Saturday, February 07, 2009

青空

「雲ひとつない」という形容がぴったりの気持のよい青空が広がっていた。冬から春に向かうとき、こんな一日がある。確実に春の訪れを感じられる一日。

今日、初級フランス語の学年末テストを実施して、今年度最後の授業を終えた。何人かの学生たちがお礼を言いに来てくれて、「大学で勉強するっていうことがどういうことか、教えていただいてありがとうございました」と言ってくれたのはとても嬉しかった。



以下、自分の授業に関する単なる(とはいえ授業のさらなるレベルアップにとっては不可欠な)備忘録なので、長いです。



このクラスは、私が引き継いだ時点でかなり崩壊気味であった。前期最後の授業に参観に伺ったのだが、誇張抜きで衝撃的であった。四十人の初級語学クラスに十数人いるかいないか。しかもほぼ全員教室の後ろに陣取り、少なからぬ学生が私語している。これらを指して衝撃的だと言っているのではない。おそらく出席点ほしさにであろう、授業終了間際に五六人の学生が教室に入ってきて、堂々とゲームをやったり、別の授業のプリントを読んでいたことにショックを受けたのである。有力な国立大学での話である。

これはかなりまずい。対策を考えた。まず、電気ショックを与え、前期の雰囲気を一気に払しょくすること。学生のメンタリティは中高生レベルに見えたので(少なくともこのときはたしかにそう見えた)、クラス立て直しのために「高校の厳しい(けどちょっと面白いかも)先生」風の口調に変え、学生との距離感をかなり詰めるように意識した。テストで最高得点をとった学生はアンケートに「前期よりまじめに勉強が出来てすごく良かったです。ありがとうございました。今の大学生にはそのスタイルが必要ではないか、とも思いました」と書いてくれていた。「先生の中級の授業をとりたいのですが」、そう言ってくれた子もけっこういたので、まったく的外れなわけでもなかったと胸をなでおろしている。彼らを続けて指導してあげられないのは残念だが、距離の問題はいかんともしがたく…

(ちなみに、授業中の口癖で「難しい」「ややこしい」「複雑」と言い続ける先生がいるが、これは大変良くない。「簡単」「単純」「余裕」と言い続け、実際の説明も最初は思い切って図式化し、単純なイメージを与え、それが定着したのを見計らって、後で細かいニュアンスを与えていけばいいのである。本当に難しいことまで簡単と言いくるめる必要はないが、よほどのことでないと難しいとは言わないというくらいの気構えが必要である。こんなことは教育のイロハだが。)

初回の授業は、教室に入るなり、学生たちを学籍番号順に並べ替えさせ、二十分くらい強面で延々と説教してから授業に入った。それから数回、学生たちはふくれっ面だったが、こちらはダテに十数年さまざまな教師歴を重ねてきたのではない。6歳から66歳まで教えてきたのである。くすぐりや冗談を入れて場を和ませ、授業にもスピード感とメリハリをつけるよう努力した。授業にノリがあって、学習の進展が少しずつでも実感されれば、学生は自然と勉強するようになる。

一番多かった感想はこの点に関するものである。「先生に代わってから最初はめんどいと思ったけど、なんだかんだ楽しかったです!」「最初はただきついだけでしたが、わかるようになってくると意外と楽しかったです。」「あまりにギャップがあったので最初はキツかったけど、タメになりました。」「授業の後半から理解が深まって、フランス語が楽しくなりました。ありがとうございました。

もちろん、ここで気を緩めてはいけない。こちらが気を緩めたと見るや、学生も気を緩める。そこで「運動性」以外に、もう一つ重視したのが、「統一性」と「体系性」である。これは、一年間のカリキュラムをすべて記載した日程表の配布に始まり、毎回の授業の内容をまとめたレジュメを次の回の冒頭に配布して、前回やったことの確認から授業を始めるという構成をとることで、「すべてプログラムされているんだ」という印象を持たせ、「今自分はどういう理由で、何を学んでおり、それは全体の行程の中のどのあたりに位置するのか」を常に意識させる、ということである。何回かに一度は必ず全体の日程表を取り出させ、それを確認させた。「分かりやすくて、レジュメを毎回配ってくれるのがうれしい」「最初は厳しいし恐そうだと思って嫌だっだし、フラ語もできないから授業もすごく嫌だったけど、先生は厳しさの中に優しさがあって、私たちがフラ語上達するようにしっかりカリキュラム組んでくれているんだということに気づいてからは先生好きになって宿題とか小テスト勉強もちゃんとやるようになって、フラ語も楽しくなってきました。

さらに、各講間の連関にも気を配った。毎回小テスト(語彙・前回学んだ動詞の活用・例文の暗記)に加えて、3課(6講)に一度、理解度確認テストをやることで、それらの項の有機的な連関が即物的に実感されるよう配慮した。採点は、すべてこちらでやると大変なので、期末以外は学生たちに他の学生たちのものを自己採点させた。それに、採点に責任感を持たせるように仕向けると、解答・解説にもより耳を傾けるようになるし、何より採点が復習にもなる。

さらに、これは賛否両論あると思うが、小テストや中間テストの点数を実名入りで全員に公表し、毎回の順位変動を示した。これは先のショック療法の応用編である。「まあ正直、自分はやればできると思っていましたが、あのEランクの発表がなければやる気すら起きなかったかもしれません(笑)。はっぱかけていただきどうもありがとうございました」という感想を書いた学生もいた。

熱烈なラブレターのような讃辞をくれた子もいたが(ありがとね)、一番的確な(笑)印象を記してくれた学生の感想を少し長いが引用しておこう。

4か月少しという短期間ではありましたが、どうもありがとうございました。毎回の宿題や単語のテストは負担ではありましたが、なぜかそのおかげで生活にメリハリがつき、後期は他の授業も含め、ほとんど休むことがなくなりました。
 授業中もめちゃくちゃだった発音を直して下さったり、頻繁に指名をして集中力を欠かないようにとの配慮をして下さったので勉強へのモチベーション維持をすることができました。前期のままだったら、『一年間フランス語を勉強した』とはとても言えない状況でうやむやに終わってしまっていたでしょうが、後期先生に教えていただいたおかげでとりあえず基礎力はつけることができたと思います。本当にありがとうございました。今後機会があれば、是非フランスに行ってみたいです。(恋愛論、とても面白かったです!)




良いことづくめだったとはもちろん思っていない。最後まで無表情(に見える)な学生もいなかったわけではないし、次のような要望を書いてくれた子もいた。

・参考の(レジュメに載っている)問題集の一つが、単語が難しくわかりにくかった。
・フランスのこと(文化など)をもっと話してほしかった。


なかなか文法以外の時間はとれないのだが(とりわけ今回は崩壊を救うために前期の復習に4回分の授業を費やしたのでなおさら時間がなかったのだが)、シャンソンや絵本に絡めてたとえ1分でも文化の話をすればよかったかもしれない。件の問題集は『解説がくわしいフランス文法問題集』(白水社、1999年)で、帯にも「初級から中級へ――絶妙の橋渡し」とあるが、たしかに単語や構文が今の初級学習者には複雑すぎた。しかし、解説は要点を掴んでいるので、例文だけ別のものを与えれば使える。

もう少し読み物をやりたかったとか、毎回ひとつ日常会話に役立つキーフレーズを暗記させればよかったとか、自分なりの反省点もある。これらは次にフランス語を教えるときの課題である。次年度はフランス語は一つもなく、哲学関係の授業ばかりで、今はこちらに知恵を絞っている最中。



初級フランス語は初級文法を教え込むだけでせいいっぱいだが、一応「読む・書く・話す・聴く」の初歩を習得させるというのが私なりの目標なので、その点も努力した。「書く」というのは文法問題を解くだけではなく、短文レベルの仏作文までやらせた。

「読む」は、『ガスパールとリザ』という流行りの絵本――朝のNHK教育テレビを子供と一緒に見ている人は知っていると思うが、『うっかりぺネロぺ』と同じ作者の作品である――をゆっくりと一冊読ませ(半過去と代名動詞の復習に効果的)、最後の授業ではスタンダールの『恋愛論』の有名な「結晶化」のくだりを読ませた。「活用とかいっぱいあって、覚えるの大変だったけど、最後のほうになると、だんだん文章が読めるようになってきて、フランス語が少し面白くなったし、達成感があった」。そう、達成感は語学の地道な勉強を通して確実に得られる快感だ。それは多くの学生に分かってもらえたのではないかと思う。

「話す」は、特に発音の矯正にかなり力を注いだが、四十人近くの学生(そう、後期は常時三十数人いた)一人一人の発音を直すのはかなり骨の折れる作業だ。「聴く」は、付属のCDのディクテ以外には、私のフランス語をなるべく多く聴かせ、そして時間の許す限り、文法事項に合ったシャンソン(「そして今は」「行かないで」「枯れ葉」など)を聴かせた。これらは多くの先生方がやっていらっしゃることだと思う。


しかし、何か足りない。ずっとそう感じていた。勤勉の報酬としての達成感以上の何か。爽快感、高揚のような何か。一年でフランス語を離れてしまうほとんどの学生にとって、何か思い出になるような体験をさせてあげたい。せっかくフランス語を学んでも一度も使う機会もないまま忘れていくのではもったいない。そこで、フランス人の友人にお願いして、一度教室に来てもらうことにした。その前の回に学生に自己紹介や会話の例文をあらかじめ練習させておいて、当日はそこから少し発展させて、なんとか会話の真似事をしてもらったのである。彼らが最も大きな声でいきいきと発音練習に参加したのは実にこの授業のときであった。

中級や上級を教えていても思ったのだが、学生のほとんどはフランス語を常時使う職業に就くことはない。もちろん文法事項の確実な習得も大切なのだが、彼らにとってさらに大切なのは、「体験」ではないか。中級の教科書はしばしば文化的トピックの幕の内弁当である。それを一概に悪いとは言わない。しかし、見回してみてそういう授業が大半を占めていることに気づき、私は偉大な思想家・作家のなまの文章を読ませたいと思った。それで、中級では大学論、上級では結婚論のアンソロジーを組んだのである。いつか年をとった時たぶん文化的トピックは忘れているだろうが、「そういえば、無理やりモリエール読まされたよな」、そういう体験は、まさに衝撃として、ショックとして、残るのではないか。

大学は文化的なショックを与えるところだ。知の離乳食ばかりを与えるべきではないし、与えられて満足しているべきでもない。そう思う。今日別れを告げた一年生たちに少しはそのことが分かってもらえたのであればいいのだが。

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