Wednesday, February 25, 2009

ポスト・ドゥルーズ的方向性の模索(ベルクソン研究における)

『フランス哲学・思想研究』の最新号がようやく届いた。

『創造的進化』百周年を記念して世界各地で行われた会議に関する私の報告は、本来書くべき人が辞退し、頼まれてやむなく書いたものであることを明言しておく。



鈴木さんの『ベルクソン読本』書評、これもまた状況に押されて書かれたとはいえ(あるいはそのゆえにいっそう)、非常に目配りの利いたものである。

1990年代以降の(「ここ数十年」(151)という引用は誤記である)ベルクソン研究の世界的な動向を「ポスト・ドゥルーズ的方向性の模索」と特徴づけた私の小文に対し、鈴木さんは日本の研究の現時点での到達点を示すこの『読本』にはそれが欠けている点を鋭く指摘している。

《本書[『読本』]において印象的であるのは、ドゥルーズによるベルクソン解釈とは別の方向への読解の力強さと、檜垣論文を唯一の例外として、ベルクソン・ルネサンスの起爆剤の一つであったはずのドゥルーズによるベルクソン解釈との本格的な対峙とそこからの創造的な引き延ばしの作業の不在である。「ポスト・ドゥルーズ的方向性の模索」を内実あるものにするためにも必須のその作業には未だ機が熟していないということであるかも知れず、特により若い世代の研究課題として何時の日か本書の続刊にこそ結実するものであることをドゥルーズ読みの一人としては願う。》(同)

「ポスト・ドゥルーズ的方向性の模索」は、いずれヘーゲル的な理性の狡知が不可逆的な仕方で達成するはずの方向性であり、現時点ですべてのベルクソン研究者に共有された問題意識ではない。現時点では少なからぬベルクソン研究者が依然として完全にドゥルーズ的な問題設定の内にあるか、それ以前的であるかであることは否みがたい事実である。

そもそも、日本に限らず、人文系の研究者には、流行りの思想あるいは伝統的・制度的にコード化された(哲学科的・倫理学科的・仏文科的などなど)テーマ設定にうっかり乗るか、自分のきわめて個人的な(しかも恣意的な)主題選択にこだわるかする人がきわめて多く――無反省的で享楽的な研究姿勢が悪いと言っているのではまったくなく、そのような姿勢ばかりであることが問題だと言っているのである ――、しばしば「今この研究分野の地平そのものを刷新するために研究されるべき問題」といった視点が欠けている。

「ポスト・ドゥルーズ的方向性の模索」はその種の「今この研究分野の地平そのものを刷新するために研究されるべき問題」である。

ヘーゲル的な理性の狡知といったのは、いずれにしても時間が経てば個人の嗜好や思惑を超えて模索が開始されるものというほどの意味で、それは鈴木さんの指摘する「ドゥルーズによるベルクソン解釈とは別の方向への読解の力強さ」の中にすでに胚胎しているかもしれない。

しかし、それを「未だ機が熟していないかもしれない」現時点で意識化するためには、もっと直接的に「ドゥルーズによるベルクソン解釈との本格的な対峙とそこからの創造的な引き延ばしの作業」が必要である。

我々の日本ベルクソンプロジェクト(Project Bergson in Japan 2007-2009)の力線の一つがまさにこれであり、カミーユ・リキエは2007年度シンポに関してCritique誌(2008年5月)で、私の名を引きつつ、Bergson (d') après Deleuze(ドゥルーズによる/ドゥルーズ以後のベルクソン)を模索する動きが日本でも始まっていることを指摘してくれたのだった。2008年度シンポに引き続き、今年度(2009年度)もこの線を探っていく。

「ポスト・ドゥルーズ的」という言葉は、構成的であると同時に統整的であり、事実確認的であると同時に行為遂行的である。



「研究の方向性を考える」ということは、「大きなことばかり言って、具体的な問題を考え抜くということをしない」ということを意味しない。個別的で具体的な問題を扱っていく以外に研究の地平の刷新などありはしない。

研究をするということと、研究環境に働きかけるということは同じことではないにしても、無関係のことではない。

逆に、研究の方向性を考えないことと業界の方向性を考えないこと――エクスキューズとしての(行動しないための)中立主義・客観主義・無関心主義・似非禁欲主義――もかなりの程度相関している。

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