昨年9月頃に思っていたこと。
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最近「これは話しておかないと」と思うことが少ない。「それより自分の研究をどうにかしないと」と思う。それでも、「業界」に対する視線というものはあるし、それは忘れてはいけないと思っている。そういうスタンスで綴ることにすれば、少しは書けるかもしれない。
《藤井システム 崩壊の危機》という新聞記事(2008年9月9日付朝日新聞夕刊)の一節。
「昔は新手の引き出しがたくさんあった。危機が訪れたのは渡辺竜王や村山五段ら研究好きの世代が出てきた最近5年くらい。研究のスピードが恐ろしく速くなった。昔は研究は自分一人でやるものだったが、最近はグループで調べた内容がメールなどを通してすぐに広まる。1回指した手順がすぐに研究され尽くしてしまう」(藤井九段)
まだまだベルクソン研究はそこまでは行っていないのだが、しかしその予兆は明らかにある。ごく少数だとしても、我々の世代の意識的な人々の間では、研究の手順が一段階上がったと感じる。
ただ、ベルクソンに限らず、哲学研究では、まだまだ「研究書(二次文献)なんか」という「原典至上主義」も根強い。だが、このような考えは、結局のところ自分の活動(研究)自体を否定するようなもの(あるいは自分を大哲学者と見なすようなもの)ではないか。個人の信条とするのは自由だが、一般論として語られうるものではないように思う。
たとえ過去の大哲学者がそういう身振りを見せているとしても、私たち現代の思想研究者がそれを真似るのは意味が違う。「昔は練習なんかせずに、二日酔いで試合に出てホームランを打った」といった類の話を信じるのと同じである。それが事実であったかどうかなどどうでもよい。現代スポーツにそんな感覚は通用しないと言っているのである。
論文集や雑誌を読むとき、我知らず西洋人のものから読み、アジア人やアフリカ人のものを後回しにしてはいないだろうか?おそらくそんな「順序」に気付きもしなかったという西洋哲学研究者がほとんどだろう。だが、ここにも先ほどと同じ無意識の「(自己)否定」が働いているのだ。それに対する「精神分析」的介入を行なうために、今年のベルクソン・シンポジウムは企画されている[シンポ前に書いていたので現在形]。
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