。
リクールは、『存在と時間』における死に対する態度の「最も強力な弁護 le plus vigoureux plaidoyer」(p. 465)としてダスチュールの『死』(1994年版)を挙げ、自身はジャン・グレーシュとともにハンナ・アレントが用いた「出生性 Gebürtigkeit, natalité」のテーマに目配せを投げかけている。
リクール自身は、アレントの「出生性」を喚起しておきたい、とだけ述べて(いつものように?)素通りしているが、ダスチュールは『死』の2007年版において、この問題を自分のものとして引き受け、わずかではあるが展開している(pp. 168-169)。
だが、徹底的なハイデガー主義者であるダスチュールは、なぜ誕生より死を存在論的に優位のものと見なすのかについて、結局のところ明確な解答を与えることが出来ない。
《考慮に入れていなかったとハイデガー自身が認めているこの「始まりに臨む存在」に関する説得力に富んだ分析が、ハンナ・アレントに見出されるということには、したがってまったく疑いの余地はない。にもかかわらず、行動、とりわけ政治的行動は、可死性のパースペクティヴにおいてもまた考察されることを要請していないかどうか自問することは許されよう》。
"Il ne fait donc nul doute que l'on trouve chez Hannah Arendt une analyse convaincante de cet "être pour le commencement" dont Heidegger reconnaît qu'il ne l'a pas pris en compte. On peut cependant se demander si l'action, et en particulier l'action politique, n'exige pas d'être également considérée dans la perspective de la mortalité" (p. 169, nous soulignons).
ここでダスチュールを離れて、アレントの著作に直接取り組むことにしよう。(続く)
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